16
またブライトンに来た。
頼まれてた資料を持って生徒会室に届け、エヴァリーは直ぐにパーベル・アビーに帰る。
気をつけろよ、とオースティンに言われてから、なんだか浮き足だっていたエヴァリーの足も地についた感触がした。
改めて周囲の目線に気を配ってみると、確かになんだか良く無い感情を向けられている時もある。
それが噴出しないのは、学校長のお達しが厳しく行き届いているのと、争いを望まない生徒達のお陰だろう。
「エヴァ––ッ」
争いを望まないのか、パーベル・アビーを支配下に置きたいのか分からない魅惑的な悪魔の声がエヴァリーの耳に届いた。
エヴァ…その呼び方がさも親し気で、エヴァリーの体のどこかがくすぐったい。
建物を少し出た開けた中庭で、エヴァリーは足を止めて声の主の方を振り返る。
「アイゼイア先輩、お疲れ様です」
余所者の後輩らしく、エヴァはしっかり頭を下げた。
「……なんか他人行儀だな。もう帰るの?」
「用は済んだので」
仕事が済めば、エヴァリーはブライトンに用は無い。
「生徒会室に来たなら、声掛けてくれれば良いのに。こないだも気づいたらもう帰ってたじゃないか」
何を仰いますか、私のような余所者がアイゼイア 様 に……––と皮肉を言いたいが、ここはブライトン、完全にアウェーだ。
「お忙しい所を煩わせてしまうので…」
口から適当な言い訳が出るのは、エヴァリーのお得意だ。
「……」
アイゼイアは何故か不満そうにエヴァリーを睨みつける。
なぜ、麗しいお顔をそのように…––
と思った時、エヴァリーの頭上にそこそこの大量の水がバケツと共に降ってきた。バシャッ–––!と水が地面に叩きつけられる音の後に、ガシャンッ–––!とバケツの落下音が追いかける。
呆気に取られて、自分は頭からずぶ濡れになったと気付くのに、エヴァリーは時間が掛かった。
エヴァリーの目には、これ以上無いほど大きく、青く美しい目を見開いていくアイゼイアしか映っていない。
だが、エヴァリーの長い睫毛が水を弾き切れなくなると、水はエヴァリーの目にも流れ込んだ。若干に痛みが目に走る。
その水は、腐ったような、汚水の臭いがして、エヴァリーは今直ぐ鼻を摘みたくなった。
目が炎症を起こしたら、最悪だ–––
エヴァリーの頭にはそんな事が思い浮かぶ。
「エヴァッ––!」
血相を変えたアイゼイアがハンカチを取り出す。エヴァリーは汚水がアイゼイアに掛かって無いか目を少しだけ開けて確認し、そのハンカチを受け取るとアイゼイアから離れた。
2度目があるかもしれない––と薄ら目を開けたまま上を見上げる。
建物には開け放たれた窓があって、そこからバケツを投げられたのが見て取れた。
「最適な場所に私が足を止めてしまったみたいです。アイゼイア先輩、ハンカチは新しく買って返します。ちょっと今日は急いで帰りたいので、これで失礼っ––––」
「何言ってるんだっ!早くこっちに来て」
アイゼイアはエヴァリーが汚水を被ったと気付いた時に咄嗟に放り出された鞄を持って、エヴァリーを促す。
「早くっ––!」
そうせっつかれて、エヴァリーはアイゼイアの後へ続いた。
通されたのはアイゼイアの部屋だ。
驚いたことに、ブライトンにはそれぞれの部屋にシャワー室が完備されているらしい。やはり、資金力の違いだ。
男子寮なのに、良いのか…––?とエヴァリーも最初思ったが、放課後の学生寮は人がまばらで、管理人のおばさんにアイゼイアが事情を話すと、酷い匂いに同情し、バスタオルとバスローブまで貸してくれた。
アイゼイアに信用があるのか、エヴァリーが警戒されなさすぎなのか、管理人のおばさんは呆気なくエヴァリーをアイゼイアの部屋へ通す。
同部屋の生徒は居ないようだ。
「……これ、大きめかもしれないけど、僕の着替え」
アイゼイアは視線を向けずにエヴァリーに着替えを渡す。
「あっ––いや、でもやっぱり大丈夫です。
乾けばどうにかなるし、臭いは酷くて申し訳ないですがバスも立って乗れば……」
エヴァリーは綺麗に折られたジャージを見て腰が引ける。
そもそも部屋に入ったのさえ、臭いを考えれば申し訳なかった。
「風邪引くよ。汚水だから早く流した方が良い。……あと、言いづらいけど–––下着、透けてる」
アイゼイアは一切エヴァリーに視線を向けない。顔を斜めに向けているせいで、耳はよく見える。その耳は、ほんのりと赤く染まっているようにエヴァリーには見えた。
エヴァリーも、自分のシャツを見る。
確かに濡れて、下の下着が透けていた。
これで帰るのは……確かに平面ではあるけれども……––とエヴァリーも納得する。
「それでは、お言葉に甘えて…」
エヴァリーはシャワー室へそそくさと入っていった。