火曜日の午後
# 火曜日の午後
火曜日の午後三時。店内には四人の客がいた。
窓際には常連の老夫婦、奥のテーブルには三十代と思われる女性が二人。私はカウンターの奥で、静かにカップを磨いている。
「ねえ、本当に言った方がいいと思う?」
奥のテーブルから、女性の声が聞こえてきた。
「言わなきゃ分からないでしょ」
「でも、今更って思われるかな」
私は手を動かしながら、何気なく耳を傾けていた。こういう時は、聞いているのか聞いていないのか、曖昧な態度がいい。
「今更じゃないわよ。むしろ、今だからこそでしょ」
「そうかな」
「そうよ。私が母さんに『ありがとう』って言えたの、三十過ぎてからだもん」
「え、そうなの?」
「うん。それまで恥ずかしくて言えなくて」
窓際の老夫婦も、静かに会話をしている。
「あれ、いつ買ったんだっけ」
「さあ。もう覚えてないわね」
「四十年くらい前かな」
「もっと前じゃない? 結婚する前よ」
「そうだったか」
私は新しいコーヒーを淹れ始めた。豆を挽く音が、静かに店内に響く。
「でもね」奥のテーブルの会話が続く。「なんて言えばいいか分からないのよ」
「難しく考えすぎよ。『お母さん、いつもありがとう』でいいじゃない」
「それだけ?」
「それだけで十分」
「でも、お母さん、照れくさがるかも」
「照れればいいじゃない。可愛いわよ」
二人の笑い声が聞こえた。私はドリッパーにお湯を注ぐ。ゆっくりと、円を描くように。
「そういえば」窓際の老夫婦の声。「あの時計、まだ動いてるのかね」
「動いてるわよ。毎日見てるもの」
「そうか。よく壊れないもんだ」
「大事に使ってるからよ」
「お前が大事にしてるものは、長持ちするな」
「当たり前でしょ」
コーヒーが出来上がった。私はカウンターに置き、奥のテーブルに運ぶ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
二人は少し会話を止めて、コーヒーを受け取った。私は何も聞かなかったという顔で、カウンターに戻る。
「いい香り」
「ね。ここのコーヒー、本当に美味しいわよね」
「うん。来てよかった」
私はまた別の作業を始める。豆の在庫確認。明日、仕入れに行く分をメモする。
「あのね」奥のテーブルの一人が、少し声を落とした。「実は、お母さん、最近物忘れが多くて」
「そうなの?」
「うん。病院には行ったんだけど、まだ大丈夫だって」
「そっか」
「でも、いつまで大丈夫か分からないから。だから、今のうちに言っておきたいなって」
「うん、それがいいわ」
私は手を止めずに、静かに聞いている。
窓際の老夫婦は、相変わらず穏やかに話している。
「そういえば、孫が来月、結婚するんだって」
「ああ、聞いたわ。早いものねえ」
「あの子も、もう三十か」
「私たちが結婚した時は、二十二だったわね」
「そうだったな」
ドアベルが鳴った。入ってきたのは、五十代くらいの男性。一人だ。
「いらっしゃいませ」
「ああ、コーヒーを」
「かしこまりました」
男性は窓際の、老夫婦の近くの席に座った。
私はまたコーヒーを淹れ始める。豆を挽く音。お湯を沸かす音。
「ねえ、週末どうする?」奥のテーブルから。
「実家に行こうと思ってるの。で、お母さんに言ってくる」
「そう。頑張ってね」
「うん」
一人の女性が立ち上がった。
「ごめん、先に行くね。仕事があって」
「うん、また連絡して」
「ありがとう。話聞いてくれて」
女性が会計に来た。私は無言でレジを打つ。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
ドアが閉まる。
残った女性は、一人でゆっくりコーヒーを飲んでいる。窓の外を眺めながら。
私は新しいコーヒーを、一人で来た男性に運ぶ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
男性は疲れた顔でコーヒーを飲んだ。
窓際の老夫婦は、会計を頼んだ。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
二人は手を繋いで、店を出て行った。背中が少し丸まっている。でも、歩調は合っている。
店内には、一人でコーヒーを飲む女性と、男性だけになった。
私はカウンターで、また帳簿をつけ始めた。
静かだ。
でも、嫌いじゃない。
この静けさの中に、それぞれの人生がある。
母に感謝を伝えたい女性。四十年連れ添った老夫婦。疲れた顔の男性。
みんな、それぞれの物語を抱えて、ここに来る。
私はただ、コーヒーを淹れるだけだ。
でも、それでいい。
それが、私の役割だから。
やがて、女性も会計を済ませて帰っていった。
「ありがとうございました」
残ったのは、男性一人。
男性はまだコーヒーを飲んでいる。ゆっくりと、時間をかけて。
私は邪魔をしないように、奥で作業を続けた。
時計の針が、ゆっくりと進んでいく。
火曜日の午後。
何でもない、でも誰かにとっては大切な時間。
そんな時間が、この店には流れている。




