水曜日の昼下がり
# 水曜日の昼下がり
水曜日の昼過ぎ、店内には三組の客がいた。
カウンターには常連の吉村さん、窓際には初めて見る若い男性、そして奥のテーブルには五十代くらいの女性が二人座っている。
私はカウンターの奥で、静かに新しい豆を袋詰めしていた。
「ねえ知ってる?」奥のテーブルから、やや大きめの声が聞こえてきた。「コーヒーって、実はダイエットに最高なのよ」
「へえ、そうなの?」
「そうなのよ。一日十杯飲めば、何もしなくても痩せるんだって」
私は思わず手を止めそうになったが、何食わぬ顔で作業を続けた。
「十杯? すごいわね」
「でしょ? テレビでやってたの。カフェインが脂肪を燃やすんですって」
「じゃあ、私も飲まなきゃ」
吉村さんが小さく咳払いをした。私と目が合う。私は軽く首を横に振る。余計なことは言わない。
「それでね」女性の声が続く。「コーヒーって、もともとは薬だったらしいのよ」
「薬?」
「そう。エジプトで発明されたんだって」
「へえ、エジプト」
「クレオパトラも毎日飲んでたらしいわよ」
私は豆を袋に詰める手を動かし続ける。エチオピアだ、とは言わない。クレオパトラの時代にコーヒーはない、とも言わない。
「それで、美貌を保ってたのね」
「そうそう。あと、頭も良くなるんだって」
「頭も?」
「うん。アインシュタインも、一日二十杯飲んでたらしいわよ」
「二十杯!」
吉村さんが、また私を見た。私は目を逸らす。
窓際の若い男性が、スマートフォンで何か調べ始めた気配がある。気づいたのかもしれない。
「ねえ、そういえば」もう一人の女性が言った。「コーヒーって、どこで育つの?」
「ああ、それも知ってるわよ。寒いところよ」
「寒いところ?」
「そう。北欧とか」
私は深呼吸する。いや、熱帯だ。赤道近くだ。でも言わない。
「へえ、意外ね」
「でしょ? だから、フィンランドとか、ノルウェーとかが産地なの」
「そうなんだ」
吉村さんが小声で言った。
「マスター、いいの?」
私は小さく首を振る。吉村さんは苦笑した。
「あとね」女性の声が弾んでいる。「コーヒー豆って、実は豆じゃないのよ」
「え、豆じゃないの?」
「うん。木の実なの。リンゴみたいな」
「へえ」
「だから、コーヒーリンゴって呼ぶ人もいるらしいわよ」
私は袋詰めを終え、棚に並べ始めた。手を動かしていれば、気にならない。気にならない。
「勉強になるわね」
「でしょ? 私、コーヒー好きだから、いろいろ調べたのよ」
「詳しいのね」
「まあね」
吉村さんが耐えきれなくなったのか、カウンターから立ち上がった。
「あの、すみません」
「はい?」女性たちが振り向いた。
「コーヒー、好きなんですね」
「ええ、大好きよ」
「そうですか」吉村さんが笑顔で言った。「実は僕も詳しいんですよ」
私は内心、やめろと思ったが、吉村さんは止まらない。
「コーヒーって、エチオピアが原産なんですよね」
「え?」女性が首を傾げた。「エジプトじゃなくて?」
「ええ、エチオピアです。で、豆は種子なんですよ。果実の中の」
「そう、なの?」
「はい。で、栽培は熱帯地域で」
女性の顔が少し赤くなってきた。
「あら、そう」
「ええ。北欧では育たないんです」
「そう、なんだ」
気まずい空気が流れた。
私は吉村さんに目配せする。もうやめろ、と。
吉村さんも気づいたのか、慌てて席に戻った。
「すみません、余計なこと言って」
女性たちは小声で話し始めた。
「恥ずかしい」
「いいのよ、誰だって間違えるわ」
「でも、自信満々に言っちゃった」
「気にしない気にしない」
私はカウンターに戻り、吉村さんに小声で言った。
「余計なことを」
「だって、あまりにも」
「放っておけばよかったんです」
「でも」
「訂正されて、恥ずかしい思いをするのは、あの人たちですよ」
吉村さんは黙った。
窓際の若い男性が、会計を頼んできた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
男性が出て行った後、吉村さんが言った。
「マスター、怒ってる?」
「怒ってませんよ」
「でも」
「ただ」私はカップを磨きながら言った。「間違ってても、幸せならいいじゃないですか」
「でも、間違ったまま覚えちゃうでしょ」
「それで困ることもないでしょう」
「うーん」
奥のテーブルから、また声が聞こえてきた。
「ねえ、気を取り直して、また来ましょう」
「そうね。ここのコーヒー、美味しいし」
「でも、今度は調べてから話すわ」
「いいのよ、間違えても」
二人は笑いながら、会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
女性たちが出て行った後、店内は静かになった。
吉村さんが申し訳なさそうに言った。
「マスター、ごめん」
「いいですよ」
「でも」
「吉村さんは、正しいことを言っただけです」
「うん」
「ただ、正しいことが、いつも必要なわけじゃない」
吉村さんは黙ってコーヒーを飲んだ。
「難しいな」
「そうですね」
私も自分のコーヒーを淹れた。
正しさと、優しさ。
どちらが大切か。
そんなことを考えながら、私は静かにコーヒーを飲んだ。
水曜日の昼下がり。
何気ない出来事が、ふと心に残る。
そんな日もある。




