永野修身元帥のこと
大東亜戦争の勃発を劇的なものにしたハワイ真珠湾奇襲攻撃を構想し、立案し、実行したのは連合艦隊司令長官の山本五十六大将でした。しかし、真珠湾奇襲の推進には困難が伴いました。海軍内に根強い反対論があったからです。とくに海軍軍令部の参謀たちが容赦ない批判をハワイ作戦案に浴びせました。
官制上、連合艦隊司令長官には、ふたりの上官がいました。ひとりは海軍大臣であり、もうひとりは海軍軍令部総長です。軍令部は海軍作戦の総元締めであり、すべての海軍作戦を立案し、その実施を各艦隊司令長官に命じます。
したがって、連合艦隊司令部から作戦案を軍令部に提示することは珍しいことでした。そのためもあって、軍令部参謀たちのハワイ奇襲作戦(連合艦隊案)に対する反対論は手厳しく、さすがの山本五十六長官も手を焼きました。
「ハワイ作戦を実施できないのならば、作戦に責任を持てない。よって連合艦隊司令長官を辞す」
山本五十六大将は容易ならざる決意を表明し、海軍軍令部総長の永野修身大将にハワイ作戦の認可を求めました。
「山本がそこまで言うなら、任せよう」
こうしてハワイ作戦の実施が決まりました。ミッドウェイ作戦の決定にあたっても似たような経緯がありました。つまり、ハワイ作戦にせよミッドウェイ作戦にせよ、最終意思決定者は軍令部総長の永野修身大将だったのです。
ところが奇妙なことに、戦後日本では、永野修身という海軍の重要人物について論じられることがほとんどありません。その理由は、おそらく極東軍事裁判において永野修身が戦犯に指名されたからです。それ以外に理由らしい理由はありません。
このことは戦後日本の歪んだ言論界にあっては珍しいことではありません。しかし、歪んだままで良いはずがありません。帝国海軍史上ただひとり、海軍大臣、連合艦隊司令長官、海軍軍令部総長の三要職を歴任した提督を無視したままでは、日本の歴史に大きな欠落が生じてしまいます。
国際法違反の極東軍事裁判で戦犯に指名されたからといって故人の存在と実績を無視することは連合国に対する無用の迎合であり、日本人としての誇りの放棄です。連合国によって歪められた歴史を修正するため、永野修身提督を真正面から評価する必要があると思います。
永野修身元帥は、明治十三年六月、高知県に生まれました。終生、坂本竜馬を尊敬していたようです。明治三十三年十二月に海軍兵学校を卒業して少尉候補生となりました。明治三十七年二月、日露戦争が始まると、永野修身中尉は出征します。
日露戦争において日本軍をもっとも苦しめたものは旅順要塞だったに違いありません。旅順要塞は遼東半島の先端に位置しています。
この遼東半島をめぐり、日露両国は浅からぬ因縁をもっていました。日清戦争に勝利した日本に清国から遼東半島が割譲されるはずでした。しかし、ロシア帝国が独仏とともに三国干渉をおこない、日本から遼東半島をとりあげました。しかるのちロシア軍は遼東半島に進駐し、無理矢理にロシア領としたのです。
ロシア軍は、十年の歳月と巨額の費用を投じて東洋一の大要塞を旅順に築き上げます。大規模な軍港と市街地をスッポリと囲うように重層的に堡塁群が張り巡らされ、重厚な銃砲火の射線網が構築されました。そして、日本海軍以上の勢力を誇るロシア極東艦隊を旅順港に配置し、日本軍の海上兵站線を脅かしました。しかも、日露開戦後、バルチック艦隊が欧露から旅順を目指して大回航を開始しています。もし、これらふたつのロシア艦隊が合同すれば、日本の連合艦隊に数倍する大戦力となり、連合艦隊の勝ち目はなくなります。連合艦隊が敗北すれば、日本軍の海上兵站線はロシア艦隊によって寸断され、満洲の日本陸軍は補給を絶たれて自滅するほかなくなります。
したがって、日本海軍としては可能な限り早急にロシア極東艦隊を全滅させ、艦船を大急ぎで補修し、やがて来るバルチック艦隊に備えたいところでした。しかし、ロシア極東艦隊は艦隊保全主義をとり、旅順要塞内に逼塞しました。ロシア極東艦隊にしてみれば無理に戦う必要はありませんでした。バルチック艦隊が来航するまで現戦力を保全してさえおけば、日本艦隊を圧倒する戦力になるからです。しかるのちに戦えば良かったのです。
東郷平八郎中将の率いる連合艦隊は、旅順港外からロシア極東艦隊を砲撃したり、要塞砲射程の間近まで接近して挑発したり、旅順港口を閉塞したり、様々に手を尽くしました。しかし、うまくいきません。そこでやむなく海軍は、陸軍に対して旅順要塞攻略を要請するに至ります。陸軍は、乃木希典大将を第三軍司令官に任命し、旅順要塞の攻略を命じました。
要塞攻略のためには大砲が不可欠です。幸い、海軍には予備の大砲と潤沢な砲弾が有りました。そこで海軍は、陸軍による旅順要塞攻略に協力するため、海軍陸戦重砲隊を組織しました。海軍陸戦重砲隊の指揮官は黒井悌二郎中佐であり、その初期戦力は十二サンチ速射砲六門、十二ポンド速射砲十門です。
永野修身中尉は、海軍陸戦重砲隊第一砲隊第三中隊長として旅順攻囲戦に参加しました。永野中尉が指揮するのは、十二サンチ速射砲二門です。
正確な砲撃を実施するためには確固とした砲床が必要です。しかし、戦場には正規の砲座構築資材がありません。やむなく黒井中佐は鉄道用枕木や造船用鋼板などを収集し、仮設砲座を築設させました。六月三十日から築設をはじめ、七月三日に試射を実施できました。結果は良好です。戦史には「充分に速射の目的を達し得べき事を実験せり」とあります。
この時期、第三軍は旅順要塞の東十キロほどの位置に戦線を張っていました。遼東半島を封鎖するように北から第一師団、第九師団、第十一師団が戦線を南北に構築しており、旅順要塞に向けて前進しつつあります。
このうち第十一師団は剣山を奪取したものの、ロシア軍の反撃に遭って苦戦していました。第十一師団には砲兵が不足していたのです。そこで、七月四日、第三軍司令部は海軍陸戦重砲隊に対して第十一師団を支援するよう命じました。
黒井中佐は直ちに前進準備を命ずるとともに、指揮下の将校に地形偵察や陣地選定などを命じました。永野修身中尉には、砲台および道路の築造が命ぜられました。永野中尉は兵員二百名を引率して徹夜工事に従事することになりました。
海軍陸戦重砲隊は、大砲十六門と砲座資材を人力で運搬しました。その距離はおよそ二十キロです。さらに海抜二百四十メートルの高地に道路をつけ、一門につき七十名の兵員を配して頂上に引き上げ、砲座を構築しました。重砲陣地は剣山の東南に位置しており、ロシア軍の半永久陣地から海上までを眼下に展望できます。
第三軍の三個師団は七月二十六日から攻撃を開始しました。海軍陸戦重砲隊も砲撃を開始します。これに対してロシア軍の半永久陣地が反撃の砲撃をはじめました。双方に損害が出ました。この日、海軍陸戦重砲隊は千発の砲弾を発射しました。砲弾不足に悩む陸軍の砲兵隊を補って余りある活躍です。
翌二十七日も戦闘が続きました。日露の砲兵は互いに砲弾を撃ち合いました。海軍陸戦重砲隊にも損害が出ました。しかし、海軍陸戦重砲隊の砲撃は正確を極め、敵の砲台を午前十時四十分までに沈黙させました。そして、七月二十八日朝、ロシア軍は旅順要塞方面へと退却していきました。
七月三十日、第三軍司令部は海軍陸戦重砲隊にひとつの命令を発しました。
「貴隊の一部を土城子南方高地に展開すべし」
黒井中佐は、永野修身中尉の第三中隊を土城子に派遣することに決めました。命令を受けた永野中尉は直ちに準備を開始し、八月二日朝、第三中隊と百名の輸送要員を率いて出発し、土城子を目指しました。
永野中尉の第三中隊は、八月四日、土城子南方にある後甲子山高地に到着し、砲台構築に着手しました。ちなみに、後甲子山高地は旅順要塞の北およそ十キロの位置にあります。六日には十二サンチ速射砲二門の据え付けを完了し、翌日に仮設掩蓋を設置し、直ちに旅順市街に対する間接射撃を開始しました。
間接射撃とは、大砲の位置から敵が直接には見えない状態で実施する砲撃です。そのため、観測班を前進させ、敵を視認し得る場所に待機させておきます。観測班は砲撃目標の座標と標高を指揮所に伝えます。伝えるためには伝令、電話、モールス通信などが使われます。そのデータをもとに指揮所で諸元を算定し、大砲の仰角と旋回角を割り出し、砲列に伝えます。各砲座は指示どおりの角度に大砲を調整し、砲撃します。その砲撃結果を観測班が観察し、修正要求を指揮所に伝えます。
第三中隊の大砲二門は射撃を開始しましたが、一門の砲身が破裂してしまいました。しかし、残りの一門で砲撃をつづけ、旅順旧市街に火災を発生させることに成功しました。
永野中尉の指揮する第三中隊は、八日にも砲撃をつづけ、旅順旧市街に大火災を発生させました。九日には旅順西港に停泊中の敵艦に対する砲撃を試み、戦艦「レトウィザン」の後部に火災を発生させたほか、商船一隻を撃沈しました。
陸上からの砲撃に驚いたロシア極東艦隊は、八月十日、ウラジオストク港へ退避するため旅順を出港しました。港外には日本の連合艦隊が待ち構えており、黄海海戦が生起するに至りました。
永野中尉の指揮する十二サンチ速射砲は、なお射撃をつづけ、港内に残る商船と旅順旧市街を砲撃しました。八月十二日には、破損していた砲身を換装し、速射砲二門で砲撃を続けました。その標的は、西港内の商船、新市街、松樹山堡塁でした。十三日には松樹山と二龍山の堡塁を砲撃しました。永野中尉の第三中隊は十八日まで砲撃を続け、この間に撃ち出した砲弾数は一千二百六十七発に達しました。
こうした経緯に加え、旅順攻囲戦の終了までの出来事に関する永野修身の口述が残っています。
「私の行いました砲撃は八月七日、八日にわたる旅順市街および東港に対する間接射撃、および九日、西港内外に堂々として停泊しておった敵艦隊の主力に対する砲撃により旅順艦隊を港内より追い出した事から始まります。
旅順攻囲戦のあいだバルチック艦隊が漸次東に進み来るに従いまして黒井指揮官が一日でもすみやかに港内艦隊を撃滅しなければならぬと配慮尽瘁された事はじつに非常でありまして、部下たる私どもも攻囲半歳のあいだほとんど休みなき日々の砲戦において港内敵艦隊の撃滅に焦慮しなかった日とてはありませんでした。
我が陸上よりの砲撃に渋々と海上に出ました敵艦隊が八月十日の海戦に敗れ、その大部分は旅順脱出の企図を放棄して再び旅順港内に逃げ込んでまいりまして好射撃目標を我々に提供してくれたのでありますが、敵再度の出撃に対する我が艦隊の準備が整うまではしばらく敵艦隊を撃つな、とのことでありました。その間に敵艦隊は全部東港方面および白玉山の背後に錨地を移し高檣を降ろし、潜伏したのであります」
白玉山というのは旅順要塞内にある小山です。白玉山の東に旅順旧市街が、西に旅順新市街があります。
「我が海軍陸戦重砲隊はもとより攻城砲兵のきわめて有力なる一部として我が陸軍攻撃の進捗に重大なる任務を遂行するはもちろんであると同時に、いかにして山影に潜伏しておる敵艦隊を撃滅せんかと常に苦心勉強したのでありますが、敵もさる者、よくその姿を白玉山その他の丘陵の背後に隠してなかなかこれを見ることができない。ただ、わずかにナマコ山からは装甲巡洋艦「バヤーン」と思わるる艦、その他若干の艦の檣の一部を見ることを得ましたので、はなはだ不充分ながらナマコ山からの観測を主とし、射撃を敵艦に加えてかなりの命中弾を得、またナマコ山からは黄金山麓機器局のある付近がよく見えますので、これを砲撃し、相当の損害を与えました」
ナマコ山とは、旅順要塞の外郭にある丘陵で、高名な二〇三高地のすぐ北に位置しています。旅順港からは直線距離でおよそ二キロです。
「十一月二十二日、黄金山麓にある多数の油タンクが我が砲撃のため大火災を起こし、黒煙濛濛天を蔽うの壮観を呈しましたが、同所は八月八日の我が間接射撃により同様の大火災を起こしたことがあり、この前後二回の大火災で艦船用潤滑油はほとんど消失してしまったということであります。このほか、天候の都合等でナマコ山から観測のできぬ場合などには敵艦隊の予想錨地あるいは東港一帯に対して組織的な散布射撃なども行いました。そのうちに我が第一師団左翼部隊の占領しておる最前線の九三高地から敵艦が見えるというのでさっそく同所にまいりましたところ、同所は敵椅子山砲台に近い所で、約二百メートルを隔てて敵の前線が我と対峙し、その背後に敵堡塁があり、さらにその後方に白玉山の傾斜および黄金山が相重なって見え、水面などはむろん見えませんが、戦艦「ポペーダ」と思わるる煙突の上端がほんのわずかばかりと、前檣の一部、またその右に一隻の軍艦の煙突と後檣の上端がちょっと見えておりました。そこで九三高地より観測して射撃を指揮し、十一月二十四日より敵艦砲撃を始めました。次いで十二月二日より六日に至る前後都合五日間だけの敵艦砲撃で戦艦「ポペーダ」と思わるる艦に四十一発、戦艦「レトウィザン」または装甲巡洋艦「パルラダ」と思わるる敵艦に三十三発、戦艦「ポルタワ」と思わるる艦に十一発の命中弾を得たわけであります。五日間だけの砲撃でもこの成績を得ました。いわんや攻囲半歳にわたり眼の仇のようにして敵艦撃滅に努力した海軍陸戦重砲隊の敵艦および東港付近一帯海軍諸施設の破壊に寄与したところは決して少なからずと確信いたします。十二月七日、私は満山の死屍を踏んで二〇三高地にのぼり、はじめて旅順港内の大部分を明らかに見ました。おそらくはこれが海軍将校として最初の港内展望と思われますが、港内で戦艦「ポルタワ」、戦艦「レトウィザン」はすでに沈没し、戦艦「ポペーダ」もまた著しく右に傾斜しておるのを認めました。この日は、陸軍も海軍も二〇三高地頂上における観測所の建設および電話線の敷設などに従事し、いよいよ旅順艦隊に最後のトドメを刺した陸軍二十八センチ榴弾砲および海軍十五サンチ砲による港内大砲撃が八日より行われましたから、前記「ポルタワ」、「レトウィザン」の二隻の沈没はすでにその前にあったのであります。陸軍二十八センチ榴弾砲の威力は非常に大でありましたので自然に諸種の奏功は二十八センチ榴弾砲に帰せらるる傾きがあります。十二月五日に海軍十五サンチ砲で実施した敵艦砲撃中、白玉山背後の敵艦所在地で非常な大爆発が起こったその当時、九三高地付近におった木下少尉の報告によれば大爆発のあとでペンキの焼ける臭いがさかんにしたというので、私どもは大物を仕留めたに違いないと喜んだ次第ですが、二十八センチ榴弾砲は二〇三高地奪取前の十二月五日および六日には敵艦砲撃などはやったとは思いません。二〇三高地奪取前に戦艦「ポルタワ」などが沈んでおったことから考えて、前記爆発は連日の我が海軍十五サンチ砲撃の結果に大関係を有しておるものであったと信じておる次第であります。私が最初に間接射撃に用いた十二サンチ砲は千九百発撃った後、次の中隊長に引き継ぎしましたが、その中隊長は同大砲で千七百発撃ったようですから、同大砲は前後三千六百発も撃っておるわけであります」
旅順港内にひそむ敵艦を砲撃すべく永野修身中尉がさまざまに創意工夫を重ねていた様子がわかります。
日露戦争後、永野修身は海軍軍人として順調に昇進していきました。略述すると次のとおりです。
明治四三年 海軍少佐
大正 三年 海軍中佐
大正 九年 アメリカ大使館付武官
大正 十年 ワシントン会議全権随員
大正十二年 海軍少将
昭和 二年 海軍中将
日本は日露戦争に勝利し、不平等条約を改正し、国際的地位を高めていきました。第一次世界大戦に連合国として参戦した日本は、パリ講和会議とワシントン会議に参加して列強の一角となり、さらに国際連盟の常任理事国となりました。列強に侵略されかねなかった幕末の日本は国家改造に成功し、まさに破竹の勢いでひとつの頂点をきわめたといえます。
太平洋地域の安全保障体制を確立するために締結されたのがワシントン条約です。同条約により日本の安全が保障されるはずでした。だからこそ日本は、日英同盟を破棄し、さらに対米七割という不平等な海軍軍縮条約をさえ呑んでワシントン条約を締結したのです。ワシントン条約に対する日本の期待がいかに大きかったかがわかります。ところが皮肉なことに、このワシントン条約こそが日本転落の火種となるのです。このことは重要ですので、しばらく永野修身から離れて説明したいと思います。
ワシントン条約が成立した後、もっとも同条約を遵守したのは日本でした。一方、同条約をまったく守ろうとしなかったのは支那政府です。
日本と支那大陸の関係は緊密化していました。日本政府は満州の鉄道権益を得ていたし、大陸に進出する日本企業が多く、支那や満洲へ入植する日本人がすくなくありませんでした。よって日本政府は国際法やワシントン条約を守りつつ、支那大陸における自国民の安全を守ろうとしました。当然のことです。
これとは逆に、ワシントン条約どころか国際法さえもいっこうに守らなかったのが支那政府です。守る意志も能力もなかったのです。なぜなら支那には実質的な政府がなく、存在したのは軍閥だったからです。支那は対外的には支那共和国あるいは中華民国という国名を名乗っていましたが、その実態は政府などではなく、軍閥割拠状態に過ぎませんでした。常に内紛が絶えず、治安が悪く、賄賂やアヘンが横行していました。日本人が殺されたり、暴行されたり、略奪されたりしても支那軍閥はいっさい関知しませんでした。支那には政府も官憲も司法も無かったのです。
支那の現状がこのようであってみれば、日本政府および日本世論が支那に対して強い不満を溜め込むのは当然でした。
このような状況が十年以上続きました。それでも日本政府はなおワシントン条約に一縷の希望をつなぎ、アメリカに特使を派遣しました。ワシントン会議を主導したアメリカ政府にひとつの申し入れをするためです。
「支那政府がワシントン条約を遵守するようにアメリカ政府から働きかけて欲しい」
日本の切実な願いにアメリカは冷淡でした。米国務長官は、特使に意味不明な答弁をするだけでした。このとき特使を務めたのは内田康哉という外交家です。かつてワシントン会議で大いに働いた国際協調主義者です。しかし、内田特使はアメリカ政府の態度に失望し、深い失意とともに帰国します。
その後も日本政府は駐米大使を通じて要望を続けました。
「支那政府がワシントン条約を守るように、ワシントン会議を主導したアメリカ政府こそが支那政府に注意して欲しい」
日本政府からの再三の要請に対するアメリカ政府の回答は驚嘆すべきものでした。
「各国は自由に行動する権利を有する」
この回答は日本政府要人を大いに失望させました。あるいは激怒させました。国民感情も悪化しました。日本人の隠忍自重にも限度があったのです。国際協調主義に対する日本政府の信頼が瓦解した瞬間です。
「自由に行動して良いのなら、国際法もワシントン条約も無意味じゃないか」
そんな時期に発生したのが満洲事変です。支那軍閥の長年にわたる不当な措置に対して関東軍が決起し、これを満洲居留民が全面的に支持しました。日本政府は関東軍の行動を止めようとしましたが、関東軍は進撃をつづけて満洲を平定していきました。日本の世論は関東軍を支持しました。
満洲問題は国際連盟の議題となりました。国際連盟は、その高尚な理想とは裏腹に、実質は低劣なものでした。国際連盟加盟国の多くは支那事情にまったく疎い欧州の小国でした。支那事情もワシントン条約も関心の外であり、ろくに知りもしませんでした。特命全権大使松岡洋右の弁舌も虚しく、国際連盟総会は日本を非難する決議を採択することになりました。
日本政府は連盟脱退を決断します。日本は国際協調主義から自主外交路線へと舵を切ったのです。ワシントン体制が欺瞞でしかないことを悟った以上、国際連盟に止まることはできませんでした。このとき連盟脱退を主導したのは内田康哉外相です。かつてワシントン条約の締結に邁進し、そののち特使として渡米してアメリカ政府の本意を質して失望させられた内田康哉外相が国際連盟脱退を推進したことは、とても象徴的なことです。その際、土下座外交の元祖ともいうべき国際協調主義の幣原喜重郎でさえ国際連盟脱退を支持しました。
こうした事柄の経緯からすれば、日本が十数年間にわたって受け続けてきた被害こそ救済されるべきでしたが、国際世論は不公平であり、不条理であり、不見識でした。条約遵守能力さえ有しない支那政府を被害者と勘違いしたのです。そもそも支那と満洲の違いさえ知らない欧州の小国代表が愚劣な判断をしたのです。支那政府のプロパガンダはきわめて巧妙だったといえます。
さらに日本の不幸は重なります。それはフランクリン・ルーズベルトがアメリカ大統領に就任したことです。ルーズベルト大統領は、「ニュー・ディール」の名の下に共産化政策を推進します。従来の反共主義を棄て、容共主義に走ったのです。ルーズベルト大統領は、ソビエト連邦を国家承認すると大々的な対ソ経済支援を開始します。容共政策をとるアメリカは、当然の帰結として防共国家たるドイツと日本を敵視することになりました。つまり、日米の角逐は全面的にアメリカ側の都合によって発生したものです。
こののち日本政府は一貫してアメリカとの協調と和平を模索しつづけ、何度も何度も日米交渉の開始を要請し続けます。松岡洋右外相も東條英機総理もそうでした。しかし、こうした日本の願いを完全に拒絶しつづけたのは、アメリカ大統領ルーズベルトです。
こうした世界情勢の変化を永野修身は注視し続けたに違いありません。しかし、手の出しようもありません。すべては国際政治のことであり、またアメリカの事情です。アメリカ大統領が容共主義、ソビエト支援へと政策を転換してしまった以上、防共国家日本の運命は定まったのも同然でした。永野修身は、日本が転落していく時代に海軍軍人として栄達していきます。
昭和三年 海軍兵学校長
昭和五年 海軍軍令部次長
昭和六年 ジュネーブ海軍軍縮会議全権
昭和八年 横須賀鎮守府司令長官
昭和九年 海軍大将
海軍兵学校長としての永野修身は、生徒の自主性や積極性を重視するダルトン方式を採用しました。何事にも創意工夫を欠かさない永野らしい試みでした。しかし、この教育法は、教育界においてさえ実験段階のものだったため海軍には根付きませんでした。
昭和十一年、永野修身は海軍大臣に就任します。このとき、海軍航空本部長として海軍航空の錬成に邁進していた山本五十六中将を次官に任命しています。山本中将は、必ずしもこの人事を喜びませんでした。しかし、永野大将の方は、いつ頃からか山本五十六の才幹を見抜き、事ある毎に抜擢していました。
この頃すでに海軍軍縮条約は失効し、主要海軍国は建艦競争の時代に突入していました。その際、戦艦を建造すべきか、空母を建造すべきか、航空機を充実させるべきかで議論が大いに紛糾しました。これを裁いたのは永野修身海軍大臣です。結果的に、大和型戦艦二隻、翔鶴型空母二隻を建造し、航空隊を充実させることが決められました。これらの兵備がのちに大東亜戦争で活躍することになります。
永野修身海軍大臣は、海軍の各種制度を改革しようと計りますが、広田弘毅内閣が短命だったため充分な制度変更はできませんでした。
昭和十二年、海軍大臣を辞した永野修身大将は連合艦隊司令長官となります。すでに支那事変が始まっていました。この後、支那事変の戦線は拡大し、支那大陸全域を舞台とする大戦争になります。その戦域は日露戦争の数十倍もの規模であり、日本がかつて体験したことのない大戦です。
支那事変は主に陸上の戦いでしたが、海軍も戦いました。海軍は、長大な支那の海岸線を封鎖し、陸軍の海上輸送を支援し、上海では海軍陸戦隊が獅子奮迅の活躍をしました。さらに、海軍航空隊が支那大陸の上空を飛び交いました。支那側には海軍らしい海軍がありませんでしたから日本海軍が負ける心配はありませんでした。陸軍も連戦連勝でした。
しかし、それにもかかわらず日本軍は勝利をつかめませんでした。ズルズルと支那事変が長引いた原因は、米英による対支支援があったからです。いわゆる援蒋ルートを通じた軍事援助です。日本軍がその援蒋ルートを遮断するたびに、米英はルートを南に移動させました。このため戦線はドンドン南下していきました。米英の援蒋ルートはついにインドやビルマを経て中国へ向かう険しい山間ルートとなります。この異常なまでの対支支援には、アメリカの政策的決意が表れていました。つまり防共国家日本の打倒です。
連合艦隊司令長官となった永野修身大将は、ラジオで国民に向けて演説したことがあります。その内容は道徳的なものでした。
「今朝は皆さんに、本当の勇気ということについてお話いたしましょう」
そのように語りかけた永野修身大将は平易な言葉で勇気を語りました。
「日本人である以上は、年長者でも子供でも、また男でも女でも誰もが平素から勇気をもっていなくてはならぬのであります。それでは本当の勇気とはどんなものかと申せば、それは皆さんが正しい事と思ったらやり通す力、それが本当の勇気であります。手近な話が、朝起きるのが嫌と思っても、ガバッと起きる元気、勉強したくなくても我慢してやり抜く辛抱、苦しくなったから負けてもよいという様な気持ちを抑えつけて頑張り通す運動精神、面倒くさいと思う心を引き締めてキチンとする礼儀など、何でもかんでも良い事と思ったら必ずやる、悪いことと気がついたらどんなにやりたくても一切やらない、つまり自分の我が儘な心を抑えつけるということが、本当の勇気であります。ただ力が強い、暴れ廻って誰にも負けないというのや、口先ばかりで強そうなことをいう様なのは決して本当の勇気とはいえない、本当の勇気というものは、人に親切で、温順であって、ちょっと見てもわからぬが、いざ自分の務めを果たすべき時には、いかなる障害をも打ち破って進むという、大きな力になってあらわれてくるものです」
これこそ永野修身自身の心がけだったのでしょう。
国際情勢は好転しませんでした。欧州ではすでに大戦が始まっていました。アメリカは、英ソとの関係を深める一方、防共国家のドイツと日本を敵視し、経済制裁を開始していました。日本政府は、再三再四、アメリカ政府に対して交渉の開始を求めましたが、ことごとく無視されました。やむなく日本は独伊と三国同盟を結びます。米英の援蒋ルートは南仏印にまで南下したため、支那事変の収束を計る陸軍は南進せざるを得なくなりました。
そのような困難な状況の昭和十六年四月、永野修身大将は軍令部総長に就任します。持病のあった永野は迷いましたが、「誰かがやらねばならない」と思い直し、引き受けました。まさに国難の時代に国家の重職に就いのです。火の粉をかぶるようなものでした。
この時期、日本政府の最高意思決定機関は大本営政府連絡会議でした。その構成員は、総理、外務、大蔵、陸軍、海軍の各大臣と企画院総裁、さらに陸軍参謀総長と海軍軍令部総長です。
重大事件が発生したのは六月です。欧州で独ソ戦争が勃発したのです。日本はドイツと三国同盟を結んでおり、またソ連とは中立条約を結んでいました。どういう立場をとり、どう行動すべきか、大議論となりました。北進してドイツとともにソ連を討てという意見、条約を遵守して事態を静観せよという意見、むしろ南進しろという意見、議論は百出しました。
「北進してドイツを勝たしめよ」
そう主張したのは松岡洋右外相でした。松岡外相の本音は、対米戦を避けるところにありました。南仏印進駐を抑止するために北進論を唱えたのです。これに対して永野修身大将は対ソ開戦に反対するため、南進論を唱えました。
「北進には反対する。むしろ仏印、タイに兵力行使の基地をつくる必要がある」
松岡にせよ永野にせよ、政治的発言というものは得てして本音とは異なるものです。そして、松岡の論も、永野の論もふたつながら正しかったと言えます。支那事変を抱えながらの対ソ開戦が無謀なら、対米開戦も無謀です。要するに日本は二進も三進もいかない窮地にすでに追い込まれていたのです。
七月二日、政府と統帥部は「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を御前会議で決定しました。支那事変収束のため南仏印に進駐することが決められました。北進はしないものの、不測の事態に備えるため陸軍は満洲に兵力を集中することとなりました。海軍は、アメリカが参戦することを想定し、その場合には武力を行使するのもやむを得ないとしました。
日本が南仏印に進駐すると、アメリカは待っていたように対日制裁を強化しました。七月、在米日本資産の凍結を開始し、八月、対日石油輸出禁止を開始しました。イギリスとオランダもアメリカに追従しました。
これにより死命を制せられた日本は戦争を決意せざるを得なくなりました。九月六日に御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」には日本の苦悶が書かれています。
「帝国は自存自衛を全うするため対米英蘭戦争を辞せざる決意のもとに速やかに戦争準備を完整す」
これは戦争の決意でした。自衛のための戦いです。あわせて日本政府は対米英外交に一縷の望みをつなぎました。
「帝国の達成すべき最小限度の要求事項ならびに帝国の約諾し得る限度は別紙の如し」
日本政府は対米英交渉に際し、最小の要求だけをしようと決めていました。極めて譲歩的なその内容は常識的なものでした。日本はアメリカに対して、支那事変に介入せず、支那事変処理を妨害せず、ビルマの援蒋ルートを閉鎖して援蒋活動をやめ、日本との通商を回復するよう求めたのです。ただ、それだけです。
そもそも太平洋の彼方に位置するアメリカが、なぜ支那事変に介入するのか、その行為はまさにアメリカの侵略でした。アメリカは大々的な軍需物資を蒋介石に与えていたほか、民間の義勇軍を装って空軍部隊を支那に派遣していました。支那大陸の上空で日本海軍航空隊が戦った相手は、実はアメリカ空軍だったのです。
御前会議において永野修身軍令部総長は次のように説明しました。
「帝国は今日、油など軍需資材の多数が日々枯渇への一路をたどり、ひいては国防力が逐次衰弱しつつある状況でありまして、もしこのまま現状を継続していきますならば、若干期日の後には、国家の活動力を低下し、ついには足腰立たぬ窮境に陥ることを免れないと思います」
次いで永野大将はアメリカの情勢を語ります。
「米国の軍備は非常なる急速度をもって強化増勢されつつありまして明年後半期ともなりますれば米国の軍備は非常に進捗し、その取り扱い困難となるの情勢にあります」
そして、海軍の戦争決意を次のように述べました。
「戦争避くべからざるに立ち至りますならば、帝国としてはまず最善の準備を尽くし機を失せず決意、特に毅然たる態度をもって積極的作戦に邁進し、死中に活を求むるの策に出でざるべからずと存じます」
日本は、開戦のはるか以前から悲壮な覚悟をせざるを得なかったのです。なにしろアメリカは世界最強の軍事大国であり、その国力は日本の二十倍です。
永野修身大将は作戦の見通しを述べました。その内容は、のちの大東亜戦争の展開をほぼ正確に言い当てています。
「彼が最初より長期作戦に出ずる算は極めて大きいと認められますので帝国と致しましては長期作戦に応ずる覚悟と準備が必要であります。もし、彼にして速戦速決を企図し、海軍兵力の主力を挙げて進出し来たり速戦を我に求むることあらば、これ我が希望するところでございます。・・・勝利の算は我に多しと確信いたします。ただし、帝国がこの決戦において勝利を占め得たる場合におきましても、これをもって戦争を終結に導き得ること能わざるべく、おそらくは爾後、彼はその侵されざるの地位、工業力および物資力の優位を頼んで長期戦に転移するものと予想せられます」
大苦戦が予想されましたが、そのことを永野大将は包み隠さず発言しました。非常な勇気です。
「帝国と致しましては進攻作戦をもって敵を屈し、その戦意を放擲せしむるの手段を有しませず、かつ国内資源に乏しきため長期戦は甚だ欲せざるところではありますが、長期戦に入りたる場合、よくこれに堪え得る第一要件は、開戦初頭、速やかに敵軍事上の要所および資源地を占領し、作戦上堅固なる態勢を整うるとともに、その勢力圏内より必要資材を獲得するにあり、この第一段作戦にして適当に完成されますならば、たとえアメリカの軍備が予定どおり進みましても帝国は南西太平洋における戦略要点をすでに確保し、侵されざる態勢を保持し、長期作戦の基礎を確立することができます」
永野大将は、以上のように第一段作戦の重要性を説きました。永野大将は苦しい戦いになることを包み隠さずに言明しました。
「敵を屈し、その戦意を放擲せしむるの手段を有しませず」
これほど正直に日本軍の力の限界を発言していたのです。当たり前とはいえ、日本軍がアメリカ大陸に向けて侵攻し、広大なアメリカ合衆国を制圧して、ワシントンに日章旗を立て、アメリカ大統領を捕虜にするなど不可能でした。それでも戦わざるを得ない以上、長期持久を視野に入れねばなりません。そして、そのためには早期開戦の決断が必要であるとしました。
「第一段作戦成功の算を多からしむる要件は、第一に彼我戦力の実情より見まして開戦を速やかに決定いたしますこと、第二に彼より先制せらるることなく我より先制すること、第三に作戦を容易ならしむる見地より作戦地域の気象を考慮することなどが極めて必要でございます」
こうして帝国国策遂行要領が決定されました。御前会議の後、永野修身大将は次のように発言しています。
「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」
非常な国家的決断をした第三次近衛文麿内閣でしたが、ゾルゲ事件の摘発を機に総辞職してしまいます。
後継したのは東條英機内閣です。東條内閣の発足にあたり、昭和天皇は「先の御前会議の決定事項にこだわるな」と仰せになり、和平の追求を新総理に求めました。東條英機総理は恐懼して拝聴し、対米外交重視の姿勢で内閣を運営します。
東條内閣の外相東郷茂徳は、日本として限界といえる譲歩案をアメリカに示し、日米交渉開始を打診しました。しかし、アメリカ政府の態度には誠意がなく、日本政府は十一月五日、帝国国策遂行要領を再度決定します。
「対米英蘭戦争を決意し、左記措置をとる」
その措置とは、武力発動時期を十二月初頭として陸海軍は作戦準備をし、同時に外務省は対米交渉を継続するというものでした。そして、
「対米交渉が十二月一日午前零時までに成功せば武力発動を中止す」
とあり、日本政府が最後まで外交交渉に希望をつないでいたことがわかります。
しかし、十一月二十五日、ついにハル・ノートを突きつけられるに至り、日本政府は開戦を決意せざるを得ませんでした。
十二月一日、御前会議の決定で開戦が決められました。
「帝国は対米英蘭に対し開戦す」
日本はまさに窮鼠となっていました。米英蘭支に包囲され、経済、金融、外交、軍事のあらゆる面から圧迫されていました。その窮境の原因は、アメリカ政府ひいてはルーズベルト大統領の対日敵視政策にありました。
アメリカは、独ソ戦争下にあるソビエト連邦に対して大々的な軍需物資支援を北太平洋経由で実施していました。満洲の関東軍は、アメリカの輸送船団が大量の軍事物資をウラジオストク港へ搬入し、それらの物資がシベリア鉄道で欧露へ輸送されていく状況を監視していました。ソ連と戦っているドイツは、同盟国の日本に要求します。
「アメリカがウラジオストク経由で実施しているソ連への軍需輸送を阻止してくれ」
ドイツにしてみれば当然の要求です。しかし、アメリカを刺戟したくなかった日本は、同盟国ドイツの要求をさえ断りました。そこまでアメリカに譲歩していたのです。
また、支那事変解決の仲介を日本はアメリカに依頼しましたが、アメリカは意にも介さずに拒絶し、それどころか、蒋介石に対する軍需援助を大々的に展開していきました。
日本としては支那事変解決のため援蒋ルートを遮断せざるを得ません。援蒋ルート遮断のために日本が南仏印に進駐すると、アメリカは待っていたかのように在米日本資産を凍結し、さらに対日石油輸出禁止を実施しました。それでもなお日本が隠忍自重したことにこそ、後世のわれわれは驚異を感じるべきでしょう。日本は戦争をしたくありませんでした。国力において日本の二十倍を誇るアメリカと戦争をしても勝つ見込みがありませんでした。
度重なる重要会議に列席した永野修身軍令部総長にしてみれば、断腸の思いだったでしょう。それでも決断するほかありませんでした。いざ戦争となれば多くの部下を死地へと追いやることになります。そもそも永野修身には米国留学と米国駐在の経験があり、「アメリカに住みたい」と言うほどの親米家でした。そんな永野がアメリカとの戦争を望むはずがありませんでした。
日米戦争勃発の原因はすべてアメリカ側の事情にあったといえます。正確にはルーズベルト大統領の容共政策、ひいては防共国家敵視政策にありました。ルーズベルトは嘘の名人でした。政治家は誰でも嘘つきですが、ルーズベルトもそうでした。共産主義を「ニュー・ディール」と言い換え、民主国家日本を「全体主義国」と言い換えて、アメリカ国民をだましていました。対日経済制裁や対日敵視外交についてルーズベルト大統領はアメリカ連邦議会に知らせることなく隠蔽していました。アメリカ国民を衆愚化して戦争に駆り立てた張本人がルーズベルトだったのです。
そうであってみれば、日本政府がいかに努力したところで、また永野修身がどれほど知謀を絞ったところで事態を好転させることは不可能でした。
この間、海軍軍令部は第一段作戦の立案に多忙を極めていました。速戦即決に備えつつ、長期持久態勢を構築するというのが目的です。参謀たちは作戦立案、情報収集、陸軍との調整、連合艦隊司令部との調整、関係省庁との連絡などに邁進していました。第一段作戦の基本構想においては各部局間に齟齬はなく、作戦は続々とできあがっていきました。
第一段作戦の眼目は、なんといっても南方資源地帯の確保です。海軍の第二艦隊と第三艦隊は陸軍の輸送船団を援護して南方作戦を支援します。空母機動艦隊は、南方資源地帯の外郭域を大機動して敵基地に次々と空襲を加え、南方作戦を支援します。戦艦戦隊を主力とする第一艦隊は瀬戸内海に待機し、潜水艦部隊は長駆潜行して、敵基地の動静を探ります。
ただ一点、連合艦隊司令部と軍令部のあいだで揉めたのが開戦劈頭の真珠湾奇襲でした。その実施の可否をめぐり、参謀たちは大議論を重ねましたが結論に至らず、最終的には軍令部総長永野修身大将の一決で実施することとなりました。
第一段作戦は大成功でした。およそ半年間で日本軍は南方資源地帯を確保しました。南雲機動部隊はハワイ真珠湾のほか、ソロモン諸島の北端からインド洋まで大遠征をし、行く先々で敵基地を空爆しました。日本軍は一応の長期持久態勢を手に入れることができました。
海軍は攻勢を続けます。長期戦となれば国力差から圧倒的な戦力差が生まれ、為す術がなくなるとわかっていたからです。できるだけ早くアメリカ海軍と決戦するために知恵を絞りました。軍令部は米濠遮断作戦を構想し、連合艦隊司令部はミッドウェイ作戦を案出しました。
軍令部と連合艦隊のあいだで再び激論となりました。参謀同士の議論では決着がつきません。そして、山本五十六連合艦隊司令長官が辞意を表明すると、永野修身軍令部総長が「山本に任せよう」と言い、連合艦隊案が採用されました。
永野修身大将は、具体的な事柄は部下に任せ、細部には口出しせず、部下の意見が割れて軍令部総長の決裁が必要なときだけ速断速決しました。
連合艦隊の総力をあげて実施したミッドウェイ作戦は、残念ながら惨敗に終わりました。日本海軍の主兵力たる航空母艦四隻が撃沈され、多数の航空機を失ってしまったのです。唯一の勝利の可能性だった短期決戦構想はほぼ破綻したといえます。
このとき、敗軍の将たる南雲忠一中将を山本五十六連合艦隊司令長官は責めませんでした。そして、永野修身軍令部総長も山本五十六大将を責めませんでした。こうした永野修身の態度は敗戦後も変わらず、最前線で戦った将兵を責めることはありませんでした。重要な任務を信頼する部下に任せ、責任は自分が負うという態度は一貫していました。
ミッドウェイ海戦から二ヶ月後の昭和十七年八月、戦場は遙か南洋のソロモン諸島へ移りました。アメリカ軍がソロモン諸島南部のガダルカナル島へ上陸したのです。日本軍は、すでにソロモン諸島北部のラバウルに最前線基地を確保していました。日米両軍は千キロの距離を隔てて雌雄を決することになりました。
長期戦になれば勝ち味のなくなる日本海軍としては、無理を承知で遠隔地での決戦を求めざるを得ませんでした。ガダルカナルには確実にアメリカ艦隊主力が存在しています。これを叩いて早期講和に持ち込むのが日本海軍の唯一の敗戦回避の可能性だったのです。
日本軍の攻勢に対してアメリカ軍は粘り強く戦い、ガダルカナル島を守り抜き、日本軍を消耗戦に引きずり込みました。
ミッドウェイの敗北を雪がんとする南雲忠一中将は、再建なった空母艦隊を率いてガダルカナル島沖へ進出し、数度の空母艦隊決戦に挑みました。その勝敗はほぼ互角でした。日米両軍ともに激しく消耗し、昭和十七年末には日米双方の空母艦隊は戦線を離脱せざるを得なくなり、再建競争に入りました。
一方、ガダルカナル島の日本陸軍部隊は飢餓と欠乏が激しく、輸送作戦もことごとく失敗したため、年末に撤退が決められました。そして、昭和十八年に入ると物量に勝るアメリカ軍が優勢となります。
昭和十八年
二月 ガダルカナル島撤退
四月 山本五十六大将戦死
五月 アッツ島玉砕
十一月 マキン島、タラワ島玉砕
永野修身軍令部総長は、昭和十八年六月に元帥府に列せられましたが、悦びはありません。開戦前に予想したとおり、長期戦の戦勢となっていたからです。日本は国を挙げて軍備増強に努めていましたが、国力の格差は如何ともしがたいものです。
アメリカ軍はソロモン諸島の戦いを制し、太平洋へ顔を出しました。新戦場は南洋諸島です。アメリカ海軍は圧倒的な戦力の空母艦隊を日本海軍よりも早く再建し、戦線へ投入しました。国力差がいよいよ戦力差となって現れてきたのです。南洋諸島には日本海軍の兵站基地トラック島がありました。しかし、そのトラック島さえアメリカ軍の激しい空襲に曝されるようになり、連合艦隊はやむなくシンガポール南方のリンガ泊地にまで根拠地を引き下げざるを得ませんでした。もはや日本軍の勝利はありません。
これが将棋ならば「投了」するところです。しかし、戦争には投了がありません。停戦協定が成立するまで戦いはつづきます。
昭和十九年二月、東條英機総理の改革的人事により、永野修身元帥は軍令部総長を辞職しました。じつに長い軍歴でした。
昭和二十年の終戦時、永野修身元帥は自決しようとしますが、親友の忠告に従って思いとどまります。
永野修身元帥は、極東軍事裁判で戦犯とされました。開戦時の軍令部総長だったことが災いしたというほかありません。永野修身は自己弁護をいっさいせず、真珠湾奇襲はすべて自分の責任において実施したとし、「軍事的には大成功だった」と述べました。
二千年に及ぶ日本歴史のなかで占領期こそが暗黒時代でした。民主化などは大嘘でした。実際に行われたことは弱体化と共産化でした。日本は完全に連合国の官僚達によって独裁的に支配され、戦時以上の厳しい言論統制下に置かれました。連合国に対する批判はいっさい許されず、これを犯せば多額の罰金、公職追放、免許停止などの厳罰に処せられました。日本女性が米兵にレイプされても被害はいっさい認められませんでした。日本人がかつて経験したことのない隷属状態です。
極東軍事裁判は、裁判とは名ばかりの政治ショーでした。検察側の証言や証拠は怪しいものでもドシドシ採用される一方、被告側の証言や証拠はことごとく裁判長によってにぎりつぶされてしまいました。
被告となった永野修身は裁判に絶望し、その心中をひそかに親族に宛てた手紙に書き残しました。
「自分はかってシナ問題はもちろん、そのほか一切の謀略あるいは政治的策動等に関与したることなく、終始一貫、純然たる海軍軍人として極めて公明正大なる公私の生活を営み来たり」
自分にやましいところはまったくないと書いています。そして、軍令部総長時代の困難な政治情勢をふりかえり、陸軍に対する不満を述べています。
「かくて対英米交渉は陸軍の態度を中心として到底その好転を期し難く、また誰人と雖も陸軍を説得してその態度を変換せしめ得る者なかりしは確実なる事実なり」
海軍の立場からすれば、陸軍に引きずられて開戦のやむなきに至ったと感ぜずにはいられなかったのでしょう。同時に、永野はアメリカに対する憤懣も表明しています。
「戦争はひとり日本だけの責任ではない。米国の指導者階級の人や国務省の事務当局その他、あるいは陸海軍軍人のなかにも反日、侮日の人が沢山いて活動した。対日通商条約の破棄の如き、また和蘭と気脈を通し、油の供給を絶ち日本の活力を喪失せしめんとしたのは正に武器を使用せずして人を殺すの手段である。(アメリカの)シナに対する抗戦援助は同盟以上である。また米英とも大急速にその兵力を増強し、日本を包囲する軍事施設、特に飛行場の急設に努め、日ならずして日本を無力の窮地に陥らしめんとし、日本として遂に自衛戦を覚悟せしめたのである」
文中、「対日通商条約の破棄の如き」とありますが、これは昭和十五年にアメリカが日米通商航海条約を一方的に破棄した事実を指しています。これにより日米間の貿易はほとんど不可能となりました。日本はアメリカに交渉を求めましたが、アメリカは聞く耳を持ちませんでした。開戦の二年前からアメリカは宣戦布告にも等しい対日制裁を実施していたのです。
こうした永野修身の主張こそ正当なものでしたが、連合国の圧倒的な言論統制下にあって、その正論は完全に封殺されてしまいました。
永野修身には心臓病の持病がありました。冬の寒い日、永野の部屋のガラス窓が割れました。永野はやむなく新聞紙を御飯つぶで窓に張り、寒気をしのいでいました。すると連合軍の守衛が規則違反だと言って新聞誌をはぎとりました。永野がまた張る、守衛が剥がすという繰り返しとなりました。それでいて守衛はガラス窓を補修せず、放置しました。寒気に耐えきれず、老体の永野は風邪をひきました。一ヵ月後、永野は廊下を歩いている時に大量喀血をし、聖路加病院に入院しましたが、数日後の昭和二十二年一月二日に死去します。明らかに捕虜虐待であり、人道に対する罪です。それを裁いている側の連合国が犯したのです。
輝かしい軍人人生を送ってきた人物の最晩年は悲劇となりました。
戦後日本の歪んだ言論環境下では、不思議なことに山本五十六元帥だけが偏ったかたちで称揚され、永野修身元帥のことは黙殺されています。また、有りもしなかった日本軍の残虐行為が捏造されて執拗に流布される一方、原爆投下や東京大空襲やシベリア抑留をはじめとする連合国側の非人道的な残虐行為については、ほとんど非難されることがありません。言論界ばかりか日本政府さえ日本の立場を守ろうとせず、連合国に迎合する発言をくり返しています。
日米開戦前、永野修身大将は次のように述べて戦う決意を表明しました。
「戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう」
永野修身が再起するであろうと期待した日本精神は、はたして戦後の日本人のなかに残っているのでしょうか。