栄華への出航(1)
将来の夢はサッカー選手だった。
テレビの向こう側から勇気と感動を与えてくれたワールドカップに触発され、ガキの頃から日が沈むまで転がる球を追いかけ、サッカーに時間を注いだ。
でも時が経てば変化が伴う。
笑って応援してくれた両親からはいつまで夢を見ているのか、スポーツなんて遊びを仕事にするなんて恥ずかしいと見限られ、一緒に大きな目標を見据えてサッカーをしていた友人は早々に現実を見始め、会社員や家業を継ぐなど別の職業を目指して努力の方向性を変えた。
『本当にお前らサッカー選手を諦めるのか?』
俺がそう尋ねると友人達は申し訳なさそうに頷いた。
『俺らじゃプロ目指せるレベルに達して無いからな。早めに見切り付けるのも大事だろ?』
『ま、サッカー自体は続けるつもり。
細々とボール蹴りながら応援してるから』
卒業後、サッカークラブと学業で成果を残し両親を納得させた俺は地元を離れ馴染みの無い都会への進学、一人暮らしが決まっていた。
だから四年間、一緒にピッチの上を走ったこいつらとも暫く別れる事になる。
正直、同じ夢を目指せなくなったのは少し寂しいがみんなが自らの意思で選択した結果だ。大事に尊重したい。
みんなの考えを聞いた後、別れる前に俺達は円陣を組む。
大事な試合の前にチーム全員でやっていた気合注入の儀式みたいな物の縮小版だ。
仲間の顔をぐるっと見てると仲間に支えて貰ってる実感とみんなの為にゴールを奪わないとって決意を固め直せるから俺は好きなルーティンだった。
いつもこれをした後、FWとして敵陣に切り込んでいた俺は必ず二点以上は決めていた事を思い出すと寂しさが込み上げてちょっと離れ難くなるけど、もう前を向かなきゃいけない時だ。
せめて最後はこいつらに心配を与えないよう逞しい表情を見せてやろうと満面の笑みを作ったのだが考えていた事は一緒だったみたいだ。
『遠くに行っても元気でな!! 困った事があったらすぐ連絡しろよ!!』
『お前は絶対プロになれよな、エースストライカー!!
テレビで見られる日を楽しみにしてるぜ!!』
これがESOを卒業した後に交わした元チームメイトとの会話の一部分である。
目指す道は違えたが仲間達と揺るがない絆で繋がっている事を再認識した俺は自分の夢が自分だけの物では無いと自覚し、世界の誰もが認める名プレイヤーになる前に彼らの期待に応えられる人間になろうと決意を固めた。
それから二年後、十八になった俺はバイトで生活費を稼ぎながら学業とサッカーに没頭する毎日を慌しく過ごしプロになる為の着実な一歩を踏み続けていた。
無謀な夢に挑戦している自覚は他でも無い俺が強く持っているのだから誰かを貶める行為も気の緩みに負けてやるべき事を放棄した怠慢も俺は決してしていないと断言出来る。
なのに神様はどこで見限ったのか乗り越えられない試練を落として俺を人生を終わらせてしまった。
あの日、バイトとサッカーの練習でいつもより帰りが遅くなり少し駆け足で歩道橋の階段を上っていた時だった。
途中でスーツ姿の兄さんとすれ違うとぶつかってないのに向こうから因縁を付けられたのだ。
『おい坊主ぅ、どこに目ぇ付けて歩いてんだぁ?
ガキがこんな夜遅くに彷徨いてんじゃねぇよ』
回らない呂律、覚束無い足下、そして意識せずとも鼻を刺激する強烈な酒の臭気。兄さんが酔っている事はすぐに分かった。
俺は面倒事に発展しないよう不本意ながら謝罪してその場を離れようとしたのだが、兄さんは獣の唸りの様な声で引き留めてきた。
『なに済ました顔で帰ろうとしてんだぁ、あぁ?
将来の名医様の気分を損ねたんだ。もっと誠意ある謝罪を示せよぉ』
兄さんは酩酊によって解放された苛立ちに任せて俺の胸倉を掴んできた。その力加減は戯れなどではなく本気で込められている。
乱暴に引き寄せられた時、薄い街灯と雲の隙間から差す月光だけが頼れる光源として存在する周囲ではよく見えなかった兄さんの顔が見えた。
酒で赤くなった端正な顔の中で印象に残っていたのは目だった。
濃いクマを蓄えた細い目には充分に解消されていない疲労と映る全てに対する嫉妬が蓄積されていて、このまま見つめれば俺が燃やされるかもしれないと覚悟する危険さだ。
『ちょ、酔い過ぎですよ。兄さん!!』
俺が必死に抵抗する間、兄さんは服装や手荷物をぎろっと一瞥して憤りを上昇させていく。
『お前、サッカー選手目指してんのかぁ?
憧れる気持ちは分かるよ。この国は殆どの男の子がサッカーを楽しみ、代表チームはワールドカップでも優秀な成績を収めてるサッカー大国だぁ。
しかもお前は若い。努力できる時間がたぁっぷりあって将来も残ってる。きぃっと叶うかもしれないねぇ。
だからこそ気に入らねぇなぁ・・・・・・』
気味の悪い粘着性を纏わせゆっくりと物静かに語っていた兄さんの語り方が豹変した。
『目ぇ輝かせて、愚直に夢を語りやがってよぉ。
どれだけ頑張っても医学部に入れねぇ俺への当て付けかぁ!?』
『誰も侮辱なんてしてませんって!!』
俺が必死に宥めても兄さんの怒りが留まりはしない。
寧ろ更に燃え盛ってしまっているようにも感じる。
『俺だってなぁ、お前と同じくらいかそれ以上に努力してんだよ!!
だが勉強漬けの数年間を送っても手元に届くのは不合格の通知だけ!!
苦痛の月日と受験料を浪費しただけなんだよ!!
舐めてんのかクソ野郎!!』
『・・・・・・なんですぐに諦めるんすか?
夢は何度だって挑戦出来るんですから心機一転して勉強し直せば』
『受験料だって安くねぇんだぞ、甘ちゃん!!
合格できる確証もねぇのにまた高い金なんか払える訳ねぇだろ!!』
もはや手に負えないレベルの自暴自棄に陥った兄さんを止めるには俺一人では足りないのだがこの時間帯じゃ助けは期待出来そうにない。
正常な思考が欠落してる兄さんはサンドバッグを殴りつけるように抵抗に必死な俺の体を激しく揺さぶり不平不満をぶつける。
『はぁー、クソな世の中!!
人を助ける立派な仕事をすれば親父達が自慢出来る息子になれると思って馬鹿真面目にやった俺より一日、数時間程度しか勉強してない高尚な志を持ってない奴が合格とか学校の目は節穴でしかねぇなぁ!!
なぁ、坊主はどう思うよぉ!?』
兄さんの腕から俺の服の襟元が離れた時だった。
平衡感覚をかき乱され突き放された勢いを殺しきれなかった体は階段から落ちていき、階段の一番下に到達した時には自らが生み出した血溜まりの上で全身の力が抜けきっていた。
これが意味する事は死に近い重症を負ったという事。
本来ならさっきまで俺の近くにいた兄さんが責任取って応急手当をしないといけないのに彼は身を乗り出して見下していた。
『くっ、ふははは。だせぇ姿だねぇ。
ま、心配せずとも少し安静にすれば大丈夫だよぉ。気が晴れたから俺は帰るわぁ。手間かけたなぁ』
ひらひら手を振りかざし兄さんは去っていった。
引き留めようと喉を絞っても遠ざかる兄さんの背中まで届きはしない。
命が消えそうな瞬間を徐々に濃く感じる遅い時の中、形容しがたいおぞましい重低音の声が俺に問いかけて来た。
『 ”夢へ続く道を突発的に閉ざされ、未練に苛まれし者よ” 』
『誰、だ?』
声の主は律儀に答えてくれるが、信用し難い恐怖はまだ拭えない。
『 ”我が名はメランアヴニール。人々を絶望に満たされた暗き未来に引き込む者。他の影は尊敬と畏怖を込め、昏海王と我を呼ぶ。
先程、貴様を死に追いやった酒飲みの男がどのような結末を辿るか、興味は無いか? ” 』
『・・・・・・意図的ではないとは言え、俺を殺してるんだ。
警察に捕まって罪を問われているんじゃないのか?』
人間界の常識に則った予測を言ったつもりなのにメランアヴニールと名乗った声は声質からは想像出来ない愉しそうな笑い声を零した。
『 ”人間は秩序と正義の為に動くちっぽけな子犬に絶大な信頼を寄せているのか。奴らとて万能ではないというのに。
いや、失敬。我にとっては一縷の望みを賭けて海で行方不明になった者の生存を信じる人間同様、滑稽な話であったからな。不快に思ったなら謝罪しよう。
さて貴様の解答だが残念ながら不正解だ。
そもそもの貴様が被害者と成った事件は他者が関わった形跡も発生時刻が夜更けという不運も重なり付近の住民からも情報を得られなかったが故、事故として片づけられた。
つまり、あの男を法に基づいて裁く時機は一生訪れぬ。
それどころか男は数日後のカフェで再会した女の友人から激励と一定の金を貰い、翌年には希望の学部に入学し名実共に最高峰の医者となるのだ” 』
幸せそうな兄さんの映像が流れ込む度、俺の心に影が覆い隠さっていく。
チームみんなの期待を背負ってサッカー選手を目指してる途中の俺をこんな目に合わせておいて自分は幸せを掴んでいるのか。
信じられない、信じられるはずが無い。
『じょう、だん、だよな?
何かのフェイクじゃ、なくて?』
『 ”我は人の未来を変えるだけでなく未来を見通す力も持っている。
そして、見通し知り得た未来は絶対不変。我以外にはな” 』
メランアヴニールは更なる未来を見せた。
それは大きな額縁に飾られた俺の写真を花が囲み喪服姿の知り合いが参列する内容。
こいつの見通す未来が本物なのだと確信し呆然としているとメランアヴニールが取引を持ち掛けてくる。
『 ”さて若き男よ。
貴様が望むならこの耐えがたき未来の結末を変えてやっても良い。貢献次第では医者となる運命の男に罰を下す尽力も付けてやる。
どうだ? 我の手を取るか? ” 』
心に闇が満たされた俺は既に言うべき言葉を決めている。
『俺は・・・・・・
仲間を悲しませたくない。育ててくれた両親に誇らしい姿を見せたい。その為の一つの行動がワールドカップに、出る事だ。
あんな、自分勝手で目の前の瀕死の人間を放置する奴の為に、命を捨てたくは無い。
頼む。あんたの助けを、貸してくれ』
メランアヴニールの声にしてやったりのにやけを感じた気がするが今の俺にとってはどうでも良かった。
少し間をおいてからメランアヴニールは語り掛ける。
『 ”そう決断を急ぐな。
まずは我の領域に来い。それからでも遅くはない” 』
そして生を失いつつあった俺の体は底の見えない青の海へと沈んでいった。
栄華への出航(1) (終)