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土曜日の記憶

# 土曜日の記憶


土曜日の昼下がり、私は店の奥の棚を整理していた。開店前に少し掃除をしようと思ったのだが、思いのほか埃が溜まっている。


「マスター、開いてる?」


ドアを叩く音がして、顔を出したのは常連の笹木さんだった。


「ああ、どうぞ。今ちょうど開けます」


「悪いわね。看板出てなかったから」


「いえいえ。ちょっと掃除してまして」


笹木さんが店内に入ってくると、散らかった棚を見て目を丸くした。


「あら、大掃除?」


「まあ、そんなところです」


「手伝おうか?」


「いえ、大丈夫ですよ。コーヒー淹れますから、座っててください」


笹木さんはカウンターに腰を下ろし、棚の方を眺めている。


「その棚、昔からあるわよね」


「ええ、前のマスターの時代から」


「そういえば」笹木さんが興味深そうに身を乗り出した。「マスター、この店引き継いだのよね? 前のマスターって、どんな人だったの?」


私はコーヒーを淹れながら、懐かしい記憶を辿った。


「川崎さんっていう方でした。もう亡くなりましたけど」


「ああ、そうなんだ」


「私がまだ会社員だった頃、この店によく通ってたんです。川崎さんのコーヒーが好きで」


ドアベルが鳴り、若い男性が入ってきた。昨日の学生だ。


「あ、こんにちは」


「いらっしゃい。また卒論?」


「はい。あ、お忙しそうですね」


「いや、ちょうど休憩しようと思ってたところ」


私は笹木さんと学生にコーヒーを出し、自分の分も淹れた。


「さっき、前のマスターの話してたのよ」笹木さんが学生に言った。


「え、前のマスター? この店、引き継いだんですか?」


学生が目を輝かせた。研究者の目だ。


「そうなんです。二十年前に」


「じゃあ、店自体はもっと古いんですね」


「ええ。川崎さんが始めたのは昭和五十年頃だったかな。正確な年は忘れましたけど」


「昭和五十年!」学生が興奮している。「それってまさに喫茶店黄金期じゃないですか」


「そうなんですか?」


「ええ。純喫茶が最も栄えた時代です」


笹木さんがコーヒーを飲みながら言った。


「私もこの店、川崎さんの時代から知ってるわよ。もう三十年くらい通ってる」


「三十年も」


「ええ。あの頃はもっと客が多かったわね。煙草の煙が充満してて、常連さんたちがずっと将棋指してたりして」


「へえ」


学生が熱心にメモを取り始めた。


「川崎さんはね」笹木さんが続ける。「無口な人だったけど、コーヒーにすごくこだわってた。豆の選び方から、挽き方、淹れ方まで、全部に理由があったの」


「そうそう」私も思い出した。「私も最初は普通の客だったんですけど、何度も通ううちに、川崎さんがいろいろ教えてくれて」


「それで継ぐことになったんですか?」学生が尋ねた。


「いや、それが」私は苦笑した。「全然そんなつもりじゃなかったんです」


その時、またドアベルが鳴った。黄色いレインコート、ではなく、今日は赤いTシャツの吉村さんだ。


「やあ、賑わってるね」


「吉村さん、いらっしゃい」


「あれ、棚動かしてる? 模様替え?」


「いえ、掃除です」


「手伝おうか?」


「みんなそう言うんですよ」私は笑った。「大丈夫です。コーヒー飲んでってください」


吉村さんもカウンターに座った。四人でカウンターを囲む形になる。


「今、前のマスターの話してたの」笹木さんが説明した。


「ああ、川崎さん」吉村さんが懐かしそうに言った。「僕も会ったことある。店を継ぐ直前くらいかな」


「そうでしたっけ」


「覚えてないかもね。でも印象的だったんだ。川崎さん、もう体調悪そうだったのに、すごく嬉しそうに『いい人に継いでもらえる』って言ってた」


私は少し胸が熱くなった。


「マスター」学生が真剣な顔で聞いた。「なんで継ごうと思ったんですか?」


「うーん」私はカップを両手で包んだ。「川崎さんが病気になって、店を閉めるって聞いた時、すごく寂しかったんです。自分の居場所がなくなるような気がして」


「居場所」笹木さんが繰り返した。


「ええ。会社で疲れて、ここに来てコーヒー飲んで、川崎さんと少し話すだけで、また頑張れた。そういう場所だったんです」


「で、継いじゃったと」吉村さんが笑う。


「川崎さんに『やってみないか』って言われて。断る理由がなかったんです。いや、理由はたくさんあったんですけど、でも」


「やりたかったのね」笹木さんが優しく言った。


「そうですね。この場所を残したかった」


学生がまたメモを取っている。


「これ、卒論に書いてもいいですか? 喫茶店が次の世代に受け継がれるという文脈で」


「ええ、どうぞ」


「ありがとうございます」


吉村さんがふと棚を指差した。


「あの棚、川崎さんの時代からあるんだよね」


「ええ。あれも、あのカウンターも、全部そのまま」


「じゃあ」吉村さんが面白そうに言った。「この店、実は五十年の歴史があるわけだ」


「そうなりますね」


「すごいなあ」学生が感嘆の声を上げた。「五十年。昭和、平成、令和と三つの時代を越えて」


「でも変わらないものもあるのよ」笹木さんが言った。「コーヒーの味とか、この落ち着く雰囲気とか」


「それは意識してます」私は正直に言った。「川崎さんから教わったことを、そのまま続けてる。それが、川崎さんへの恩返しかなって」


「素敵ね」


四人でしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。店内には、豆を挽く音も、話し声もなく、ただ静かな時間が流れている。


「あのさ」吉村さんが沈黙を破った。「マスターが引退する時、また誰かに継いでもらうの?」


「どうでしょうね」私は笑った。「そんな先のこと、考えてませんよ」


「でも考えといた方がいいよ。川崎さんからマスターへ。次は誰かな」


「吉村さんがやれば?」笹木さんがからかうように言った。


「僕? 無理無理。コーヒー淹れられないもん」


「今から習えばいいじゃない」


「それもそうか」


学生が笑いながら言った。


「いいですね。百年続く喫茶店。令和の次の時代も」


「令和の次って何だろうね。当たったら面白いんじゃない?」吉村さんが首を傾げた。


「さあ。でも」私は店内を見回した。「この場所が、誰かの居場所であり続けられたら、それでいいかな」


「マスター、いいこと言うじゃん」


「たまにはね」


また四人で笑った。


窓から差し込む午後の光が、川崎さんの時代から変わらぬ棚を照らしている。五十年前も、きっとこんな光だったのだろう。


そして五十年後も、誰かがここでコーヒーを飲んでいるかもしれない。


そんなことを考えながら、私は少しくたびれた、でも愛おしい店内を、ゆっくりと見渡した。


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