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この学校には未だかつて、誰も見た事のない少女が居ると言う。
そんな噂話が流れ始めたのは、俺こと佐野山信心が、高校二年に転入してからの出来事だった。
「それで、シンシンはどう思う?」
放課後、帰り支度をしている俺を引き留め、有栖川はそんなように話しかけてきた。
立ち話もなんなので、俺は一度座席に座り直す事にする。
「どうって言われてもなぁ……。それってただの噂なんだろ?」
「そう、ただの噂だよ。言うならばゴシップガール」
ゴシップガール――。
それはまるで、根拠のないニュースみたいなもの。
だから僕には分からない、そんな話を振られても。だけど――、
「不思議な話だよな。誰も見た事がないのに、"居る"だなんてさ」
誰も見た事がないのに存在を仄めかされる存在。
それは言ってしまえば怪談の類、要するに幽霊みたいなものだ。
「でも幽霊……、って訳ではないんだぜ?」
「何でそう言いきれるんだよ。もしかしてお前、見た事があるのか?」
「まさか、そんな訳ないだろ? でもそうだな、確かに俺は見た事があるのかも知れない」
「いや、どっちなんだよそれ」
「目に見えるものだけが、真実じゃないって事だよ」
「なんだそれ? 意味わかんねーわ」
俺がそう言うと、有栖川はふいに立ち上がり、教室の外へと向かって行く。
「まぁ、意味はそのうち分かるだろ。俺はさシンシン、いつかその意味を分かってやれる奴が、お前だったら良いのになって、なんとなくだけどそう思うんだよな」
まただ。有栖川はいつもこうだ。
いつもくだらない話を俺に吹っかけて来ては、勝手に満足してどこかへ行く。
「なんだよそれ……」
意味、わかんねーっつうの。
――
その日の夕方17時30分ごろ。
4月に家族揃って転居したばかりの新しい住居、三階建てマンションの302号室の玄関で、俺が靴を脱ごうとしていた時のことだった。
「ただいまー」
「あら信吾お帰り。ねぇちょっとこれ、ちょうどいいからお隣さんに渡してきてくれない?」
そう言って俺を出迎えてくれたのは、年柄にも似合わず真っピンクのハート柄エプロンをつけている俺の母親、つまりは佐野山由美子だった。
手にはおたまも持っていることから、どうやら今日の夕飯の準備をしているご様子。
今日はハンバーグか、と俺はすぐに匂いで気が付いた。
「それは良いけど、有栖川?」
俺の家のお隣さんと言えば、301号室と303号室があり、その片方は友人宅でもある有栖川家なのだが。
もう片方は――、
「うんう、西条さんのところ」
「ああ、うん、分かった」
言いながら俺は、母からハンバーグの入ったタッパを受け取る。
「せっかくなんだし、一緒に食べて来てあげたら?」
「なっ、馬鹿っ!? なんでそうなるんだよ!?」
「なんでって、そりゃあどこかの誰かさんが、あの子と一緒に食べたいんじゃないかと思ってさ?」
おたまを口元に当ててクスクスと笑うあたりが、もうなんだか色々と見透かされてしまっているようだ。
そう。何を隠そう俺こと佐野山信吾は、303号室の隣人で、もっと言えば同じクラスメイトでもある西条深雪に、恋をしているのだった。
「つーか、なんで分かる訳? 意味わかんねーわ」
首を傾げながら玄関を折り返す俺を見ながら、
「そりゃあ信ちゃんの母親ですから」
と、満面の笑みを浮かばせて由美子は言うのだった。
――
何でもかんでもお見通し、そんな母親を持つ俺の心境は複雑だ。
いくら大事な事を隠そうとしたところで、いつも何故だかバレてしまう。
「もしかして俺、顔に出てるのか?」
玄関脇にある立ち鏡を見て、ぞっとする。
なるほど――。これは確かに、
「分かりやすすぎだろ……俺」
必死に無表情を取り繕い、俺は玄関を後にした。
――
「あんな顔で西条に会ったら、好きだって言ってるようなものじゃないか……」
もしかして転入してからの一ヶ月、俺は今まで西条と教室で話していた時、ずっとあんな顔をしていたのだろうか? だとしたら、
「一生の不覚だ……」
「ふーん。で、何が一生の不覚なの?」
「えっ、そりゃお前……」
えっ――。振り向くとそこには、西条深雪が立っていて。
「あっ――」
ごくり、と。
言葉を失うのに、秒も要らなかった。
まるで人形のような白い肌。まるで薔薇の蕾のような紅い唇。
ぱっちりと見開いた大きな黒目は、俺のことを真っ直ぐと見つめていて。
制服のスカートとリボンが微かに風に揺れていて、胸元ぐらいまである直毛がふわりと踊っていて。
肩にはバッグを背負っていて。
夜の帳が下りる前。夕日を背景にしたそんな彼女の、たったそれだけの立ち姿が、俺にはただただ、ひたすらに眩しかった。
「そのっ――、よう」
「ようっ! って……、あれ? なにそのタッパ? もしかしてゆみちゃんが作ってくれたハンバーグだったり?」
「いや、お前それ、よく分かるよな」
「だってシンシンの家から、ハンバーグの匂いがめっちゃ漂ってんだもん」
そ、それもそうか、と俺は手の上のタッパを打って納得する。
「まぁ、どうせお前のことだから、またコンビニ弁当でも食ってるのかと思ってたんだろ」
「あははっ、なにそれ、嬉しいけどちょっと酷くない? わたしだって自炊ぐらいはちゃんと出来るしな!」
「あぁ~? ほんとかよ~?」
「いや、ほんとほんと! まぁいいや。とりあえず上がってったら?」
そう言って西条は俺の前を通るなり、首から下げていた鍵を使って303号室の扉を開く。
「えっ、あぁ、そうだな……おう」
――
相変わらずの、テレビとテーブルだけの殺風景な居間に案内された。
「まぁ適当に座っといて。簡単な和え物だけパパッと作っちゃうからさ」
「そういう訳にはいかねーよ」
俺はカバンを適当な場所に降ろすと、キッチンに立つ西条のエプロン姿を横目に、簡単な作業だけを手伝い始める。
西条が手に持ったフライパンの中でころころと転がっているのは、コーンにブロッコリーににんじんと言った野菜たち。
ハンバーグの和え物、と言ったら定番だった。
「へぇ~。結構手馴れたもんだなぁ」
「まぁね~。まっ、伊達に一人暮らしはしてませんから!」
そうにっこりと微笑む西条深雪は、現在、訳あって一人暮らしの真っ最中だ。
だからこそ、うちの母親はとても心配している訳なのだが――。
と、ふいに――、その時の俺は、学校でのあの噂のことを思い出していた。
「あのさ西条、誰も見たことのない少女って、居ると思うか?」
そう言うと西条のフライパンを握る手が、一瞬だけ止まったようにも見えた。
「なんで? あれってただの噂じゃん?」