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 箸を持っていない方の指でスクロールされていくのは、未だ足を踏み入れたことのない企業の数々。もし行動を起こせばきっとここより待遇が下がるに決まっているのに、転職サイトは俺にとって。


「野田さーん」


 いつからか、お守りのような存在になっていた。


「おう。何、お前、今日はいつもの弁当頼んでないの?」

「もうあそこの弁当も食べ飽きましたよー……って、昼間っから何いかがわしいもの見てたんっすか?」

「見てねえよ」

「急いで画面消したじゃないっすか。そんなの見なくても、野田さんには新井さんがいるじゃないっすか」

「いや、そんなんじゃないから」

「野田ちゃーん」


 一つ下の後輩である池垣はスーツの上着を椅子にかけた後に、わざとらしく左手の人差し指で髪をくるくるするような動作をしながら新井さんの声真似をした。


「お前、だからうざがられるんだよ」

「えっ!誰にっすか」


 あえて無視をして俺はペットボトルのお茶を口に含んだ。


 ここ、小野山支店の二階には会議室、男女それぞれの更衣室、そして今俺らが昼飯を食べている食堂がある。『食堂』と言っても、オマケのように備え付けられたTVに小さな給湯室があるだけのほぼ会議室のような部屋だ。


「あ、そう言えば、お前、最近生命保険扱った?」

「生保っすかー……」

「黒出産業の娘の旦那が入りたいんだと。今だったらどれ勧めるんだろ」

「えっとー、確か……あ、ほら、専門家が来ましたよっ」


 池垣に促されるまま目線を食堂の入り口に向けると、慌ただしく入って来たのは分厚い営業カバンを持った新井さんだった。


「新井さん!野田さんが呼んでるっす!」

「あ、おい、明らかに忙しそうじゃねえか」


 池垣を制すも間に合わず、新井さんは歩む角度をこちらに向けて、ドカッと荷物を椅子に置いた。


「どうしたのっ?」


 そう言いながら座って、小さなビニール袋から出したサンドイッチの包装をピリピリ破り始める。


「ごめん、忙しそうなとこ。食べたら出るんだろ?」

「いいの、いいの、食べてりゅ間はにぇ」


 頬張りながらも話してくれて、相変わらずの親身さをひしひしと感じる。ふと目をやると、池垣はいつの間にかスマホでゲームをしていた。


「あのさ、黒出産業の娘の旦那が生命保険に入りたいみたいで。今だったらどれ勧めたらいいだろ」

「あーそうにゃんだ」


 確かに今彼女の口にパンやら何やらが入っているのかもしれないが、もしわざとそういう喋り方をしているのだとしても、可愛いと思ってしまう男の性。


「今はこりぇ一択よっ」


 そう言って鞄から取り出したパンフレットは、リスク性のある商品のものだった。


「生保ではこれが一番ポイント高いよ」


 一瞬、固まった。


 ポイントとは、我々の営業成績を決めるポイントのことであり、毎月のポイントノルマが決まっている。リスク性のある商品が高ポイントなのは、それだけ銀行側にとって保険会社からの見返りが大きいからであった。


 ハイリスクを抱えてでもハイリターンを望む顧客には、この商品を勧める意味はあるだろう。


 しかし。


「じゃあ、私もう行くねー。これちょっと折れ曲がってるから、綺麗なの下から持って行って」


 パンフレットを触った後に一階を指差して、新井さんはまた慌ただしく行ってしまった。池垣はスマホの画面を覗き込みながら、一人で課金がどうのこうの呟いている。






 昼食後、俺は様々な保険関係の書類が入った棚の前で、例のパンフレットを広げていた。


 いい加減、慣れないとな。


 説明は丁寧にするものの、こちら側にとってもメリットのある商品を勧めるのは当たり前のこと。


『なんだかなぁ』


 いちいち立ち止まるなよ。疑問を持つなよ。一体、何年目なんだよ。


 働いてる間くらい、人間の心を捨てろ。ロボットになれよ。


 赤みを帯びた黄色が、捨てられない心に浮かぶ。


「野田さん」


 はっ


 気づけば、その山吹色を俺の心に植え付けた張本人の彼女が隣に立っていた。


「……川崎さん、あ、どうしたんですか」


 そう言えば、彼女の転勤が決まったというのにまだ何もそれに関する言葉を交わしていない。もっとも、交わしたところで盛り上がる想像も出来ないのだが。


「お客様にとっては、こちらの方がいい場合もあります」


 綺麗に手入れされた素爪が光る親指に挟まれるように、そのパンフレットは差し出された。


「野田さんが持っている方はリスクが高い商品なので、いくらこちら側にとってはいい商品でも無理強いしない方がいいです。このローリスクなものも選択肢のひとつとして提示してくださいね」


 瞬間的に、彼女の真っ直ぐな黒い瞳に吸い込まれた。


「……ありがとう」


 くるりと(きびす)を返す姿に、あの土砂降りの雨の日の彼女を強く思い返す。


 あの日、定時を越えて人もまばらな支店に向かい、傘を置いていなかった営業車から裏口にダッシュした俺はどうしようもなく濡れてしまった。


 途方に暮れながら裏口から中に進んで行こうとすると、視界に入ったのはひらめく山吹色の長いスカート。


 顔を上げると、黒い髪を首筋あたりで揺らし心配そうに駆け寄って来る、制服から着替えた川崎さんの姿がそこにあった。


 そして、今までたいした言葉を交わしたこともなかった彼女が、自分のハンカチで俺の雨粒のついた頭をそっと拭いた。


 黒い瞳は必要以上に語らずに、ただ、真っ直ぐに。


 俺は意味もなく、この日の記憶にすがり続けている。

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