【2-11】パアナの心配事
「おいしい、とても良い茶葉を使っておられますね」
彼――ノーマ・ルチーギュ公爵令息は差し出されたティーカップに口を付けると表情を綻ばせた。
「ムレハ領の方から取り寄せた一級品のお茶です、お口に合ったようで何よりですわ」
向こう正面に腰かけるパアナもまた、そんな彼の様子に目尻を下げる。
二人は今、サロンにほど近い場所にある庭園に備え付けられた八角屋根のガゼボの中で優雅にお茶を楽しんでいた。壁の無い空間故に吹き抜けるそよ風は大変心地よく、この時間が絶好の茶話会になることを伺わせている。
「それにしても、本日はせっかくお招きいただいたのに、ラァが同席していないことをお詫び申し上げます」
カップを置いたノーマは頭を下げた。この様子にパアナはゆるりと首を振る。
「とんでもありませんわ。お二方のご都合も考えずに急遽お呼び立てしたこちらがいけませんの。ですので謝らないといけないとすればわたくしの方です。本当に、お顔をお上げくださいな」
「パアナ様の寛大なお心遣い、大変ありがたく存じます。それにしても、彼女は一体どこに行ってるのやら。つい先ほどまで一緒にいたのですが……」
柳眉を寄せて明後日の方を見やるノーマに、パアナは苦笑する。
「ノーマ様、女性には詮索されたくないことだってあるのです。全てが全て、殿方の前で見せられるものばかりとは限りませんから。例えそれが愛しい方相手であったとしても。いえ、だからこそとも言えるでしょう」
「ご教示感謝致します。僕はどうしてもその辺の機微に疎くて……」
ノーマが肩をすくめると、パアナもまた同様に少しすぼめる。
「それはお互い様ですわ。わたくしも、男性がどのようにお考えなのかこれっぽっちもわかりませんもの」
「男女の関係ほど、難解な問題など無いのかもしれませんね。この学園にいる間に少しでも理解を深められたら良いのですが……」
はははと困ったように笑うノーマ。
和やかな空気だった。パアナは再びカップを口につける束の間、無言の時間が流れる。
今この場には二人しかいない。互いの取り巻き達は二人の声が届くか届かないかの距離で待機していた。
口を離した後も、パアナは視線をカップに落としたままだ。
「その……実際どのようにお考えなのでしょうか?」
意を決したようにそう問いかけるパアナに、ノーマは少しだけ方眉を上げ、声を落とし聞き返す。
「と、仰いますと?」
「男性が女性に求めていることです」
「……これは中々踏み込みますね」
虚をつかれたかのように目を瞬かせたノーマは、続けて眼鏡のブリッジを上げた。
一方のパアナの方はというと、それまでの優雅な振舞いが一転、もじもじと落ち着きなさげに髪に手をやり自慢の縦ロールをいじり出す。
「実はその……とある方から、あまりに身持ちが固すぎると殿下も欲求不満になり二心を抱くのではと指摘を受けまして……」
「それはなんとも不躾な」
ノーマの苦言に、パアナも我が意を得たりとばかりに膝を打った。
「ええ本当そうですわ。ヤッチャネ……その方は中央の流儀をあまりに知らな過ぎてわたくしもほとほと手を焼いているのですが、言われてみればあながち否定しきれないのではとも思いまして……」
勢いよく発せられた言葉だったが、段々とその声量が尻すぼみになっていくパアナ。
「殿下に限ってそのようなことは無いのでは……」
あまりに不安げなその様子にノーマは慰めるも、パアナの表情は依然として冴えないままだ。
「ですがこの学園は殿下のお心を乱しかねない誘惑が多いと思われませんか?」
「殿下のご身分などお構いなしにすり寄ってくる女性が増えると?しかしパアナ様の目の届く場所でそのようなことが起こりうるのでしょうか?」
「実際、既に一件あったことをノーマ様もご覧になられたのではなくて?」
「ああ……」
ノーマの脳裏に描かれたのは入学式での事だった。確かにあの時、どこぞの侍女が殿下にまとわりつくという事例が発生していた。それも、他ならぬパアナの目の前で。
「あのような事、宮廷では絶対に考えられません。ですがここは全国……いえ海外からすらも身分の差を問わず生徒が集まっているのです、異なる文化や常識を持った連中が殿下に悪影響を与えないとどうして断言できましょう。ただでさえ殿下は在学中の平等を謳っておられることからもおわかりのように、些か隙が多いのです」
「殿下にご不満があればよからぬ考えを持った者の奸計に陥りやすくなるかもしれない……なるほど、確かにその危険が無いとは言い切れませんね」
「ええそうなのです、わたくしとしてもそれを危惧しておりまして」
パアナは同意するものの、その様子はどこかおかしいままだ。ノーマはその真意を掴めないでいたが、とりあえず妥当な解決策を提示することにした。
「でしたら殿下にはパアナ様の息のかかったお目付け役を付ければ良いのではないのでしょうか?殿下としても、ご婚約者に推薦されれば無碍には出来ないでしょう」
これにパアナは寂しそうに首を振った。
「それが殿下は誰も傍に付けたがらないのです。それでは上下関係が持ち込まれてしまうから、とのことで……」
「なんと、では単独で行動されておられるのですか?それはさすがに不用心ですね」
ノーマは呆れた。学園内は安全が保証されているとはいえそれはあくまで外部からの侵入者に対してだ。もし仮に内部に間者の類が潜り込んでいたら必ずしも対応できるとは限らない。おそらく身元の確認自体は行われているだろうが、王位継承権争いなどに巻き込まれていたら由緒ある貴族相手ですら警戒の対象となるのだ。なので普通に考えればオウルの行動はあまりにも軽はずみと言わざるを得なかった。
パアナもこの事は重々承知しているのだろう。苦渋の表情を浮かべている。
「本当に仰る通りなのですが、殿下もああみえて頑固なところがございますから」
「となれば、距離を取って監視するしかなさそうですね」
「しかしそれが発覚した時のことを考えると少々億劫で……」
「不興を買うかもしれないと?」
ノーマが言うと、何故かパアナは頭を下げた。
「……ノーマ様、大変申し訳ございません」
「ああいえ、パアナ様のお立場を考えれば致し方ない事なのかと……」
ノーマは宥めるも、パアナは伏し目がちに頭を振る。
「そうではないのです。先ほどまでの事は建前なのです。無論そういう心配もありますが、本心はただ、殿下のお心が違う誰かに向いてしまわないか怖いのです」
「パアナ様……」
パアナは恥ずかしそうに俯いたままだった。ノーマの席からは見えないが、おそらく力強くスカートを握りしめていることだろう。少なくとも彼女の細腕に、先ほどまでよりも明らかに力が籠っている様子が見て取れた。
「勿論、いずれは殿下も側室を迎える日が来ることをわたくしも覚悟しております。ですが、せめてこの学園にいる間くらい、わたくしの事だけを見ていただきたいのです。そのためにも、わたくしは出来る限りのことをして少しでも殿下のお心を掴みたいのです」
彼女の声は震えていた。どうやら誰か――おそらくは先ほどのサロンで、だろうが――指摘を受けたことが相当堪えていたらしい。しかし、だからこそ逆にパアナのオウルへの想いが真っすぐに伝わってきてノーマは微笑みを浮かべる。
「殿下は果報者ですね。パアナ様にここまで想って頂けるだなんて」
「まあ、ノーマ様ったら。からかわないでください!わたくしは真剣に……」
パアナは頬を赤く染めて抗議してくるが、これは怒っているせいなのか照れているせいなのか。
ノーマは片手を挙げて彼女を制する。
「ですが事情はわかりました。僕としても可能な限りご協力致しましょう」
これでようやくパアナが相好を崩す。
「助かりますわ、ノーマ様。実を言うと、今日この席にラァさんがいらっしゃらなかったことに少しほっとしておりますの。彼女がいては中々切り出しにくい話題でもありますから」
「今となっては僕としても安堵しておりますよ」
「本当に、身勝手極まりなくお恥ずかしい限りです。ですが、このようなお話ノーマ様以外には打ち上げにくいものでして……」
「ちなみにお付きの方々は何と?」
これにパアナはゆっくりと頭を振った。
「……何も。というより、わたくしが気にしていない振りをしております。彼等ではおそらくわたくしの意を迎えてしまうでしょうから」
「確かに、そうかもしれませんね」
「ノーマ様ならばわたくしと同じく公爵家の方ですし、ご婚約者もおいでです。何より、その素晴らしい御人柄をわたくし自身良く知っておりますから」
「パアナ様にそう言って頂けるとは、恐悦至極です」
ノーマはにっこりと笑ったが、パアナの方は少し口元を緩めるだけだった。そのような社交辞令すらもじれったいかのように促してくる。
「それで……その、どうなのでしょう?」
ノーマは腕を組み空を見上げた。さて、どう答えるべきかと思案し、一息吐いた後に口を開く。
「そうですね……確かに男性として、婚前とはいえ婚約者と全く触れ合えないというのは些か寂しい気持ちもあるというのが正直なところです」
「やはり、そうなのですね」
「とはいえ二人の問題ではありますし、杓子定規に何かをするべきだとは言えないのかもしれません。あくまで互いを尊重し、無理のないペースで関係を進めていくのが一番ではないかと」
「その……ノーマ様達はどの辺まで進んでおられるのでしょうか?も、勿論答えられる範囲で結構ですので……是非とも、参考にさせていただきたく……」
想像以上に突っ込んでくるパアナにノーマもたじたじとなる。これもいつもの彼女なら考えられないほどに無遠慮な質問だった。だからこそ逆に、本気で悩んでいる様子が窺い知れノーマとしても真摯に答えなければならないと腹をくくる。
「……今から話すこと、他言無用でお願いできますか?」
「勿論です!誓って口外致しませんわ!」
「では申しましょう……実は、この学園に入学する直前に……キ、キスを致しまして……」
「キ、キス!?そ、それはやはり口と口の!?」
口元を抑え驚くパアナに、慌ててノーマは否定する。
「ま、まさか!婚姻の儀ではあるまいし、いくら何でもそれは気が早いというものです!僕がしたのは彼女の頬にですよ!」
「そ、そうでしたか……そうですよね。ですがそれでも随分思い切りましたわね」
ほっと胸をなでおろした様子のパアナだが、一方のノーマは胸に手を当てた。
「本当、心臓の音が彼女にも聞こえてるんじゃないかと気が気じゃありませんでしたよ。でも僕も男ですからね、少しは意識してもらわないと困るというものです。何せこれから三年間、数多くの男子達とも共に机を並べるわけですから」
「やはりご心配ですよね」
ノーマは苦笑した。先ほどまでは彼女の心配事だったのに、これではどちらが相談しているのかわからなくなる。
「恥ずかしながら、全くないと言えば嘘になります。僕はラァの事を心から信頼していますが、それでもあれほどの素敵な女性です。彼女の魅力に抗いきれない男達を全てあの細腕で振り払うことができるかわかりませんから」
「高価な宝石をお持ちの方はご心労が絶えませんわね。いつどこから泥棒が狙ってくるかわかったものではありませんもの」
「殿下もきっと同じ思いをしておられると思いますよ」
「……だと良いのですが」
俯き零すパアナ。これにノーマは優しく諭す。
「僕はきっとそうだと思います。もしお二方の間での触れ合いが足りていないのであれば、殿下の方もまたどうやってパアナ様との距離を縮めようと考えておられるのだと」
「ノーマ様……」
「殿下は独特の信念をお持ちのお方ですが、決して王となる者としての道を外すことはないと確信しております。パアナ様のことも、きっと僕如きでは到底想像もつかないような深慮で想っておられることでしょう」
ノーマの優しいが力強い言葉に、パアナの目にも光が宿る。
「……そうですわね。そもそも、わたくしが殿下を信じずしてどうするというのでしょう。少々弱気になっていたことを恥じなければなりません」
「昨日から色々ありましたから。お気持ちはお察しします」
一息つくとばかりに、パアナはカップに残った茶を一気に飲み干し、そして破顔した。
「本当に、ノーマ様とお話できて良かった。わたくし危うく、自ら殿下に秋波を送ってしまうところでしたわ」(*1)
「まだ入学したばかりだというのに次の春が訪れるところでしたよ」
「わかりませんわよ?その前に冷え切ってしまっていたかもしれません」
ノーマは安堵した。そう自嘲気味に聞こえる彼女の台詞は、茶目っ気たっぷりな笑みによってもたらされていたからだ。
冗談を言えるぐらいには回復したと判断しながらも、彼はこの言葉をもってエールと変えた。
「そうならないよう是非温めておいていただかないと」
優雅に笑い合う二人。パアナが手を叩き、お茶のおかわりを側付きに促す。
それから暫くの間歓談を続けた後、和やかな雰囲気のままお茶会は終わった――
――ノーマの退席を見送った後、パアナは再び席につき新しいお茶を入れてもらう。
「思い切ってお尋ねして良かったですわ。やはりヤッチャネンさんが異常なのですよ。お口とお口の……ち、ちゅうだなんて……」
今は近くにいる側付きにも聞こえないぐらいの声でそう零すパアナ。
「でも殿下も、少しくらいならわたくしに触れて下さっても構いませんのに。ノーマ様のように頬にキスとまではいかないまでも……その、軽く抱擁してくださってもバチは当たりませんのよ?」
頬にキス、というのはこの国においてはかなり上位に入る親愛の証だ。親が子供に、或いは夫婦や恋人が互いのパートナーにする事。ただ一方で男女間におけるそれは人目につけばはしたないとも思われる際どい儀式でもある。
パアナとしてもいきなりそんなことは求めていない。いや、婚約期間を考えれば充分に時は満ちていると言えなくもないのだが、これまでの二人の関係はそこまで親密なものではなかった。第二王子にして王位継承権一位のオウルとその婚約者でありながら有力公爵家の長女という互いの立場が、二人の愛を育む時間をあまり与えなかったのだ。
「……幼い頃は良かったですわ。立場など関係なく仲良くしていられましたからね。そういえば一度どこか遠方までお供しましたかしら。現地の子も交えて泥んこになるまで遊んで……今思えばあの時が一番幸せだったのかもしれません」
過去を懐かしむパアナ。細部まで覚えてはいないが、王家と一緒にオーテンバー家も遠方に赴いたことがあった。おそらくは政治的な事情があったのだろうが、幼かった彼女達にとってはほとんどただの旅行でしかなかった。
「そういえばあれは一体どちらでしたでしょう?逗留先まで随分と時間がかかった記憶があるのですが……これは子供の時の感覚だったからでしょうか……」
古い記憶を思い出そうと集中していると、何やら側付きたちが騒がしくなり思考を邪魔されてしまう。
「え……それ本当?」
「ああ、あれは絶対殿下だったって……」
「ちょっと声が大きい。パアナ様の前よ!?」
小さくしゃべってるつもりなのだろうが、閑散としているためむしろよく聞こえた。
不穏な気配を感じたパアナはため息を一つ吐いた後、側付きたちの方を振り返る。
「殿下に何かありまして?」
突然声をかけられ慌てる側付きたち。
「え!?いえ!な、何でもありません」
本来は自身も令嬢である子爵家の娘が代表して答えたのだが、そのあからさまな誤魔化しにパアナは鋭い視線を寄こす。
「何でもないことはないでしょう?殿下がどうのという声はわたくしの耳にも届いております。殿下に何があったのですか?はっきりと仰いなさい」
「じ、実は……その……殿下がお姫様だっこを……ていると……」
はっきりと、と促したにもかかわらず口ごもる彼女。しかし、要点は聞こえた。いや、聞こえたつもりだった。
「おひめさまだっこ?それをでんかが?あいては?」
パアナの語調が整わない。あまりにも衝撃に、彼女の意識は半分飛んでいた。
「……おそらくは、下級の女生徒かと……」
「……つまり、殿下が、わたくし以外の女生徒を、お姫様だっこしていると」
段々と明瞭になってくる意識。自分で口にすると、それが何を意味しているのか徐々にわかってくる。
「あ、いえそうではなく……」
さらに誤魔化そうとする――少なくともそう思い込んだパアナは彼女に雷を落とした。
「お黙りなさい!今さっきあなたがそう言ったばかりではありませんか!」
「い、いえ!しておられたのではなくされ……」
彼女は何か弁明しようとしたが、既にパアナの心中ここにあらずだ。
「殿下……オーテンバー家の姫でもあるわたくしにもして下さったことなどないのに……どうして他の女に……それも貴族でもない下級の女相手に!……いや、だからこそあとくされの無い下々の者相手に?」
焦りよりも不安よりも先に怒りがこみ上げわなわなと震えるパアナ。
彼女の脳裏にあのアホの嫌らしい笑みが浮かぶ。
『もしあんたの方に原因があるんなら、殿下も新しい女見つけちゃうかもねえ~www』
そういえば、入学式でオウルにやたらと絡んでいたあの女も下級だった。
突如怒髪天を衝き、自慢の縦ロールが――どういう理屈か――宙を舞う。まるで熱気にあてられ上昇気流に乗ったかのように。
バンッと思い切り机を叩き立ち上がるパアナ。
ガシャンと倒れる彼女のティーカップ、それにポット。ついでに腰を抜かす取り巻き数人。
「結婚より先に側室探しなど、わたくしぜ~ったいに許しませんわよ!」
パアナはそう吼えた後、「殿下~?殿下~!」と叫びながら庭園を後にした。
(*1)
秋波を送るには「異性の関心をひこうとして色目を使う」という意味があります。




