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贖いのオリキュレール  作者: ひゐ
第四章 暁闇を歩む影
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第四章(01) もう一体

 霧の漂う谷底で歪な悲鳴が響いた。怒りと苦しみが混じった声。白い霧の中、巨大な漆黒はより黒々として見えた。けれども網に捕らえられ、また何本もの剣や槍、矢が刺さったそれは、ただ地面に転がってもがくしかなかった。細い足をばたばたと動かし、ぼろぼろになった羽を震わせる。しかし絡みつくような網に捕らえられたまま、そこから抜け出せそうな様子は見られなかった。


「これで……やっと……!」


 漆黒のそれ――巨大蝿を取り囲んでいた男の一人が、頬についた黒い返り血と汗を手で拭う。瞳には希望が宿り始めていた。


「――やったぞ!」


 と、また別の男が声を上げる。その声に続いて、男達は勝利の声を上げ始める。霧の中に希望に満ちた声と安堵の声が響く。武器を手にしたままの者は武器を掲げて。武器を持たない者は手を叩いたり、両手を上げたりして。だが。


「しかしこれ、どうやって殺すんだ?」


 まだ槍を手にしていた男一人が、穂先で巨大蝿を突く――矢を何本も受け、それだけではなくいくつもの剣や槍が身体に刺さったままの巨大蠅。黒い血をどろどろと溢れ出させているそれは、まだ生きていた。


 どうやら簡単には死なないようなのだ――戦う中、男達は気付いていた。この巨大蠅は死なない。その上傷も再生する。負傷させ続けていると、弱ってくるのか再生速度が遅くなってくるものの、死ぬことはどうやらないらしいのだ。


「……俺達のご先祖が相手にしたのは、ちゃんと死んでくれる『怪物』だったしなぁ」


 一人が溜息を吐く。するとまた別の一人が。


「デューなら、何かわかるんじゃないのか? わかりそうな人間を、寄越してもらえないのか?」


 その時だった。

 ――上空から響いてきた奇妙な鳴き声に、空気が震える。

 はっとして男達は空を見上げた。しかし白い霧で見通すことはできない。

 と、その霧が渦巻き、黒い影が見えてきた。


「――離れろ!」


 誰かが声を上げた。すぐさま男達全員はその場から離れる。

 直後に白い霧を纏いながら、どん、と何かが巨大蝿の上に落ちてきた。


 ――それは地面でもがく巨大蠅と、全く同じ巨躯。全く同じ漆黒。耳障りな咆哮を上げて、牙のある口から涎を滴らせる。


「――もう一体……!」


 誰かが声を上げた、その通りだった。

 霧の中から現れたそれは――もう一体の、巨大な蠅だった。


 男達が驚愕していると、二体目の巨大な蠅の下で、弱った一体目がぎいぎいと鳴き暴れる。けれども二体目を振り払えない。二体目は細い足でもがく一体を押さえ、巨大な複眼でじいと見つめる。

 そして何を考えたのか、牙のある口を大きく開けた。


 ――一体目の巨大蠅から絞り出される、悲痛な悲鳴。そして飛び散る腐臭を帯びた血。


 突然現れた、二体目の巨大蠅は。

 ――弱った一体目を、喰らい始めたのだった。


 無傷で弱っていない巨大蠅は、網や武器を気にせず、一体目の巨大蠅を食んでいく。食われていく巨大蠅は、最初の内こそ悲鳴を上げて抵抗をしていたものの、徐々に動かなくなっていく。


「何を、して……?」


 我に返った男の一人が、やっと声を絞り出す。それで、他の男たちも我に返った。


「あいつもどうにかしないと! まだ戦えるか?」

「武器がない! 剣はあいつに刺したままだ……誰か、武器を!」

「矢は……まだある!」

「網の予備もある! まだ戦える者だけで、何とかできそうか……?」


 男達は口々に叫びあう。突然姿を現した二体目とその行動に、声は怯えていたものの、誰も下がることはなかった。自らの武器の状態を見て、また武器が余っている者は持っていない者に手渡す。

 ――この谷を守るために、男達は覚悟を決めていたのだ。

 しかし一人が声を上げた。


「――ちょっと待ってくれ! あいつ、様子がおかしい……」


 ……二体目の巨大蝿は、あっという間に弱ったもう一体を平らげてしまっていた。血に染まった地面に散らばるのは、肉片と網の残骸、そして食われず残った武器だけ。中央にいた巨大蝿は、ぴたりと動きを止めていた。

 その頭に、ぴしり、と、亀裂が入って。


 ――亀裂から、鋭く大きな突起が姿を現す。角だった。と、亀裂からは血もどろどろと溢れ出す。巨大な蠅と言っても、そこから溢れ出るには明らかに質量を無視した量。巨大蝿が天を仰げば、その巨体は自らの血に包まれていく。

 腐臭に似た臭いが、霧と混じって辺りに色濃く漂う。男達はただ目の前で起きている異変に動けなかった。

 やがて血が全て地面に滴って、それが姿を現した。


 それは、頭に角を持ち、がっしりとした六本の足を持つ、巨大な何か。

 蠅らしさはあまり残っていない。巨大で黒色であることは変わらないものの、薄い羽は長いものに変わっていて、体躯もやや細くなったように見える。口があったところを見ればそこには牙どころかそもそも口もなく、まるで頭は球体のようになっていた。ただ角だけがあった。


 もはや蠅ではなかった。別の『怪物』がそこにいた。


「なんだ……?」


 唖然としている男達が『怪物』を見上げる。男達は手にした武器を構えることすらも忘れて、それを見つめていた。


 男達に見つめられる中、『怪物』はおおよそ生き物の声とは思えない金属質な声を上げる。口がないにもかかわらず放たれたその声は、周囲にこもるように響く。と、角の先に、光の球が生まれて――破裂した。


 破裂した光の球の欠片は、あたかも意思があるかのように宙を滑り、男達数人の胸に突き刺さった。何人かは、とっさに武器で払った。けれども胸に光が突き刺さった者達は、そのまま地面に倒れてしまった。


「――油断するな! まだ戦いは終わっていない!」


 声が響いて、男達は臨戦態勢に入る。ある男は思い出したように武器を構える。またある男は倒れた者達へと駆け寄る。


「大丈夫か!」


 一人が光を受けて倒れてしまった一人の身体を起こす。その胸に光は刺さったままだった――しかし出血はない。光は埋もれるようにして刺さっている。

 けれども光を刺された男は、がくがくと身体を震わせていたものだから。


「いま……いま助けるからな……!」


 そう言って一人が光に手を伸ばした、その時だった。

 ――短剣が、音もなく、彼の脇腹に突き刺さった。


「……あ?」


 光に手を伸ばそうとしていた男は、赤く染まっていく脇腹を見つめる。ずるりと抜けた短剣を握っていたのは――胸に光が刺さっている男。まさに彼が助けようとしていた仲間だった。


「……どうし、て?」


 そう言葉を漏らしたのは、身体を激しく震わせながらも短剣を仲間に刺した男、本人だった。

 次の瞬間、彼は今度は仲間の胸に短剣を突き刺していた。

 ふらりと仲間は倒れる。目を開いたまま、もう閉じることはない。

 そして立ち上がったのは、光が刺さったままの男。


「あ……がっ……!」


 まるで苦しむかのように言葉にならない声を漏らしながら、彼はふらふらと歩き出す。と、胸の光が身体を蝕むかのように一瞬迸って、男はまるで喉を絞められたかのような声を上げて。


 ……『怪物』を見据えていたものの、異変に気付いた他の仲間達が振り返る。

 彼らの背後で、光が刺さったままの男は、変わらず立っていた。

 けれどもその目は白く輝いて――生気が感じられない。

 現に彼はその時、もう息をしていなかった。

 しかし彼は立っていて、走り出したかと思えば、仲間に短剣を突き刺していて。


 ――辺りには混乱の悲鳴が渦巻いた。光が刺さった男達が、仲間を襲い始めていた。

 もはや『怪物』と戦う余裕は、男達にはなかった。


 ……『怪物』はしばらくの間、男達の混乱を眺めていた。やがて再び角の先に光を宿らせ、破裂させる。

 光の欠片はまた男達の胸に刺さる。それは生きている者の胸にも。仲間に殺され倒れている者の胸にも。

 ――光が胸に刺されば「死体」は起き上がる。手に武器を握る。見えているのか見えていないのかわからないものの、その目で生者を捉えれば、ふらりと歩き出し、武器を振り被る。


 ……しばらくして、撤退を指示する声が響いた。けれどもその場から生きて退くことができたのは、数人だけだった。

 男達が去ったその場所に、死体は一つも転がってはいなかった。

 死体は全て、起き上がっていた。

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