六
「京子ちゃん」
店を飛び出したとき、後ろから甘ったるい声が聞こえた。
それが誰の声なのかすぐに分かったから、一度立ち止まったけど、気付かない振りをしてまた歩き始めた。
「ちょっと待っていな」
その女が追いかけてくる。
さらに足を速めたが、しつこく後を着いて来る。
「無視せんといて」
あきらめる様子が無いので、急停車、急旋回して怒鳴りつけた。
「うるさい、うざい、うっとうしい!」
「まあまあ、そう怒らんと、落ち着いて」
「しゃべり方違うわよ、キャラ変えたの?」
郁美は少し考える振りをしてから、パンと手をたたいた。
「この方が面白いかな? なんて」
「なにが」
そう言い放って回れ右すると、一気に引き離そうと勢いをつけたが、手首を捕まえられて思い切り後ろにつんのめった。
「なにすんの!」
「ちょっと、つきあいなさい」
郁美の目はとても真剣だった。
だから、彼女のその誘いを断ることは出来なかった。
「分かった。どこに行くの」
「こっちよ」
郁美はさっき掴んだ片腕を握ったまま、駅の東に向かって歩き出した。
待ち伏せまでしてたんだから、大切な話なんだろう。彼女の性格からして、孝志にラブレーターと渡してくれというのはありえないから、しのぶの事に違いない。郁美としのぶは特別な関係だから、それが一番ありそうなことだった。
明日の試合に負けてくれ、なんていわれたらどうしようなどとも考えたが、彼女ほどの実力があれば八百長などするはずは無い。もちろん、そう言われたからといって、それを受ける気なんて無かったけど。
高台に位置する児童公園は、ジャングルジムとブランコだけの小さなものだった。
郁美は公園に着くとすぐに走り出し、スカートのままジャングルジムに駆け上った。
「ちょっと北山さん」
「大丈夫、中に履いてるから」
郁美はスカートのすそをめくって、中の短パンを見せびらかした。何だかかえって恥ずかしかった。
「京子ちゃんもおいでよ」
「え、わたしは」
「大丈夫。誰も見て無いって。それに、見られて減るもんじゃないでしょ」
そういう言い方は無いと思ったけど、そうまで言われて登らないのも癪だったから、郁美の後を追いかけてジャングルジムに足を掛けた。
ジャングルジムに登るなんて何年ぶりだろう。塗装がはげたところから、錆びくさい臭いがした。
頂上に上り、郁美と同じように腰をかけると、心地よい風が髪を揺らし、ほんのりと潮の香りが漂っているのに気づく。
「ほら」
太陽が水平線にかかって、オレンジ色の空とオレンジ色の海が輝いていた。
「きれい」
「でしょ。お気に入りスポットなんだ」
郁美の長い髪が、オレンジ色の夕日に輝きながらゆれていた。
その姿も掛け値なしにきれいだった。
郁美には負けたくない。
そうは思っているのだけど、彼女の事を知れば知るほど、郁美には勝てないような気がしてくる。
「京子ちゃんはどうしてプログラミングをはじめたの」
そういう質問は正直予想していなかった。
「え、うん。父親がそういう仕事をしていたから自然と……」
「ファザコンなんだ」
「違うよ!」
「いいな」
郁美は遠くを見ているようだった。
「何が?」
「お父さん」
「いないの?」
「いるよ。でも近くにはいないの」
郁美は人差し指を空へと持ち上げた。その指は、夕暮れに輝く月へとまっすぐに伸びていた。
「月?」
「うん」
郁美の実母である北山知佳が月の研究所にいるのは知っていたけど、父親まで行っているなんて知らなかった。
「二人して月に行ったの。娘を地球にを残したままね。ひどいと思わない? 子供より仕事が大事なんて」
郁美は笑っていた。
多分さびしいなんて感情は、当の昔に乗り越えてきたに違いない。
「強いんだね」
両親がいなくてもこうやって明るく振舞っている郁美は正直すごいと思った。自分ならきっとひねくれているに違いない。郁美に勝てない事がまた一つ見つかって、ちょっと悔しかった。
「強いって? 誰が?」
「北山さん」
「そう見える」
「うん」
「そっか」
郁美は両足をぶらぶらと振りながら、しばらく黙って月を見ていた。
「わたしね、四歳の時からほとんど両親に会っていないの。最後に母親に会ったのは五年前かな。だから家族ってうらやましいの」
それがどういう事か分からなかった。親なんて居るのが当たり前で、ありがたみなんて感じなかったし、小うるさいばかりで正直うっとうしい。
いつもそう考えてはいたけれど、居なければ寂しいというのは、何となく分からないでもなかった。
「はい、これ」
郁美はスティック状の外部記憶メモリーをポケットから取り出した。
「これをあげようと思って声をかけたの」
「なに、これ」
それは普通のメモリースティックだった。
「中身はなに?」
もちろん、郁美が渡したかったのは、このメモリースティックではなく、その中に入っているデーターだとおもった。
「それは見てのお楽しみ」
彼女はそう言ってその場を逃げたけど、その中身がなんであるか、大体の見当はついていた。
「何のつもり」
「気に入っているの、京子ちゃんのこと」
「気安く呼ばないでっていったはずよ」
「わたしに勝ちたいんでしょ」
受け取るべきではないと分かっていた。
でも、そのときは、それを返す事なんて出来なかった。
「それあげるよ。好きに使って」
何も言えなかった。言うべき言葉が見つからなかった。
月はさっきより明るく輝いている。
「さて、帰りましょうか」
郁美はジャングルジムの頂上から一気に下まで飛び降りると、下からスカートの中を覗き込んで笑った。
「あ、いい眺め」
「ちょっと」
スカートを抑えながら何とか下まで降りると、郁美が腕を絡めてきた。
「かわいい下着だね」
「なによ、もう!」
何時の間にか郁美のペースにふりまわされている自分に腹が立つ。
『郁美には勝てない』
しのぶが言ったのは、こういう事なのかもしれないと思った。
「しのぶとはどういう関係なの」
この際だからしのぶの事も聞いてみた。郁美なら、しのぶとの特別な関係について、なにか話してくれると思った。
「何か言っていた?」
「貴方には勝てないって」
その言葉を聞いて、郁美は更に笑った。
「どう言う関係だったの?」
「そうね……」
その直後、郁美の唇がほほに触れた。
「何するのよ!」
郁美に向って振り下ろした手のひらは、目標を失って大きく宙を切った。格闘技でもやっているのだろう。その身のこなしは、普通の高校生には見えなかった。
「いいじゃない、減るもんじゃないし」
「だめです」
力の限りにらみつけたけど、郁美は気にもせず、また笑った。
可愛い顔をして笑った。
その唇は妙に色っぽく、目の色はとても深みのある黒だった。
すっかり暗くなった公園を後にして、二人ならんで駅まで戻った。歩いている間は、何も言えなかったし、郁美も黙っていた。
「じゃあね、私は歩きだから」
駅に着くと、郁美は手を振りながら走り去った。
ほほに残る郁美の唇のぬくもりがやけに暖かく、それがひどく腹立たしかった