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贖いのオリキュレール  作者: ひゐ
第一章 蝶を連れた魔術師
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第一章(01) こんな怪我さえなければ

 また一つの家が焼け落ちた。痛いほどに眩しい炎が舞い、煙は夜空をより黒々と染める。だが村の男達には、誰一人として、そちらを気にする余裕はなかった。


「ああ……この、怪物めぇ……っ!」


 炎で昼間以上に明るい広場。槍や剣、そして農具を構えた男達のうちの一人が、泣きながら声を漏らす。それでも震える手で得物を握り、身構える。

 ぎいぎい、と壊れた楽器のような音がする。


 ――眩しすぎる広場の中央。巨大な影が、不気味な声を上げていた。


 巨大な蠅のような生き物だった。その口は、人間の男一人を頭から貪っている。と、鋭い牙で噛み千切られ、男の腹から下が、ぼとん、と地面に落ちた。


「――うああああ!」


 蠅を取り囲む男達の一人が、怒声を上げた。泣きながら、剣を構えて蠅へ向かっていく。


「よくも、よくも、よくも―――!」


 止めろ、という仲間の声も耳に届かない。男は自身よりも何倍も大きな凶悪に向かっていく。ところが。

 ばっ、と、蠅は唐突に飛び立った。それはまさに跳ねるかのようで、宙で複眼が炎の色に輝く。そして急降下する。口を大きく開いて。


 立ち向かっていった男は、悲鳴も上げなかった。掬われるようにして、頭から、その口の中へ。手から剣が離れた。だがまだ外に出ていた足が、ばたばたと動いている。しかしすぐに蠅の口から涎のように血が溢れ出てきて、足の動きは緩慢になる――。


「そいつを放せぇっ!」


 と、また一人の男が、鍬を手に蠅に立ち向かう。


「放せ……っ! もうこれ以上……っ!」


 振り下ろされた鍬は炎の輝きに鋭く光り、蠅の巨体に突き刺さった。すると、咀嚼するのに夢中だった蠅が、びくりと身体を震わせた。


「――いまだ! 村を守るんだ!」


 決して勇ましくはない。わずかに上擦っているものの、確かな号令が響く。

 瞬間、男達はまるで蟻のように蠅へと群がった。手にした剣を、槍を、鍬を、その巨大な身体に突き刺す。たちまち蠅の身体は赤黒い血にまみれる。


 けれども、蠅は今し方噛みついた男を飲み込むと、近くにいた男に素早くに噛みついた。その巨体からは想像もできない機敏さで、肩を噛まれた男はあっという間に食べられてしまう。


「ひぃっ……!」


 それを見て、一人の男が悲鳴を上げる。手にした槍を、蠅の巨体に突き刺すが、刺さりは浅かった。

 どん、と巨大な蠅は群がる人々に体当たりをした。槍を突き刺した男も、体当たりをもろに受けて地面に転がった。

 慌てて彼は、身体を起こそうとしたが。


 ――様々な武器が突き刺さった、巨大な蠅。羽を震わせると、その巨躯から、ぽろぽろと武器が抜け落ちた。そして血塗れだった身体を見れば、全ての傷は塞がっていた。

 蠅は、無傷だった。あたかも、時が戻ったかのように。

 確かに武器は、蠅の巨体を傷つけ切り裂き、突き刺さったのだ。蠅の身体と武器についた血が、それを物語っている。

 しかし。


 ぎいぎいと、蠅は怒りの声を上げて、噛みついていた男にさらに牙を食い込ませた。腕がもげて、蠅はまるで吸うようにその腕を食らう。そして複眼を、周りの男達に向け、口を大きく開けて。

 悲鳴が上がる。血の匂いがより濃く漂う。また一人が、食われていく。それを見て走り出そうとした一人も、噛みつかれてしまう。


 一人、地面に転がったままの男が我に返って辺りを見れば、もう誰もいなかった。あるのは意味をなさなかった武器と、血だまりと、死体だけ。そして転がる死体を食し始めた、巨大な蠅だけが、そこにいた。炎が燃え盛る音がうるさい。


「あ……あ……!」


 立ち上がろうにも、腰が抜けて立ち上がれない。それでも男は、なんとか後ずさりをする。

 と、ぎぎぎと鳴いて、蠅が男を見る。その口からは血が滴り、わずかに開けば肉がこぼれた。

 瞬間、男は跳ねるようにして立ち上がれば、森の中へと消えていった。暗闇に染まった、森へと。



 * * *



 昼過ぎの空は、悲しみを知らないといわんばかりに、青く透き通っていた。飾る白い雲も、苦しみを知らないといわんばかりに、呑気に風に吹かれている。鮮やかな緑色の丘も、いつかは枯れてしまうということを知らない様子で輝いている。

 けれども、その丘を登る人影一つだけは、息を上げ、憎々しげに先を睨んでいた。


「くそ……くっそ……」


 ひいひいと息を漏らし、それでも彼は補助の杖を地面につく。


「こんな……こんな怪我さえなければ……昨日の夜には村に着いてたんだ……! なのに……!」


 顔の右半分が黒髪で隠れた青年。かけた眼鏡の向こうでは、左目だけがぎらついていた。

 また杖をついて、一歩、先に進む。その足取りは、どこか不自由さが感じられるもので、纏った紫色のマントが揺れる。


「……ったく! 最悪! くそったれ!」


 しかし苛立ちだけは勢いがある。

 また一歩、登る。左耳の黄の宝石の耳飾りが輝く。

 そしてやっと丘の頂上に辿り着いて、青年は立ち止まって空を仰いだ。空はやはりすっきりと晴れていて、むしろ彼を嘲笑うかのようだった。

 と、一匹の蝶が、青年を追い越す。


 その羽は、空よりも青く、海よりも深く。

 縁取る黒色は、影よりも黒く、夜の闇よりも底知れなくて。


「――パウ」


 蝶は言う。青年の目の前で羽ばたきながら。


「村が、見えてきたよ……」


 その囁き声の通り、丘を下った先には、小さな村が見えた。まだ距離はあるものの、家々の煙突から煙が上っているのが見える。広場を歩く人々の姿も見える。


 息を整えて、青年は少しの間、村を見下ろしていた。

 ――あの村は、まだ大丈夫だったらしい。

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