第八章(13) 俺をおいていかないで
* * *
できる限りの治療を施した。十分とは言えないものの。
近くの研究室から、使えそうな魔法薬をいくらかとってきたベラーは、全てをパウに与えた。これでまた少し、治癒が進むはずだ。
廊下はひどく静かで、横たえられた元弟子に、目を覚ましそうな様子はいまだなかった。こんこんと、眠っているかのようだ。息はしっかりしている。少し苦しそうな様子も見えるが、先程よりはずっと顔色がいい。まだ油断はできないが。
ベラーの視界の端に、紫色がちらついた。床に、パウのマントが萎れた花ように落ちていた。それを拾い上げ、少し叩いて汚れを払う。
改めてパウのマントを見れば、なんだか、懐かしさを覚える紫色だった。深く落ち着いた色。このマントは確か、自分のもとを巣立つ際に彼が身に着けたものだったか。
持ってパウの元へ戻れば、彼の身体に巻き付けてやった。パウの身体はいまだに冷たく思える。大量出血により、血だけではなく体温も失っている。これで少しは温かくなるだろうか。
「……全てが終わったね」
ベラーが呟いても、誰も返事をしない。かすかに耳を澄ませれば、まるで過去から響いてくるかのように、彼方から誰かの罵声や悲鳴が聞こえる――窓の外へ視線を移せば、そこにもう空はない。生い茂る木々が見える。フォンギオは言ったとおり、この船を着地させたのだ。
そして地上から、またベラー自身が開けた「穴」から『遠き日の霜』が侵入し、船に残っているプラシド一派に制裁を与えている。確かに神秘を秘めているものの、元は人間でありおぞましい怪物を前に狂った者達を、片づけている。間もなくこの船、そしてあの巨大で醜いものは、自分達の手元に戻ってくる。
「……」
ベラーは、考えていた。
これからどうするべきか。
パウをどうするべきか。
この手で殺したいと願ったが、こんな状態の彼を殺したところで、意味はない。
だから応急処置を施したが――この後、どうするべきか。
『遠き日の霜』に連れて行くべきか、迷っていたのだ。
――彼はここで捕まえるよりも、逃した方が、きっとおもしろいものを見せてくれるだろうから。
つと顔を上げる。窓に自分の顔が映った。頬には傷が走っている。パウの水晶がかすった傷だ。それをゆっくり、指で撫でる。
癒えても、痕になるだろうな、と思う。
それが嬉しく思えた。
決して、消えることがないのだ。
――黒水晶を砕いた、パウの魔法による怪我。
思い出したのは、彼に初めてであった時のこと。
――泣きじゃくっていた彼は、足に纏わりついてきた猫に、魔法を放った。
その時に、まるで泡が弾けたかのように広がった、濃く、圧倒的な魔力。
初めてだった。
魂に何か、突き刺さったような気がした。
それは一生、自分が辿りつけない場所に思えた。
だから。
彼はきっと、自分を超える、と。
自分にもっと面白いものを見せてくれる、と。
自分に何か、与えてくれる、と。
……子供ながらに強く秘めた正義感には、反吐が出てしまったが。
再びパウを見下ろせば、その頬を撫でた。パウはまだ、温かくはない。目を覚まさない。
いま逃したところで、誰が彼を拾ってくれる?
このまま時間が止まったのなら、それは幸せなのかもしれない。
『ベラーよ』
声が聞こえる。白い耳飾りから。
風の流れが肌を撫でる。彼方にある喧噪は、まるで時を刻む針のように、止むことがない。
「フォンギオ様、修理は終わりましたか? ……何か、ありましたか?」
自然とベラーは立ち上がる。廊下の彼方に視線を向ける。
――停止していた魔力翼船が、目覚めるように動き始めていた。低い駆動音が響き始める。
不自然だった。こんなにも早く動き出そうとしているなんて。
『別の魔力翼船の気配を察知した――それも、大きなものでな。このユニヴェルソと同じほどに』
伝えられたその言葉に、ベラーはかすかに眉を動かした。
次の瞬間には、そっと、パウを抱え上げていた。傷が開かないように気をつけながら、廊下をゆっくり進む。
「同じほど……つまり、ディアスティム号ですか?」
かつて、魔術文明都市デューには、双子の巨大魔力翼船があった。
更なる高みを目指して作られた船。最高技術をもって作られた、芸術品とも呼べるそれ。
その片割れが、このユニヴェルソ号。
もう片割れの名は、ディアスティム号。
――『遠き日の霜』がデューを襲撃した際、逃げ去る巨大魔力翼船の姿が、確認されていた。
仮に、迫ってきているのがディアスティムだとして、乗っているのは恐らく。
『奴らが来る前に、デューへ戻ろうと思う。船も虫も取り返せた。一度立て直す』
「――わかりました。すぐにそちらに向かいます」
連絡はそこでとぎれた。
ベラーは目の前にある扉を蹴り開けた。扉は簡単に開いた。
先にあったのは、地面。草がまだらに生え、湿っていた。風に花が揺れている。
ベラーが開けたのは、外に続く扉の一つだった。
――その地面の上にパウを横たえる。
と、気付いて、ベラーは笑う。パウを置き去りにして船内へ戻り、再び扉に戻ってくる――小脇に、青い蝶の入った瓶を抱えて。
「――また今度、会いにおいで」
船が浮上する。地上が離れていく。その中で、ベラーはパウを見下ろす。
パウの赤い瞳は、うっすらと開いていたのだ。
「デューで待ってるよ」
青い光とともに、船内に消える。
* * *
声が、聞こえる。
誰かが、自分の名前を呼んでいる。
けれどもあまりにも弱々しく。水に落としたインクのようにぼやけて、にじんで、消えていってしまうから。
それでも、自分の名前を呼んでいると、わかる。
青かったから。
――パウ。
やっと声が形になってくる。
――パウ。
手を伸ばそうとした。だが手が上がらなかった。そもそもいま、自分の手は存在しているのか、それすらもあやふやだった。
――起きて、パウ。
声に名を呼ばれて、徐々に己の輪郭が浮上する。意識が形になってくるような、そんな感覚。
青い光に照らされて、影ができる。影ができるから、己の存在も認知する。
――目を覚ましなさい。
何としてでも、起きなくてはいけなかった。しかしどうにもならない。
――パウ。
呼ばれるから、呼び返したかった。
ところが声も出ない。
青い光が遠のいていく。
「行かないで」
やっと声が出た。
右手の小指に鋭い痛みが絡みつき、反動のようにその手を伸ばす。右手に小指はなかった。
あの夜、贖いの誓いに、彼女にあげたではないか。
彼女のものになった。彼女のために何でもする。その証に、あげたではないか。
彼女が、全てだから。
彼女が、許してくれるから。
彼女が、救ってくれるから。
「待ってくれ、ミラーカ」
その声は、果たして彼女に届いたのだろうか。
「俺をおいていかないで」
青い光は消え失せていた。導いてくれる光は、彼方に消え去ってしまった。
思い出したように、息を吸って。
――ようやくそこで、パウは目を開けた。
青空が広がっていた。風に木々が揺れ、ざわめいている。
「……ミラーカ」
かすれた声が出た。
青い蝶の姿はどこにもなく、だからあたりを見回そうと起き上がろうにも、身体は動かない。そして浮上した意識は、深淵から伸びる手に引っ張られるように、また沈み込もうとしている。
自分を引き上げてくれる青い光とその手は、どこに行ってしまったのだろうか。
思い出せない。
――青空に、小さな影が円を描いて飛んでいた。
ぴい、と声が響く。どこかで聞いたことのある声で、けれども何だったのか、パウにはすぐに思い出せなかった。
小さな影が近づいてくる。鷹だ。黄色の瞳の、鷹。
……徐々にあたりが暗くなる。陰る。
青空は、巨大な鯨のようなものに隠されてしまった。そして。
「――パウ!」
――違う。
――俺が探してたのは、その声じゃない。
――俺を呼んでいたのは、その声じゃない。
だが聞き覚えのある男の声で。
「――パウ! ああパウ……大丈夫か……」
金髪の青年が、こちらを見下ろしていた。
頭の中、重なっていた青いベールがいくつもはがれ落ちていく。
「……アーゼ」
ようやくパウは、それをアーゼと認めた。アーゼは半分泣きそうな顔をしていた。
「ひどい状態だ……見つけられて本当によかった……でもどうして、こんなところに」
それからメオリ。肩にシトラをとまらせた彼女も、心配そうにこちらを見下ろしていた。
「デューの魔術師達! 彼を船の医務室に運びたい、可能か?」
と、これまた懐かしい声が聞こえる。勇ましい女の声――少し頭を動かせば、大剣を背負った女騎士の姿もあった。ネトナ。隣には、エヴゼイ。
そして二人の後ろには、魔術師らしき者達の姿も。
「――彼を治療するというのには賛成です。ここで死なれては困りますから」
その魔術師達が割れて、一人の女が姿を現す。
かつて、どこかで見たことがあった気がした。ウェーブがかった薄茶色の髪。その隙間から見える片耳には、黄色の耳飾り。『千華の光』の証。
「ただ医務室ではなく、鍵付きの部屋へ」
彼女はパウの傍らに座り込めば、そっと手を伸ばす。
癒しの魔法の光が、パウの胸の上で広がった。
まるで柔らかな綿に包まれたかのように、身体が軽くなる。同時に意識も羽毛のように軽くなって、そのまま、ふわふわと沈んでいく。
「魔法による鍵もかけてください。彼を逃がすわけにはいきません」
宝石のようというよりも、蜜を固めて作ったかのような薄紫の瞳だったが、その時鋭くパウを睨みつけていた。
「『千華の光』パウ。あなたは、自分が何したのかはさておき――何を怠ったのか、もちろんわかっていますね?」
――魔法による治療というのは、応急処置にすぎない。
ところが、いま、身体中の傷が完全に再生していくのを、パウは感じていた。普通ならあり得ない。普通なら。
「……天の、銀星……の」
「ええ、そうです、『天の銀星』カーテレインです」
――かつてデューは『天の金陽』と呼ばれる魔術師が長を務めていた。
その下に位置するは『天の銀星』と呼ばれる二人の魔術師。
魔術師の長である『天の金陽』は、もういない。『天の銀星』の片方が殺した。そしてデューを裏切った。
それが『遠き日の霜』を率いるフォンギオだった。
――では、もう一人の『天の銀星』はどうしてしまったのかと、気になってはいたのだ。
まさかここで、出会えるとは。
「あなたには、たくさん話をしてもらわなくてはいけません」
けれども、その言葉の鋭さに、いま会うべきではなかったと、パウは思う。
「……さて、青い蝶、というのは?」
カーテレインがあたりを見回す。パウは返事をできなかった。そのまま、意識を沈ませた。
――パウ……。
深い深い闇の向こうから、声が聞こえる気がした。
【第八章 閃光と羊達 終】




