金曜日の午後
# 金曜日の午後
金曜日の午後三時。店内には三組の客がいた。
窓際には若いカップル、カウンターには昨日も来た大学生、そして奥のテーブルには四十代くらいの女性が二人座っている。
私はカウンターの奥で、静かに豆を挽いていた。
「ねえ、聞いて」奥のテーブルから、落ち着いた声が聞こえてきた。「昨日、変なこと言ってる人がいてね」
「変なこと?」
「人間の細胞が七年で全部入れ替わるって」
「ああ、それ有名なデマよ」
私は思わず耳を傾けた。
「デマなの?」
「そう。実際は、細胞によって寿命が全然違うの。例えば、腸の細胞は数日で入れ替わるけど、骨の細胞は十年くらいかかる。脳の神経細胞は、ほとんど入れ替わらないのよ」
「へえ、詳しいわね」
「仕事が医療関係だから」
大学生が、小声で私に言った。
「昨日の人と、正反対ですね」
「そうですね」
女性の会話は続く。
「それから、脳の十パーセントしか使ってないっていうのも嘘」
「え、あれ嘘なの?」
「完全に嘘。脳は全体を使ってるわ。ただ、同時に全部使うわけじゃないってだけ」
「そうなんだ」
「MRIで調べれば分かるわよ。どの部分も、何かしら活動してる」
私はコーヒーを淹れながら、静かに聞いている。
「水を一日二リットル飲むっていうのは?」
「それも、ちょっと誤解があってね」
「誤解?」
「二リットルっていうのは、食事から摂る水分も含めた量なの。飲み物だけで二リットルは、むしろ摂りすぎかもしれない」
「そうなの?」
「ええ。必要な水分量は、人によって違うし、季節や運動量でも変わる。喉が渇いたら飲む、それが一番自然よ」
大学生が頷いている。
「舌の味覚マップは?」女性が尋ねた。
「ああ、あれも完全に間違い。舌のどの部分でも、全部の味を感じられるわ」
「じゃあ、先が甘味で、奥が苦味っていうのは」
「迷信ね。二十世紀初頭のドイツの論文の誤訳が広まったらしいわ」
「へえ」
私は二人にコーヒーを運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
カウンターに戻ると、大学生が小声で尋ねた。
「マスター、昨日の人と今日の人、どっちが来ても黙ってるんですか?」
「そうですね」
「面白いですね」
女性たちの会話は続いている。
「ビタミンCのサプリって、どう思う?」
「必要な人もいるけど、普通の食事してれば十分よ。それに、大量に摂っても尿で出るっていうのは本当だけど、摂りすぎると下痢や結石のリスクもあるの」
「三千ミリグラムとか飲んでる人、いるわよね」
「それは多すぎるわね。厚生労働省の推奨量は、一日百ミリグラムよ」
「全然違うじゃない」
「でしょ? サプリメント業界のマーケティングに踊らされてるのよ」
窓際のカップルが、会計を頼んできた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
店内が少し静かになった。
「砂糖が麻薬より中毒性が高いっていうのは?」
「それもね、動物実験の結果を誇張して広めたものなの。確かに糖分は報酬系を刺激するけど、麻薬と同じレベルではないわ」
「そうなんだ」
「もちろん、摂りすぎは良くないけど、適度な糖分は体に必要よ。脳のエネルギー源だから」
「じゃあ、完全に断つのは?」
「逆に危ないかもね」
私は新しいコーヒーを淹れ始めた。
「血液型性格診断は?」
「それは、科学的根拠が全くないわ」
「全く?」
「ええ。統計的に有意な相関は見つかってないの。日本と韓国くらいでしか信じられてない、文化的な迷信ね」
「でも、当たってる気がするのよね」
「それはバーナム効果っていって、誰にでも当てはまるようなことを、自分だけに当てはまると思い込む心理現象よ」
「へえ」
大学生が、熱心にメモを取っている。
「電子レンジが栄養を壊すっていうのは?」
「それも嘘。むしろ、短時間で加熱できるから、栄養の損失は少ないくらいよ。水溶性ビタミンなんかは、茹でるより電子レンジの方が残るの」
「そうなんだ」
「マイクロ波は、水分子を振動させて熱を発生させるだけ。分子を破壊するなんてことはないわ」
二人は感心したように頷き合った。
「あなた、本当に詳しいのね」
「まあ、仕事柄ね。医療情報を扱ってると、デマと本当の情報を見分ける訓練になるのよ」
「勉強になるわ」
私は二人におかわりを聞いた。
「ああ、お願いします」
「かしこまりました」
コーヒーを淹れながら、女性たちの会話は続く。
「でもね」一人が言った。「正しいことを知るのも大事だけど、知らなくても幸せならそれでいいのかなって、最近思うの」
「え、どういうこと?」
「だって、間違ったこと信じてても、本人が健康で幸せなら、それでいいんじゃないかって」
「それはそうかもね」
「プラセボ効果ってあるでしょ? 思い込みで、本当に効果が出ることもあるし」
「確かに」
私は新しいコーヒーを二人に出した。
「ありがとうございます」
「でもね」医療関係の女性が続けた。「間違った情報で、体を壊す人もいるのよ。だから、正しい知識は大事だと思うわ」
「そうね。バランスが難しいわね」
二人は静かにコーヒーを飲んだ。
大学生が私に尋ねた。
「マスター、どっちが正しいと思いますか?」
「どっち?」
「昨日の人みたいに、間違ってても幸せならいいのか。それとも、今日の人みたいに、正しい知識を持つべきなのか」
「さあ」私は正直に答えた。「どっちも正しいんじゃないですか」
「どっちも?」
「ええ。場合によるんでしょう」
「難しいですね」
「そうですね」
女性たちが会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
二人が出て行った後、大学生が言った。
「でも、今日の人の話、勉強になりました」
「そうですか」
「はい。卒論にも使えそうです」
「良かったですね」
学生もコーヒーを飲み終え、帰っていった。
一人になった店内で、私はカウンターを拭いた。
昨日は間違った知識。
今日は正しい知識。
どちらも、同じようにこの店を通り過ぎていく。
私はただ、コーヒーを淹れるだけ。
それでいいのだと、思う。
金曜日の午後。
また静かな時間が、流れ始めた。




