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木曜日の午後

# 木曜日の午後


木曜日の午後二時。店内には二組の客がいた。


窓際には常連の笹木さんが一人で本を読んでいる。そして奥のテーブルには、六十代くらいの男性が二人。初めて見る顔だ。


私はカウンターで、静かにグラスを磨いていた。


「いやあ、知ってるかね」男性の一人が、やや大きな声で言った。「人間の細胞って、七年で全部入れ替わるんだよ」


「ほう、そうなのか」


「そうなんだ。だから、七年前の自分とは、もう別人なんだよ」


「へえ、面白いな」


私は手を動かしながら、何気なく聞いている。


「それでね、これは科学的に証明されてるんだが」男性は自信満々だ。「人間は脳の十パーセントしか使ってないんだそうだ」


「十パーセント?」


「そう。残りの九十パーセントは、眠ったままなんだ」


「もったいないな」


「だろう? だから、瞑想とかすると、もっと使えるようになるらしい」


笹木さんが、ちらりとこちらを見た。私は目を合わせないようにする。


「それから」男性は続ける。「水は一日二リットル飲まないといけないんだ」


「二リットル?」


「そう。人間の体は六十パーセントが水分だからね」


「なるほど」


「飲まないと、毒素が溜まって、病気になる」


「怖いな」


私はグラスを棚に戻し、次のカップを手に取った。


「あとね」男性の話は止まらない。「人間の舌って、場所によって味が違うんだよ」


「場所?」


「そう。舌の先が甘味、奥が苦味、横が酸味とか塩味」


「へえ」


「だから、コーヒーを飲む時は、舌の奥で飲むといいんだ」


私は思わず手を止めそうになった。それは、古い誤解だ。でも、何も言わない。


「勉強になるなあ」もう一人の男性が感心している。


「だろう? 俺、健康オタクでね。いろいろ調べてるんだ」


「詳しいんだな」


「まあね」


笹木さんが、本から目を離さずに、小さく首を振った。気づいているのだろう。


「それから」男性はコーヒーを一口飲んで続けた。「ビタミンCって、体に溜められないんだよ」


「溜められない?」


「そう。だから、毎日サプリで摂らないといけない」


「ふむ」


「俺は一日三千ミリグラム飲んでる」


「三千!」


「ああ。多ければ多いほどいいんだ。余った分は尿で出るから、害はない」


私はカウンターの奥で、豆の在庫を確認し始めた。


「あとね、これは最近知ったんだが」男性は声を落とした。「砂糖って、麻薬より中毒性が高いんだよ」


「本当か?」


「本当だ。だから、俺は一切摂らない」


「すごいな」


「健康のためだ」


笹木さんが、会計を頼みに来た。


「ありがとうございました」


私がレジを打つと、笹木さんは小声で言った。


「マスター、我慢強いわね」


「慣れてますから」


「でも、あの人たち、間違ったこと言ってるわよ」


「そうですね」


「訂正しなくていいの?」


「必要ないでしょう」


笹木さんは少し考えて、頷いた。


「そうね。幸せそうだものね」


「ええ」


笹木さんが出て行った後、男性たちの会話はまだ続いていた。


「そうそう、血液型でね、性格が分かるんだよ」


「ああ、それは聞いたことある」


「A型は几帳面、B型はマイペース、O型はおおらか、AB型は変わり者」


「俺、B型だ」


「だろうと思ったよ。マイペースな感じがする」


「当たってるな」


私は新しいコーヒーを淹れ始めた。豆を挽く音が、静かに響く。


「それから」男性はまだ話し続ける。「人間はね、寝てる間に記憶が整理されるんだ」


「ほう」


「だから、試験の前は、勉強したことを寝る前に復習するといい」


「なるほど」


「俺の孫にも、そう教えてるんだ」


「いいおじいちゃんだな」


「まあね」


私は二人にコーヒーのおかわりを聞いた。


「ああ、お願いします」


「かしこまりました」


新しいコーヒーを淹れながら、男性の話は続く。


「あとね、これは大事なんだが」


「うん」


「電子レンジって、栄養を壊すんだよ」


「え、そうなの?」


「ああ。マイクロ波が、分子を破壊するんだ」


「知らなかった」


「だから、俺は使わない」


「徹底してるな」


私はコーヒーを二人に出した。


「ありがとう」


「どういたしまして」


カウンターに戻ると、ドアベルが鳴った。


入ってきたのは、先週の大学生だ。


「こんにちは」


「いらっしゃい」


「今日も卒論の調査で」


「どうぞ」


学生はカウンターに座った。


奥のテーブルから、また声が聞こえてくる。


「そういえばね、最近読んだんだが」


「うん」


「人間の記憶って、実は曖昧なんだって」


「曖昧?」


「そう。思い出すたびに、少しずつ変わっていくらしい」


「へえ」


「だから、昔の記憶って、実は作り話かもしれないんだ」


学生が、興味深そうに耳を傾けている。


「それは」学生が小声で私に言った。「本当ですね」


「ん?」


「記憶が変わるって話。心理学で習いました」


「そうなんですか」


「ええ。あの方、たまに正しいこと言いますね」


「そうみたいですね」


男性の話は、まだ続いている。


「だからね、昔の恋愛とか、美化されてるんだよ」


「ああ、分かる気がする」


「実際は、そんなに良くなかったのかもしれない」


「そうかもな」


二人は笑った。


学生が私に尋ねた。


「マスター、ああいうお客さん、よく来ますか?」


「たまに」


「訂正しないんですか?」


「しませんね」


「なんでですか?」


「さあ」私は考えた。「楽しそうだからじゃないですか」


「楽しそう?」


「ええ。知識を披露して、相手も感心してる。それでいいんじゃないかと」


「でも、間違ってますよ」


「間違ってるのと、幸せなのと、どっちがいいですか?」


学生は黙った。


「難しいですね」


「そうですね」


男性たちは、会計を頼んできた。


「ごちそうさん。いい店だね」


「ありがとうございます」


「また来るよ。友達にも勧めておく」


「お待ちしてます」


二人が出て行った後、学生が言った。


「あの人たち、また来るんですかね」


「どうでしょう」


「来たら、また間違ったこと言うんでしょうね」


「かもしれませんね」


「マスターは、また黙って聞くんですか?」


「そうですね」


学生は笑った。


「面白いですね、この仕事」


「そうですか?」


「ええ。コーヒー淹れるだけじゃないんですね」


「そうかもしれません」


私は学生にコーヒーを出した。


「ありがとうございます」


静かになった店内で、学生はノートを開いた。


私はカウンターの奥で、また作業を始める。


木曜日の午後。


正しいことも、間違ったことも、この店では等しく流れていく。


それでいいのだと、私は思う。


そう、それでいいのだと。


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