一
彼女の名前が呼ばれた時、一瞬呼吸を忘れるほどに思い知らされたんだ。
自分が想像以上に、山吹色の記憶にすがっていたことに。
「川崎」
どよめく一同をものともせず、皺ひとつない指定の制服に身を包んでいる彼女は落ち着いた足取りでテラーの席から支店長の元へ。
「川崎さん、転勤かー……」
「けっこう長かったものね」
俺の後方では、渉外係の事務を担当するパートさんが思うままに発言している。そして俺の目に写るのは、耳には届かない支店長と彼女の会話風景。
行ってしまうのか、どこかに。
あの雨の日、鮮やかな赤みを帯びた黄色いスカートをひらめかせながら、心配そうに走り寄ってきた君に、俺は。
何を求めているのだろうか。
「どーお?慣れた?」
自分のデスクに重なる書類から顔をあげると、細い肩から伸びた両手を向かい側のデスクについて俺を覗き込む、新井さんのキュートな姿が。
「毎日聞いてくれてありがと」
俺が小野山支店に転勤してきたのは、およそ一カ月前。銀行は、行員に不正を起こさせないためにやたらと転勤がある。現に俺が来たかと思えば、次は。
「川崎さんが行っちゃうの」
新井さんは、ひとつに束ねられたふんわりした巻髪を更に左手の人差し指でくるくるし始めた。
「ね、残念だよな。同期だし」
この支店は同地域の支店を統括していることもあり、同じ支店に同期が数人働いていることも珍しくなかった。俺、新井さん、そして川崎さん。二十七歳、三人組。
「野田ちゃん、この一カ月で川崎さんと喋る機会あった?」
人懐っこい呼び方で、くるっとしたまるい瞳を俺に投げてくる。
「あー……印鑑照合、頼む時とか?」
「ははは、それだけかー」
それだけ、ではない。
「ねー、そういえば、本店の本木くん、頭取賞取ってたね」
「あ、ああ、そうみたいだな」
「新入行員の頃はそんなタイプに見えなかったけどなー」
「ははは、そんなこと言ってやんなよ」
実際には出ていない汗が滲むような気持ちになる。俺は意味もなくデスクにある書類に視線を落とした。
そして頭の中で、あの日の山吹色のスカートが揺れるんだ。
「さーて、戻ろうかな。まあさ、黒出産業、大変みたいだけど、みんな誘って飲みに行ったりするぐらいはできるからね」
胸元の細い紺色リボンの前で、二つの手を力強くぐうにしている彼女。赴任早々、厄介な取引先を担当させられた俺への鼓舞。
「ありがと」
純粋に、可愛いとは思う。喋っていても癒されるし。若干エロいし。彼氏もいないらしい。
でもどうしてだろう、自分が何かを頼みたい時に声をかけてしまうのは。
「川崎さん」
午後三時半、閉店後の締上げ作業真っ只中。窓口業務を行うテラーである女性行員たちの伝票を数える後ろ姿が、すでに明かりを控えめにされたロビーを背景に並ぶ。
そして俺は、その内の一人に声をかけていた。
「はい」
彼女は、まるでその美しい形を際立たせるかのように片方の耳に髪をかけた状態で、綺麗に切り揃えらえた黒髪を首に沿うように揺らしながら振り向いた。
「印鑑照合お願いしていい?」
取引先から預かった書類に押印された印鑑が届出されているものかどうか、窓口端末のスタンドスキャナで機械的に照合してもらうという流れ。
「はい」
なのだが。
わりと大きめな支店なだけに、窓口端末の前に座っているテラーは何人もいるし、ひとつずつではあるが預金や為替の係にもその端末はある。
それなのに、俺は。
「はい、合ってます」
スキャナでの読み取りを終えた彼女は、愛想笑いをすることもなく、淡々と業務をこなしてくれた。
「ありがとう」
俺の頭の中で浮かび続ける色が、いつまでも消えない。