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贖いのオリキュレール  作者: ひゐ
第七章 霖雨の花畑
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第七章(05) 間違いなく、俺の親父の剣だった



 * * *



 夜の森の中は、静かであると同時に、賑やかにも思えた。梟の鳴き声が聞こえる。何かの獣が、仲間を探す声も聞こえる。どこまでも穏やかで、怪物が潜んでいるとは思えない。


 夜空も美しく晴れていて、星と月が地上を照らしていた。天からの光を受けて、少し離れた場所にある青い花畑はぼんやりと輝いている。まるで夢の中で見るような光景を、パウは一人、森の縁から眺めていた。

 けれどもやはり、ミラーカの夢とは違う。


「……お前が見せる夢は、もしかして、この花畑だったのか?」


 座り込むパウが尋ねれば、背後に少女が素足で立つ。

 世界の青色が波打った。染まる。歪む。


「そうよ、一度行って見たかった場所……だったと思う」


 ミラーカが、青く輝く髪を風になびかせていた。同じ色の瞳を細めて、花畑を睨む。


「いまは青なんて蝶の色だから好きじゃないけど……どうしても、昔に見た絵が出てくるのよね」


 そう言われると、パウは胸の奥で何かが渦巻いたような気がして、妙な気分になった。どうしてか、否定されたような気持ちになるのだ。

 すると。


「――忘れちゃうのよね、私達が人間だったこと……理解はしても、心の方では……忘れるんでしょう?」


 まるで突き落とされたかのような衝撃を覚える。実際には、何も起きていないものの、パウがはたと振り返れば、蝶の少女はつまらなさそうな顔をしていて、しかし口が三日月のような弧を描く。瞳は嘲り笑うかのように歪む。いつものミラーカの顔だった。


「……忘れたわけじゃない」


 パウはそう答えるものの、ミラーカは何も返さず、笑ったままだった。静かに歩き出せば、ワンピースの裾がふわりと揺れる。彼女はそのまま草原に出て行く。


「ミラーカ」


 パウは立ち上がった。

 月の光に照らされる彼女は、美しかった。神々しかった。


「オリヴィアのこと……頼んだぞ。彼女を、救ってくれ」


 彼女は終わりを求めていた。彼女は死を望んでいた。

 それならば、彼女を助けられるのは同じグレゴであるミラーカだけだ。


「――その言い方、好きじゃないわ」


 草原でくるくると踊るようにしていた彼女が止まる。


「でも……オリヴィアがああ言ったんだから、私は彼女を助けるつもりで……食べるわ」


 ひどい安心感が、胸中を満たす。どこか多幸感もあって、パウは微笑む。

 オリヴィアは助けられる。ミラーカが救ってくれる。


「――あなたって、本当に」


 そう温かい中にいたために、パウは気付けなかった。ミラーカが小さな声でそう漏らしたことに。そして表情は月の光に影となって見えなかったものだから、瞳の青い輝きだけが見えていたのだった。


「……ありがとう、ミラーカ」


 距離はあった。ミラーカはもう何も言わなかった。ただ青い瞳だけが、パウに向けられている。深く、未知すらも湛えた青色。呼吸をするように瞬きをして、それでも彼女の瞳はパウを捉えて放さない。


「オリヴィアに、言わないと」


 パウは杖でとんと軽く地面をつけば、わずかに頭を垂れて俯いた。


「俺には、全部を話さなくちゃいけない責任がある」

「……そうね」


 青い夢が音もなく崩れる。まるでかかっていたベールが溶けて消えるかのように、世界の青色が消えた。

 先に広がるのは元の景色で、青い蝶がふわふわと戻ってくる。


 ミラーカを連れて、パウはオリヴィアのいる洞窟へと歩き出す。オリヴィアのいる洞窟の前で野宿してもよかったが、焚き火の光で誰かが来てしまう可能性や、オリヴィア自身が一人で過ごしたいと願ったために、一行はあの洞窟から少し離れた場所で一晩を過ごすことに決めたのだった。

 道中、焚き火の傍を通り過ぎる。丸くなって眠っているメオリの姿が見えた。すぐ近くの木にはシトラの姿がある。鷹の目は暗闇できりりと光っていた。


 静かにパウが進み続けたところで、はたと、足を止める。

 先に、人影があった。まるで茫然と立ち尽くしているような気味の悪い影に、しかし正体に気付いてパウは声をかける。


「アーゼ、起きてたのか」


 呼びかければ彼はゆっくりと振り返った――かすかに射し込む月明かりに、アーゼの持っていた剣がゆらりと波打つように輝いた。猫のような鋭さのある緑の瞳を見れば、まるで深みを覗いているかのような感覚があり、けれどもその奥に激しい光を宿しているようにも見える。


「アーゼ……?」


 異様な様子に、パウは思わず一歩退いてしまった。アーゼの様子が少しおかしくなり始めたのは、オリヴィアと出会ってからだった。それ以降、彼の口数が減っていることに何となく気付いていたが、ここまで様子がおかしいのは、ここまで殺気を帯びているのは、まるで別人になってしまったかのようだった。

 今にでも、誰かを殺しに向かうかのような空気を纏っている。


「……オリヴィアのところに行くのか」


 パウが気圧されて黙ってしまっていると、アーゼが淡々と口を開く。


「俺も話をしようと思ったけどな、やめようかと思って、考えてたところなんだ」


 抑揚のない声は、あたかも人形が喋っているかのように感じられる。アーゼの剣に汚れは一つもない。ただ抜き身の剣は、冷たく輝いている。


「ちょうどよかった。先に行ってくれよ、それなら、俺は行くのをやめられる」


 息遣いは静かだったが、まさに獲物を狙って潜む獣のものだった。


 パウは何と声をかけていいのか、わからなかった。アーゼは先に行けと言っている、それならば、従うしかなかった。アーゼが何をするか、わからないから。

 隣を、通り過ぎる。


「――あいつの背中に刺さってる剣は」


 囁くような声だった。表情はまるで凍りついているかのように無表情で、感情も血色も感じさせない。


「間違いなく、俺の親父の剣だった」


 緑の瞳も、少しも動かない。


「親父の剣……俺が、俺が母さんを殺したグレゴに、突き刺した剣だ……」


 燃え盛る家の中、アーゼが小柄な蠅型グレゴに跨り、その背に剣を突きたてたのをよく憶えている。

 しかしそのグレゴはどこかへ逃げてしまった――刺さった剣を、そのままに。


「あいつなんだ」


 震える彼の声に、パウは足を止めざるを得なかった。

 ――オリヴィアの背中に何かがあるのは、パウも見た。予感がしないわけではなかったのだ。


「あいつなんだよ、村をめちゃくちゃにしたのも……母さんを食い殺したのも……!」


 暗闇に向けられた瞳は、闇を映してはいない。燃え盛る炎と、血色の記憶を映していた。

 まるで引いた波が、再び押し寄せてくるかのようだった。心臓がアーゼから滲み出る殺気に蝕まれていくような気がして、パウは息を呑む。


 けれどもあのグレゴは、彼女は、いま。

 ――幽鬼のようにアーゼの剣が揺れた。


「待て! アーゼ――」


 反射的に、パウは振り返った彼の前に立ち塞がったか、顔の前を冷たい斬撃が縦に走った。下から上へ。使い物にならなくなった右目を隠す前髪が、ふわりと舞う。

 肌も髪の一本も、斬れてはいなかった。だが剣の輝きは確かに宙を斬り裂き、アーゼの瞳はぎらぎらと輝いていた。抑えこんでいた呼吸をついに荒らげて、剣は構えたまま、震えることはない。


「あいつなんだ!」


 声は裏返りかけ、震えていた。


「落ち着け、アーゼ……とりあえず、剣をしまってくれ」


 パウにはそれ以外の言葉が見つけられなかった。日中のオリヴィアの姿を思い出していた。姿こそ巨大で不気味なカマキリの怪物だったものの、その言葉と仕草は、紛れもなく人間だった彼女。


 それでも彼女は、あのグレゴはアーゼの仇で。

 だがあのグレゴは、彼女は記憶を取り戻し「オリヴィア」という一人の人間の心も取り戻していて。


 やめろ、なんて、アーゼに言える権利がない。それでも、オリヴィアを救いたい。


「――わかってる」


 と、アーゼの肩から力が抜けた。しかし一瞬だけだった。


「わかってる……わかってるさ。わかってるさ!」


 怒声が森に響き渡る。怒鳴るアーゼは、どこか泣いているようにも見えた。そして続いた声はひどく弱々しく迷っていた。


「あいつはあのグレゴだけど……いまは、いまは、オリヴィアだって……」


 アーゼは。


「確かにあいつが仇だ。でも……あの時、オリヴィアはどうしようもなかった! 悪意があって村をめちゃくちゃにしたわけじゃない! 母さんを食い殺したわけじゃない……! あいつとオリヴィアは、違う……」


 彼は、ひたすらに耐えていた。


「けれども……それで、も……!」


 歯が砕けそうなほどに、彼は食いしばって、それ以上言葉を出させない。自身の中にある激情を、抑えこもうとしている。


 剣を握る手に力が入るのをパウは見て、自然と杖を構えた。アーゼの剣が、再び勢いに任せて宙を滑る。ところが今度切っ先が向いたのはパウではなく、近くの木だった。太い幹に一線、切り傷が走る。


「……悪い、ほんと。何してるんだろうな、俺」


 ようやくアーゼは剣を鞘にしまった。手で顔を拭えば、汗か涙か判別がつかないものの、顔を濡らした雫が散った。

 アーゼはパウへ顔を向けなかった。


「少し、歩いてくる。オリヴィアのところには……行かない。剣は焚き火の近くに置いていく……」


 ふらふらと、それでも逃げるかのように暗闇へ歩き出す。


「アーゼ」


 ようやくパウはかける言葉を見つけ出した。


「……発端は俺だ」

「……いや、ここにいる人間は、誰も悪くない。オリヴィアも、お前もだ。強いて言うのなら……悪いのは『遠き日の霜』だ、そうだろ?」


 またしてもパウは言葉を見失う。確かに『遠き日の霜』こそが、自分の研究を悪用した結果、いまに繋がった。

 だがあの時、自分が疑問を抱いていれば――。


 アーゼの姿は闇に消えてしまっていた。気付けばパウは一人闇の中に立っていて、ふと見れば、ミラーカがふわふわと宙を舞っている。


 自分が悪いのだと思うのならば、なおさら、オリヴィアと話をしなくてはいけない。パウは再び歩き出した。

 その過去を罪として受け止め、アーゼの葛藤も背負って。


 少し歩いて洞窟に着いたものの、中からは何の気配も感じられなかった。オリヴィアは眠っているのだろうか。そう思ってパウがそっと魔法で闇を照らすものの、何の姿もなかった。奥にいる様子もない。


「こっち」


 首を傾げていると、ミラーカが森の奥へと進みだす。

 青い蝶は決して短くはない距離を進んだ。最初こそ平坦だったが、やがて荒れ果て、悪路となる。すでに足を悪くして杖をついているパウにとって、簡単な道ではなかった。その上暗闇で足下が悪く、時折滑って転びそうになった。


 そうして進んでいく中で、ふと、鉄に似た臭いを感じて、足を止める。

 血の臭い。ところがミラーカは進み続ける。先にいたのは巨大な黒い影だった。蠢きにあわせて、ぐちゃぐちゃと音がする。


「……オリヴィア?」


 そっと声をかけても、巨大な闇は震えるように動いたままで、パウが数歩近付いたところでようやく顔を上げ、振り返る。


 ――巨大な口からは、血肉が滴っていた。

 カマキリに似た怪物の足元に転がっているのは、狐だった。大きなものが一体。それから、小さなものの手足や尾、上半身、下半身、頭、ばらばらになったもの。


 オリヴィアは狐の親子を喰らっていた。と、パウを捉えた複眼が、ぎらりと輝く。血塗れの鎌が持ち上がる。


「オリヴィア……?」


 パウはオリヴィアを見上げるものの、巨大な怪物は不気味な鳴き声を漏らしているだけだった。


「オリヴィア」


 まるで名前を忘れてしまったかのように、彼女は鎌をゆっくりパウへと伸ばしていく。

アーゼのことをより書きたいと思ったので更新が一日遅れました。お待たせしました。

昨日公開しようと思っていたものより、よく書けたと思います。

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