日曜日の準備
# 日曜日の準備
日曜日の朝、私は誰よりも早く店に来る。週に一度、この日だけは開店前にじっくりと準備をする時間を取っている。
鍵を開け、電気をつけると、静かな店内に朝の光が差し込んできた。
「さて、始めますか」
まずは窓を開けて空気を入れ替える。夜の間に溜まった空気が、新鮮な朝の風と入れ替わっていく。この瞬間が好きだ。
次に、コーヒー豆の在庫確認。棚から缶を取り出し、一つ一つ開けて香りを確かめる。ブレンド用のブラジル、少し減ってきたな。コロンビアはまだ大丈夫。
川崎さんから教わった通り、豆は週に一度、必ず確認する。鮮度が命だからだ。
「あれ、モカが切れそうじゃないか」
独り言を言いながら、メモを取る。明日、仕入れに行かないと。
豆の確認が終わると、次はフィルターとドリッパーの点検。細かい傷がないか、一つ一つ手に取って確かめる。
ドアを叩く音がした。
「マスター、いる?」
声の主は、近所の八百屋の息子、大学を卒業したばかりの健太だ。
「おう、健太。早いな」
「バイトの面接、覚えてます? 今日だって言ったじゃないですか」
「ああ」私は額を叩いた。「すっかり忘れてた」
「ひどい」
健太は苦笑しながら店に入ってきた。先週、日曜だけバイトしたいと言ってきたのだ。
「じゃあ、とりあえず一緒に準備しながら話すか」
「はい」
健太にエプロンを渡す。少し大きいが、まあいいだろう。
「まず、グラスとカップを磨いてくれるか」
「了解です」
健太は素直に作業を始めた。私はコーヒーメーカーの掃除を始める。
「なあ健太、なんでうちでバイトしたいんだ?」
「え? だって家が近いし」
「それだけ?」
「あと」健太は少し照れたように言った。「この店、好きなんです。子供の頃からよく来てたし」
「そうだったか」
「覚えてないですか? 親父に連れられて、よくココア飲みに来てました」
言われてみれば、そんな気もする。小さな男の子が、大きなマグカップでココアを飲んでいた姿。
「ああ、思い出した。あの頃は小学生だったな」
「はい。で、大人になったら、ここでコーヒー飲むのが夢だったんです」
「夢、叶ったじゃないか」
「いや、まだです」健太は真剣な顔で言った。「働きながらコーヒー飲むんじゃなくて、マスターみたいに淹れられるようになりたいんです」
「へえ」
私は少し驚いた。最近の若い子で、コーヒーの淹れ方を学びたいなんて言う子は珍しい。
「教えてくれますか?」
「ああ、いいよ。でも、すぐには無理だぞ」
「分かってます」
健太の目は本気だった。
「じゃあまず」私は豆の缶を取り出した。「これが何の豆か、当ててみろ」
「え、香りだけでですか?」
「そう」
健太は缶に鼻を近づけ、真剣に匂いを嗅いだ。
「うーん」
「分からないだろ」
「ブラジル、ですか?」
「おお」私は驚いた。「正解」
「マジですか!」健太が飛び上がった。
「まあ、一番メジャーな豆だから、当てやすいけどな」
「でも嬉しい」
その時、またドアを叩く音がした。今度は笹木さんだ。
「あら、開いてないのに人がいる」
「笹木さん、どうしたんですか」
「忘れ物取りに来たの。昨日、本置いていっちゃって」
笹木さんが店内に入ってくると、健太を見て目を丸くした。
「あら、健太君じゃない。大きくなって」
「笹木さん、お久しぶりです」
「まあ、あなたもう大学生? いや、卒業した?」
「はい、この春卒業しました」
「で、ここでバイト?」
「はい」
笹木さんは面白そうに私を見た。
「マスター、後継者探し?」
「いやいや、そんな」
「冗談よ」笹木さんは笑った。「でも、若い人が興味持ってくれるのはいいことね」
そう言って、笹木さんは本を受け取って帰っていった。
「後継者、かあ」健太がぽつりと言った。
「まだ早いよ、その話は」
「でも、マスターもいつかは」
「考えないようにしてる」
私は正直に言った。
準備を続けながら、健太にコーヒーの淹れ方を教え始めた。
「まず、お湯の温度が大事。熱すぎても、ぬるすぎてもダメ」
「何度くらいですか?」
「九十度から九十五度。でも、温度計で測るんじゃなくて、感覚で覚えるんだ」
「感覚?」
「ああ。沸騰してから、三十秒待つ。そうすると、ちょうどいい温度になる」
健太は真剣にメモを取っている。
「でもな」私は続けた。「一番大事なのは、気持ちだ」
「気持ち、ですか?」
「ああ。このコーヒーを飲む人のことを考えながら淹れる。その人が喜んでくれるように、丁寧に、心を込めて」
「マスターもそうやって教わったんですか?」
「ああ」
私は川崎さんの顔を思い出した。無口だったが、コーヒーを淹れる時だけは、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「よし、じゃあ実際に淹れてみるか」
「えっ、もう?」
「案ずるより産むが易し」
私は健太に豆を渡した。健太は緊張した手つきで、ミルに豆を入れる。
ゴリゴリと豆を挽く音が、静かな店内に響いた。
「いい音だろ?」
「はい」健太が笑った。「なんか、ワクワクします」
「そうだろ。この音を聞くと、一日が始まるって感じがする」
挽きたての豆の香りが、店内に広がる。
「次は?」
「ドリッパーに、フィルターをセットして」
健太は慎重に作業を進める。
「豆を入れて、最初は少しだけお湯を注ぐ。蒸らすんだ」
「蒸らす?」
「ああ。三十秒くらい待つと、豆が膨らむ。これが大事」
お湯を注ぐと、本当に豆が膨らんできた。
「すごい!」
「だろ? 新鮮な豆ほど、よく膨らむんだ」
健太の目が輝いている。
「じゃあ、ゆっくり円を描くように、お湯を注いでいく」
健太は舌を出しながら、慎重にお湯を注いだ。少しぎこちないが、悪くない。
コーヒーがポタポタと落ちていく。その音も、私は好きだ。
「できた」
健太が嬉しそうに言った。
「よし、じゃあ飲んでみろ」
「えっ、いいんですか?」
「自分で淹れたコーヒーは、自分で味見するんだ」
健太は慎重に一口飲んだ。
「どう?」
「うーん」健太は首を傾げた。「ちょっと薄いかも」
「そうだな。豆の量が少し足りなかった」
「次はもっと頑張ります」
「焦るな。川崎さんもよく言ってた。コーヒーは急ぐものじゃないって」
「はい」
私も健太の淹れたコーヒーを一口飲んだ。確かに薄いが、悪くない。初めてにしては上出来だ。
「じゃあ、今度は俺が淹れるから、見てろ」
私は新しい豆を取り出し、手慣れた手つきで準備を始めた。健太は真剣な目で見ている。
豆を挽き、フィルターをセットし、お湯を注ぐ。何度も何度も繰り返してきた動作。でも、一度として同じコーヒーはない。
「できた」
二つのカップに注ぎ、一つを健太に渡した。
「飲んでみろ」
健太は一口飲んで、目を見開いた。
「全然違う」
「だろ?」
「何が違うんですか? 豆は同じなのに」
「さあな」私は笑った。「俺にも説明できない。ただ、何年もやってると、自然と身につくんだ」
「俺も、いつかマスターみたいに」
「なれるさ。続けていれば」
健太は嬉しそうにコーヒーを飲んだ。
時計を見ると、もうすぐ開店時間だ。
「さて、準備も終わったし、そろそろ開けるか」
「はい」
健太と二人で、椅子を下ろし、テーブルを拭き、看板を出す。
日曜日の朝。また新しい一日が始まる。
今日は、どんなお客さんが来るだろう。
そんなことを考えながら、私は店の扉を開けた。




