野良猫クロエ【カラー】
まだ日が昇ったばかりの時間帯、俺はすでに起床していた。
今日は神の塔カルガディアへと向かう日である。トア、リーシアも前日に準備は済ませてあるだろう。
動けるようになったイナから一緒に行くと随分粘られたがなんとか説得できた。
魂の契約を結んだことでイナにも魔王としての性質が混ざっているかも知れない。それにこの国に居れば幾分かは安全だ。
悪魔の契約をしたリドとシェフィ。二人の強さは俺に匹敵、いや超えている可能性だってある。シェフィが条件次第とは言っていたが……
問題はどちらかと言うと俺たちの方だ。未知、それは恐怖の対象だ。
リーシア、トアを守れるかどうか……
コンコンッと扉をノックする音。
「いいぞ」
「失礼します」
「クロエか」
イナが動けるようになった為、今クロエはやることがない。つまりこの後の展開は大方予想が出来る。
「マスター。私も行きます」
だろうな。俺はクロエの分のコーヒーも淹れる。
「砂糖は?」
「三個ください」
「多いな、ほら」
「ありがとうございます」
朝の日差しが俺たちを照らしている。ホコリがきらきらと光に反射して心地いい空間を醸し出している。ホコリなんだけどな。
光るホコリがクロエを映えさせる。ほんの少しの肌寒さも、日があたっているおかげか気にならない。
クロエは一口コーヒーを飲んでから喋った。
「私が、イナの看病をしている間マスターはカラムスタ王国へと向かっていました。理由も分かっています。だから我慢していました。
ですが、寂しかったです」
「クロエ……」
クロエを神の塔へと連れて行っても入れることは出来ない。イナ同様ここに居たほうが安全なのだ。
特にクロエは過保護にしたい。アイギアの言っていた言葉が頭に残っているためだ。
”あの子は危険だ”
それにリビアにも連れて行くなと言われている。
「リビアが連れて行くなと言っていた。それにここの方が安全だ」
「安全かどうかなんて私には関係ありません。常にマスターのお傍に居たいのです」
頑なだな。しかし連れて行くには不安が大きすぎる。
「頼むよクロエ、俺の言うことを」
「聞きたくありません!」
クロエが声を張り上げた。スキルとしてクロエが傍にいてから一度だって叫んだことなんてなかった。
俺は同様しながらもクロエの名前を呼んだ。
「く、クロエ?」
「いや、です……」
「クロエ……泣くほど嫌なのか?」
クロエは口をつぐみ、ぽたぽたと涙を零す。悲しくもその涙は陽の光に当てられて美しい。両手をぎゅっ握りしめ、外側に向けている。
上目遣いでクロエは俺に訴えた。
「もう、離れ離れになんてなりたくないんです。マスター。
また私を置いてどこか遠くへ行ってしまうんですか? ずっと待ってたのに」
言っていることが理解出来ない。俺がクロエを置いていったことがあるのはグラディアスの隔絶魔法で閉ざされた世界に行った時くらいだ。
あの時だって泣くほどの動揺をクロエは見せていなかった。
なにか別のことを話しているようにしか感じない。
それでも、俺は連れて行かないと言わなきゃならない。本当は、連れていきたい。こんなにも一緒に行きたいと言っているのだから。
「今まで、ずっと傍に居てくれてありがとうクロエ」
俺はそう言って席を立ち、椅子に座っているクロエを抱きしめた。
「クロエが居たから、国を実質追放されても安心できた。ずっと支えてくれてありがとう。
俺だって――離れたくないよ」
「マスター……」
クロエは俺の背中に手を回し、やさしく俺を抱き寄せる。
「俺はクロエが大事だ。だからこの選択を取った。みんながクロエを守ってくれる。シェフィ達にもクロエを守るようにに伝えてある。
だからここで俺の帰りを待っていてくれ。必ず帰るから」
「今度は、突然居なくなったりしませんか?」
「……しないよ。そっか、クロエ。クロエはクロエ自身だったのか。
飼えなくてごめん、助けられなくてごめん、いきなり死んでごめん」
「ほんと、ですよ。待ってたんです。ずっと、待つことしか知らないから、マスターが居ないないなんて考えられなかったから!」
俺はさらに強く、強く抱きしめた。
「追いかけてきちゃったのかよ。バカだなぁ……」
「仕方ないじゃないですか、ただの猫だったんですから」
俺はクロエの頭を撫でた。
「行ってきます」
「今度こそ、帰ってきてください。おかえりなさいと言わせてください。
信じますから――行ってらっしゃい(にゃー)」
そう、気づいたのね……
ずっと話せないまま時が過ぎてしまった。
全ては冥王になってから始まったこと。
私は長い時間ダグラスの思う通りに働いてきた。そうせざるを得なかった。
冥王リドリス。彼はグロウの元へとついた。他の悪魔達、原初も同様。そして敗北した。
リドリスはその時、ダグラスの目を欺く行為をする。
そのことによってリドリスは冥王としての地位を降ろされる。
空席となった冥王の椅子に座ったのはダグラス王国で魔術師をしていた私だった。
反逆を恐れたのか、忠実な冥王が欲しかったのか私は幾度となく殺された。何度も、何度も、考えうる限りの死に方を何度も、何年も受け続けた。
「助けてください、もう、死にたくない。言う通りに、しますから」
私はいつまで私で居られるのか分からなかった。永遠に再生する自分自身の体に嫌気が差した。私の体に血を流しこんだダグラスを恨んだ。
「だめだ。まだだ」
「いや、イヤイヤイヤイヤ! もう死にたくない、痛いのはイヤダ! 殺して、殺して殺して殺して! なんで、私なの?! 他の人でもいいじゃない! もうイヤ!!」
「神に選ばれたのだ。喜べ」
「そんな、これを」
喜べですって? どんなに時間が経っても痛みになれることはなく、死に続けた私に逆らうなんて気持ちはなく、早く終わって欲しい。
ただ、それだけしか考えられなくなった。このままいつまで死ぬのだろう。もうどうでもいい。終わってほしい。
「もうよいな」
解放された私は泣くわけでもなく、喜ぶわけでもなく、ただ息をしていた。自分が何者であったかでさえどうでも良かった。
仕事を押し付けられ、ダグラスの望むように冥王としての仕事をこなした。
勇者の選別、魔王の特定、選別。
グロウは神に反逆する種、魔王という力を残した。それを面白がったダグラスは現れる魔王を私に選ばせた。魔王の力の行き先を決めさせたのだ。
そして勇者候補という特別な力を持った存在を神々が選び、誰が選んだ勇者候補が魔王を倒すのかという遊戯まで始めた。
どうでもいい。なんでこんなことしなきゃならないんだろう。
退屈、死なない。終わらせることの出来ない私。
そんな時、可能性を持ったものが現れた。
魔王グラディアス。彼は異常だった。魔王以前に彼自身の能力がそれを超えていた。
そんなグラディアスですら神には届かなかった。
私自身、もう終わらせたかった。存在している意味などない。
そう思った私は神の目を盗み、彼、グラディアスに接触した。
そして次で終わらせるという約束をし、彼は眠りについた。
しかし誰にその役目を押し付けるかなど考えてはいなかった。誰でもいいわけではない。
潜在能力も、その性格も考える必要がある。
求めた通りに動くように。
答えの出ないまま、私は暇つぶしを兼ねて日本という異世界の国を散歩していた。
しかし私には体がない。この世界で自由に動くにはどうしても依代が必要だった。
基本動物を依り代にしてこの世界を楽しんでいた。移り変わりの速いこの世界を。
その猫は屋根の上で日向ぼっこをしていた。次の依代はこの子にしよう。
私はその黒い野良猫に交渉した。返事は了承。
その子の体を借りながら私は自由に散策をしたり、街を眺めたりしていた。
屋根から公園を眺めていたそんな時、一人の女の子がダンボールを置いていった。
遠くから見る限り子猫が三匹。おそらく捨て猫。それは仕方のないこと。人間なんて自分の命にも責任を持つことが出来ないのに、他人ですらない動物の命などそれなりの覚悟で捨てられてしまうものだ。
助ける理由などない。必要もない。助けることも出来ない。この世界において私はただの猫なのだから。
そう、たとえ三人の悪ガキに子猫達がいじめられていようと。
……むしゃくしゃする。でもこの体は私の体じゃない。
そんな時、一人の男の子がその三人をなぎ倒した。
その男の子も無傷ではない。体を怪我したまま、子猫三匹をやさしく撫でていた。
なぜか暖かい気持ちになった。そんな感情などもう持ち合わせてなどいないと思っていたのに。
不意に私はその子に近づいた。
「にゃー」
「どうした? なんだお前もお腹空いてるのか? 今日はこれで我慢してくれ」
彼はソーセージを一本私にくれた。子猫達には家から持ってきたであろう牛乳をあげていた。
それから彼はいろんな人に声をかけ、飼い主を探していた。そして子猫と私の面倒も見ていた。そんな時、そっと後を付いて行ったことがある。
彼の家から話し声が小さく聞こえてくる。
「お願い母さん! お小遣いも何もいらないから飼わせてくれ!」
「黙りなさい。あなたに決定権などないわ。仕事で忙しいから話しかけないで頂戴」
「母さん!」
「いい加減にしないと殺すわよ」
「っ……ごめんなさい」
なんとも胸糞の悪い話し声だ。むしゃくしゃする。苛立ちを覚えながら私は公園へと戻っていた。するとあの時いた悪ガキ三人がまた猫をいじめていた。
関係ない。助ける必要は……ない。この子のことを一番に考えるべきだ。
たとえこの子が助けたいと思っていても。
「シャーッ!」
「うわっなんだこいつ! いいやこいつもやっちまおうぜ! っ! すばしっこいな!」
私はそのうちの一人に掴まれた。その手の皮膚を噛みちぎる。
「いってぇ!! このっ糞猫が! ほんとはもっと憂さ晴らししたかったんだけどな」
私は一人、公園の地べたに座っていた。
所詮は猫。たとえ子供でも人間に叶うはずもない。傷口から血が流れていく。
こんな日に雪が降るなんて、残酷よ。雪に耐えられる体力なんてあるはずないじゃない。
一匹、また一匹と子猫達は冷たくなっていく。
そしてもう一匹。私も……
ごめんなさい。あなたの体勝手に……
そんな時、彼は私の目の前に現れた。傘をいくつも持っている。やさしいのね。雪が降ったからここに来たのね。
悲しいわ。苦しいわ。この感情はどうしたらいいの。
「に、ゃぁ……」
所詮、猫ね。
傘を捨てて泣きじゃくる彼に何も言えないわ。
守れなくてごめんなさい。
彼は私を抱きかかえた。上着を脱いで私の傷口を包む。子猫達を茂みに隠し、走り出した。
「ごめん、ごめん。俺が子供だったからっ、何も出来なかったから、母さんの言葉を覆せなかったから、弱かったから、ごめん、ごめん」
そう言って彼は動物病院へと私を連れて行った。
「お金ならあります!」
そのお金は、彼が母親から渡された自身の食費のことだった。
そして私は一命を取りとめた。体は回復し、また野良猫の生活を続けることになった。
以前と違うのは毎朝彼に行ってらっしゃいのにゃーを言って、おかえりのにゃーと言う毎日が始まったこと。そしてクロエという名前をつけられたこと。
そんな幸せな日々が続いたある日のことだった。
私は彼が朝早くに家を出たことに気づいた。まだ間に合うかも知れないと、彼が乗る電車のホームに向かった。
間に合ったと思った瞬間、彼はホームへと落ちた。
悲壮感、絶望感、苦しみ、窮屈感、嗚咽、怒りいろんな感情が混じっていた。この世界で私は力を行使することは出来ないが、どうにかして殺してやろうと思った。
落としたやつも、それを企んだやつも。
そして私は体の制御権をこの子に奪われた。
戻っても仕方のない私はそこにこの子の中にいたままだった。
この子は座り続けた。線路の傍で。なんど電車が走ろうと、石が跳ねてこようと、雨が降ろうと、雪が降ろうと。
たとえ駅員に何度移動させられても、捕まりそうになってもそこを動かなかった。
体がやつれ、毛並みは悪くなり、汚れがひどくなっても、寒さに震えてもそこにいた。
何も食べずに、この子は彼を待ち続けた。
ただ、いってらっしゃいのにゃーを言うためだけに。また、おかえりなさいと鳴くためにただそこに居続けた。
この子が命を失う直前、この子は自分の意思で泣いた。
「にゃぁ、にゃー、にゃぁぁ……にゃ……にゃあ……」
いってらっしゃい、おかえりなさい、いってらっしゃい、おかえりなさい。
死んだこの子を私は拾い上げた。元々猫だったこの子を人間として。
その責任が私にあると思ったから。
この子の体を借りたのは私。そして彼に思いを寄せたのも私。
この子が彼に恋をしてしまったのも……
彼を魅入ってしまったのは――私(この子)。
人形としての体はリドリスに用意させた。まともなやつを。私の監修の元で。
人形と言えど人と変わらないもの。猫の魂を人間の魂に近づけたことで感情の揺らぎが弱くなってしまったけれど、彼と一緒に居ればきっと元に戻るわ。
そして彼もまた拾い上げた。彼の意思を汲み取って突き落とした相手、企んだ相手には何もしなかった。
彼はこの世界に転生する。最強の存在として。楽しみであり、悲しくもある。
本当に、彼を転生させてしまって良かったのかと。
だって……彼にはきっと辛い思いをさせてしまうわ。
私の願いも押し付けてしまったのだから。頼ってしまってごめんなさい。
だからどうか苦しんで。
――そしてそれ以上に生きてて良かったと笑えるほど幸せになってください。
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