第四章(02) あの怪物は、より化物になった
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『緑の花弁』地方の隅にある街、ゼフタルク。噂によると、その周辺にもグレゴが出現したらしい。
けれどもそうパウに教えてくれた農夫は、笑って続けたのだった。
「でもゼフタルクだ……あんたも知ってるだろう、コーネ谷の怪物退治の伝説は。あそこは『聖域守』達の街だ、たとえ巨大蠅の話が本当だったとしても、大丈夫だろう」
『聖域守』――それはゼフタルクの戦士達のこと。かつて怪物を倒した戦士達の血を引く者達。
農夫の言う通り、彼らは腕の立つ戦士だ。雇われ遠方に出向くこともある。『千華の光』であるパウも、デューからの任務を何度か彼らとこなしたことがあるから、彼らの腕は知っていた。
しかしその巨大蝿というのは、ただの巨大蠅ではないのだ――どんなに傷つけても死なない、不死身の蠅。そして全てを喰らう。
……もしかすると『遠き日の霜』もいる可能性もある。彼らはグレゴを回収しているようなのだから。
もしいたならば、向かうのは危険かもしれない。けれども向かうしかない――彼らがいるなら、なおさら向かわなくてはいけない。彼らの手に渡る前に……ミラーカに食べさせなくてはいけないから。
歩みはゼフタルクへと向かった。杖をつきながらの歩行には、もうすっかり慣れていた。といっても、速く歩けるわけではないが。
「パウ」
無言で歩き続けていると、ミラーカがふわふわと青い羽を羽ばたかせながら笑う。
「楽しみね」
皮肉なのだろうか。パウは相変わらず、何も言わずに歩き続けた。まるで何かから逃げるように。
それでもミラーカはついて来る。時折、笑い声を漏らしながら。
そしてパウがゼフタルクに着いたのは、農夫からグレゴの話を聞いて、二日後のことだった。
――昼もとうに過ぎて、けれどもまだ夕方とは言えない時間。休みなく荒野を歩き続けていると、先にまるで巨大な壁のようにそそり立つ崖と、その根元にある砦のような街が見えてきた。
あれがゼフタルク。ようやく立ち止まって、パウは溜息を吐いた。遠くから見ても、街に何か異変が起きているようには思えない――周辺に巨大蠅が現れたと聞いたが、街は襲われていないらしい。
ゼフタルクはコーネ谷の入り口に位置していて、防壁に囲まれた街だった。パウは門へ向かって進んでいった。門番であろう男が見えてくる。
歳が近そうな男だった。薄茶の髪は短いものの、襟足だけを伸ばして三つ編みを作っていた。目は丸くそのせいか少し童顔に思え、どことなく悪戯好きそうな雰囲気があった。片手に槍を握っていて、つまらなさそうに伸びをしている。けれども彼はパウを認めるや否や、歓迎の笑みとはほど遠い険しい表情を浮かべたのだった。
「おっと旅の人? それとも我ら『聖域守』と共に……」
そこまで言って、彼は頭を横に振った。
「……とにかく、いま、この街に簡単に外の人をいれるわけにはいかないんだ。ここは……危険なんだ。コーネ谷に巨大蠅が出てさ……いまは俺達や街のみんなで谷の外に出ないようにしているが……」
と、そこまで口にしたところで、パウが口を開く前に、彼は目を丸くした。
「――あんた『千華の光』?」
パウが名乗る前に、彼は耳飾りに気付いたようだった。そして次の瞬間。
「――やっとデューから来てくれたんだな!」
「えっ?」
ばっと、パウは彼に、腕を掴まれた。先程の険しい表情とはうってかわって顔を輝かせた彼は、パウの手をぐいと引いて防壁の内側、街へと引っ張っていく。
「お、おい、ちょっと……」
そうパウが戸惑っても、彼は手を放してくれない。
「みんな! やっとデューから魔術師が来たんだ! やっと来たんだ!」
――デューから魔術師が?
目を白黒させながらも、パウは引っ張られるまま、どこかへと連れて行かれる――街の様子を見れば、何かグレゴによって苦しめられている様子は見られなかった。男も女も、子供も老人もいて、騒ぎを聞きつけて物陰や家から出てきている。しかし彼らは、パウの耳飾りを見れば、ぱっと顔を輝かせたのだった。「やっと来てくれた」と――。
「ちょっと待ってくれ! デューからの魔術師って……?」
やがて一つの大きな建物まで案内されて、男がやっと手を放してくれたものだから、ようやくパウは尋ねられた。
その建物の扉の上には、どこかで見たような紋章が飾られていた――いつかどこかで見た『聖域守』の紋章だった。
「待ってたんだぞ! 要請、ずっと前に出したのに、なかなか連絡はないし、誰かが来る様子もないから……」
――その口振りから、どうやら彼らは、デューに魔術師の要請を出しているようだった。
けれども。
「……待ってくれ、俺はデューからの指令でここに来たわけじゃない」
きっぱりと、パウは言った。すると意気揚々と扉を開けようとしていた彼が「へ?」と笑顔のまま固まった。
「……えっ? でもあんた『千華の光』、だよな……?」
彼はパウの耳飾りを指さす。尋ねられてパウは頷くものの、
「でもデューの命令でここに来たわけじゃないんだが……」
「……じゃあ、巨大蝿から街を助けに来たわけじゃ、ない?」
すう、と彼の表情から笑顔が消えていく。
――しかし街を助けに来た……グレゴを退治しに来たのは、確かなのだ。
「俺は旅の魔術師だ……この近くに巨大蠅が出たと聞いて、ここに来たんだ……」
――グレゴ、という名称は相変わらず伏せておく。
余計なことは、伏せておくべきだから。
「デューからの魔術師では……ない……?」
ここまでパウを連れてきた男は、きょとんと事実を繰り返す。だが。
「――でも、巨大蠅が出たって聞いたからここに来たってことは、俺達を手伝ってくれるつもりで来たってことだよなっ!」
再びパウの手を掴めば、まるで子供のように声を上げるのだった。その勢いに、パウは「ああ、まあ……」と言葉を詰まらせてしまうものの、
「ついて来てくれ! リーダーが待ってるから!」
男は扉を開けて、急いで中へと入っていく。仕方なくパウも続いて中に入った。ミラーカも扉が閉まる前に、するりと中に入る。
どうも彼は、ひどく魔術師を待ちわびていたようだった。
「デューからじゃなくても……『千華の光』が来てくれたんだ! これで戦況が変われば……!」
パウの先を行く彼は、歩きながらも振り返る。
「もう……状態は最悪なんだ……手紙に書いた通り……って、デューからの魔術師じゃないなら、何にも知らないか……」
そして彼は、まるで世間話でもするかのように続けたのだった。
「一匹は一度は捕まえたんだけどさ……もう一匹に手を焼いていて」
「――一匹を捕まえたぁ?」
耳を疑い、思わずパウは声をわずかに裏返させてしまった。
――グレゴを捕まえた?
あのグレゴを?
確かにこの街の戦士『聖域守』が強いとは知っているものの、あの巨大蝿を捕まえただなんて。
しかし話はそこで終わらなかった。
「……捕まえたけど、もう一匹の蠅が、捕まえた奴を食べちゃったんだよね」
二階へと向かう階段の途中。男はふと、足を止めた。
「で、あの怪物は、より化物になった……」
もう一匹の蠅が、捕まえた蠅を食べた――。
その意味がわからなくて、パウも足を止めた。
――グレゴがグレゴを、食べた?
ぱっと思い出したのは、共食いをする、まだ芋虫の姿のグレゴ達だった――研究所にいた頃、日常の風景だったそれ。まさか芋虫の正体が人間だったとは知らなかった頃の記憶。
……静かにミラーカが肩にとまったことに、パウは気付けなかった。ミラーカはしがみつくかのように肩にとまったままで、パウを案内する男が歩き出して、パウも再び歩き出したけれども、ミラーカはとまって離れないままだった。
「俺はエルヴァ。『聖域守』だ。お前は?」
ここまでパウを案内してくれた男は、そこでやっと名乗ってくれた。
「……パウ」
短くパウが答えれば、エルヴァは「じゃあよろしくな、パウ!」と子供のように微笑んでくれた。しかし次の瞬間には、険しい顔をして先を見つめるのだった。
「詳しくはリーダーから聞いてくれ……もうこの街は、限界が近いんだ」




