月曜日の夜
# 月曜日の夜
月曜日の夜七時。私は一人、カウンターで帳簿をつけていた。
月曜の夜は静かだ。客足が途絶えるこの時間、店内には時計の音だけが響いている。
本当は六時に閉めてもいいのだが、なんとなく開けている。誰かがふらりと来るかもしれない。そんな期待を、完全には捨てきれない。
「今月も赤字じゃないな。よし」
帳簿を閉じて、コーヒーを淹れる。自分用の。
夜のコーヒーは、カフェインが気になるところだが、もう長年の習慣だ。これを飲まないと一日が終わらない。
カウンターに座り、ゆっくり一口飲む。
「うん、悪くない」
独り言が増えたのは、いつからだろう。
ドアベルが鳴った。
「いらっしゃい」
入ってきたのは、四十代くらいのサラリーマン風の男性。スーツは皺だらけで、ネクタイは緩んでいる。
「まだ、開いてますか?」
「ええ、どうぞ」
男性は重そうにカウンターに座った。
「コーヒーを。ブラックで」
「かしこまりました」
疲れた顔だ。月曜の夜に一人で喫茶店に来る。何かあったのだろう。
気になるが聞かない。差し出がましい真似は避けるべきだ。
コーヒーを出すと、男性は黙って飲んだ。
しばらく沈黙が続く。私は別のカップを磨きながら、さりげなく様子を窺っていた。
「あの」男性が口を開いた。「この店、昔からあるんですか?」
「ええ。五十年くらいになります」
「へえ」男性が店内を見回した。「いい雰囲気だ」
「ありがとうございます」
「実は」男性が続けた。「今日、会社辞めてきたんです」
「そうですか」
私は驚いたが顔には出さないよう気を付けた。
「二十年勤めた会社。でも、もう限界で」
「お疲れ様でした」
「変ですよね」男性が苦笑した。「辞表出して、すっきりするかと思ったら、どうしていいか分からなくて」
「そういうものかもしれませんね」
「家に帰る気になれなくて。ふらふら歩いてたら、この店の明かりが見えて」
男性はまたコーヒーを飲んだ。
「マスター、後悔すると思いますか?」
「さあ」私は正直に答えた。「でも、後悔するかどうかなんて、やってみないと分からないですよ」
「マスターは、この仕事、後悔してませんか?」
「してませんね」
「即答ですね」
「ええ」私は笑った。「毎日後悔ばかりですけど、この仕事を選んだこと自体は、後悔してない」
「矛盾してませんか?」
「矛盾してますね」
二人で笑った。
その時、またドアベルが鳴った。今度は七十代くらいの男性だ。
「やあ、まだ開いてたか」
「あ、木村さん」
木村さんは、月に一度くらい来る常連だ。いつも夜に現れる。
「今日は遅番だったもんでね」
「お疲れ様です。いつものブレンドでいいですか?」
「ああ、頼むよ」
木村さんもカウンターに座った。サラリーマンの隣だ。
「寒くなってきたねえ」
「そうですね」
私はコーヒーを淹れながら、二人の様子を見ていた。
「お仕事、何されてるんですか?」サラリーマンが木村さんに尋ねた。
「警備員だよ。もう十年になるかな」
「十年も」
「定年退職してからね。暇だから始めたんだ」
「楽しいですか?」
「楽しいかどうかは分からんが」木村さんは考えた。「悪くはないよ。夜、ビルの見回りして、誰もいないオフィス見る。全然悪くない」
「そういうもんですか」
「仕事なんて、そういうもんさ」
私は木村さんにコーヒーを出した。
「ありがとう」木村さんが一口飲んで、満足そうに息をついた。「これだよ、これ」
「美味しいですか?」
「美味いね。一日の終わりに、ここでコーヒー飲むのが楽しみでね」
サラリーマンが少し表情を和らげた。
「いいですね」
「あんた、疲れてる顔してるね」
「ええ、まあ」
「大変だろうけど、無理すんなよ」
「はい」
木村さんは優しく笑った。
「俺もね、現役の頃は無理ばかりしてた。家族も顧みず、会社一筋」
「それで後悔してますか?」
「してるよ」木村さんは即答した。「女房には苦労かけたし、息子とはほとんど話さなかった」
「でも」
「でも、それも人生だと思ってる。その時は必死だったんだ。それでいいんじゃないかな」
サラリーマンが黙ってコーヒーを飲んだ。
私は二人のカップを見ながら、何も言わなかった。こういう時は、黙っているのが一番いい。
「マスター」木村さんが私に話しかけた。「そういえば、日曜日、若い子がいたね」
「ああ、健太ですね。日曜だけバイトに入ることになったんです」
「へえ、いい子じゃないか」
「子供の頃からの常連なんですよ」
「そうかい。若い子が興味持ってくれるのは、いいことだ」
「どうでしょうね」私は苦笑した。「すぐ飽きるかもしれません」
「飽きないさ」木村さんが断言した。「この店には、飽きさせない何かがある」
「何かって?」
「分からん。でも、落ち着くんだよ。この空間が」
サラリーマンが頷いた。
「分かります。僕も、さっきから落ち着いてる」
「だろう?」木村さんが嬉しそうに言った。
三人でしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。
店内には、時計の音と、たまに車の通る音だけ。
「あの」サラリーマンが立ち上がった。「そろそろ帰ります」
「お会計、四百円です」
「ありがとうございました」
サラリーマンは少しだけ、明るい顔になっていた。
「また来てください」
「来ます」
ドアが閉まり、また静かになった。
「良い子だね」木村さんが言った。
「そうですね」
「きっと大丈夫さ」
「何がですか?」
「分からん」木村さんは笑った。「でも、大丈夫な気がする」
木村さんもコーヒーを飲み終え、立ち上がった。
「ごちそうさん。また来るよ」
「お待ちしてます」
また一人になった。
私はカップを洗いながら、ふと思った。
月曜の夜。誰も来ないと思っていた時間に、二人も客が来た。
人生、何があるか分からない。
そういえば、さっきのサラリーマンも、そう言っていた気がする。
「さて」
私は帳簿をしまい、レジを閉めた。
もう八時を回っている。そろそろ閉めよう。
電気を消し、看板をしまい、鍵をかける。
夜の商店街は静かだ。月曜の夜だから、開いている店も少ない。
でも、悪くない。
こういう静けさも、悪くない。
そう思いながら、私は家路についた。
明日は火曜日。また誰かが、扉を開けてくれるだろう。
そんな小さな期待を胸に、私は夜道を歩いた。




