潮騒の余韻(3)
リィンさんのコンサートが終わる頃にはすっかり小さく灯る街灯が視認出来る程の夕方になっていた。
オーケストラによる壮大な一体感の演奏とリィンさんの清らかなクラリネットが綺麗に調和したコンサートの感想はと言うと最高としか評価出来ない。
私はあまりクラシック音楽に触れた事の無い素人だから偉そうな事は言えないけど流麗に高らかに響く音が粒の様に飛んで来て一瞬、手で触れられるかもと錯覚してしまうくらいに鮮明に鼓膜と心に訴え掛けて来たのである。
メランアヴニールとの戦いで疲れた心身を癒す為に参加したコンサートは開始数曲くらいで疲労を打ち消し、いつの間にか音に聞き入る事に集中していたから二時間以上あったはずの公演時間は気付いた時にはあっという間に終わってた。
後でリィンさんの楽屋に行って挨拶させて貰ったけど穏やかな笑顔で迎えられ、またコンサートに来てくれると嬉しいみたいな事を言われたのを覚えている。
ついでにタクトさんは職場の人間に迷惑をかけないよう釘を刺されていた。
『至福の時間とはこういう事を言うのだろうな』
耳の中で音の余韻が揺蕩うウィンドノートがご満悦な表情を浮かべている。
相棒の言う通り、純粋な音楽の世界に触れた時間は自分の中の価値観が一新されたような、なんだか生まれ変わったような不思議な感覚に満たされた私も得難い経験となった。
自慢の兄弟の演奏を褒めて貰ったタクトさんは興奮気味に胸を張る。
「だろ!?
姉さんの演奏を聞いた後は自然と充足感に満たされるんだよ。
スイ達のリフレッシュに一役買えたなら姉さんも俺も嬉しいぜ。
けど軽食しか食ってねぇと流石に腹減ったなぁ。
この近くに美味い鯛塩ラーメンの店があるんだけど一緒にどうだ?」
「良いですね!!
ラーメンは大好物なんですがあんまり食べないようにしてたので思いっきり食べたいです」
特に現役の時は家族ぐるみで一切、口にしなかったからラーメン好きの両親にはきつい節制を強いてしまったんだよな。
『タイ、シオラーメン? とはなんだ?』
「知らねぇのか? ウィンドノート。
ま、ついてくりゃ分かるよ」
黄金色に澄んだスープにちぢれ麺、それらの上を飾る鯛の切り身に煮卵と水菜、アクセントに小さなあられも入った芸術の様な一杯は初見のウィンドノートも一瞬で魅了されあっという間に平らげてしまった。
こぢんまりとしつつも高級感を感じる白い店舗で行われた楽しかった夕食会がお開きになると一週間取った休暇の最後の一日が終わる。
「じゃ、明日の十一時にペティシア来た時と同じ展望台に来いよ。おやすみ」
「おやすみなさい。タクトさん」
『安らかな休息が齎されんことを』
ホテルのあるエリアで別れた後、久しぶりに一時的な家に帰ると留守の間に係員が綺麗にしてくれた室内が私達に安息を届けてくれる。
数日、お世話になったこの家とも明日の朝にはお別れか。
タクトさんのお誘いで参加させて貰った旅行は生きてる間には絶対、出来ない体験ばかりやらせて貰ったしこのお礼は仕事の成果で返さないと。
スイッチを押してバスタブの準備が整うまでに明日の朝に使うメイク用品や着る服以外の物をしまいながら部屋を眺めていると非現実的な休暇の思い出が蘇る。
「ほんとに楽しい一週間だったね。
部屋、というか家も綺麗で広々してたしビーチリゾートやショッピング、クルーズも全部楽しかったしペティシアの海も満喫出来たよね」
『だが貴重な休暇の一部をハシェット殿や人魚族への援助に費やしてしまったのも事実だ。
アレイフ殿のように立て替えを申請する程では無いとしても持ち前の不運によって過ぎ去った安息の時間をお前は惜しいと思わないのか?』
うーん、一理ある。
ペティシアは元々、酷使した心身を休ませる為に訪れたのに結局、サボり魔の世話を焼いたり人魚と共闘してちょっと世界救ったり重労働をしてしまった。
自己評価しても疲れを取ったどころか更に蓄積させてしまった気がする。そこはちゃんと調整しないと。
けど助けなければ良かったなんてつまんない悔いは残ってない。
「だってね、困ってる人がいたら反射的に手を差し伸べちゃうし。
確かに休暇を少し削がれたのは寂しいけど人が安心したところを見たり感謝とかされたら達成感とか無い? 私はね、そういう人達の安堵を見られたらちょっとくらいの事情なんてどうでも良いんだよ。
相棒は怒ってるの? 予想外のハプニングで休暇台無しにされた事」
「そうでは無い。俺とてUNdeadの一員として救済に意義を見出している。そしてキタザトの相棒としてお前の行動は出来る限り肯定したい。
だがお前は他者に寄り添い過ぎだ。時には自分自身も気を遣わねば、エクソスバレーを救う英雄はどこにもいなくなる。
失った物は基本的に取り返せないのが殆どだ」
「何? 急に哲学みたいな事言いだして」
『・・・・・・何でもない。入浴の準備が終わるまで少し眠る』
・・・・・・どうしたんだろ、もっと自分を大切にしろだなんて。
心配せずともそんな簡単に倒れたりしないっての。
けど失った物は取り返せないって言葉は嫌に深く突き刺さったな。
私の生前も失った物ばかりだ。
フィギュアスケート、お気に入りのバイト先、命。
どれだけ願っても焦がれても元には戻らない。
ウィンドノートも私と同じ、いや。それ以上の大切な物を失ってるかもしれない。だから極端に恐れているのかも。
いつの間にかお風呂の準備が終わっている。
今日はいつも以上に念入りに汚れを落としてやろうかな。
休暇の舞台となったペティシアを離れ、UNdead本社に帰社した夜。
ウィンドノートは過去の経験に基く夢を見た。
自分の本来の名を呼んでくれる家族の老夫婦から切り替わり白銀の戦場。
その中で異質に目立つ二種類の赤。
それは忌避すべき戦いの中で熾烈を極める度に生まれた盛る戦火と仲間の体から噴き出た鮮血。
前進すればする程、雪に埋もった秘境は蛇足である残酷な差し色を足し、実現しないはずの臭いに満たされ惨く歪んでいく。
化学兵器が次々に着弾し、次は自分が周囲を破壊する原因を生み出す要因になりかけたところで彼は悪夢から脱出した。
荒い息とかくはずの無い汗の錯覚が止まらないまま観察すると、そこは切り取られた自然では無くUNdeadから充てられた一人と一匹の豪華な自室。
自分の命は疾うに散っていて死に直結する苦痛はもう味わう事は無いと頭では分かっていても高頻度で脳を覆う悪夢が現れた時は自分の目で確認しなければ冷静になれない。
氷の様な色合いを持つ日用品や旅の思い出で彩られた相棒好みの内装と暗くなった部屋の中で静かに寝息を立てる戦友の姿を眺めながらウィンドノートは低く唸った。
『・・・・・・これ以上、失ってたまるか。
俺の大事な平穏も傍で寄り添ってくれる親愛なる人も』
潮騒の余韻(3) (終)