ゼンマイ部長・四
ゼンマイ部長はこの会社にもいた。外部社員が多い部署で、決まったタイミングで自分に声をかけてくる社員に気づくと、ゼンマイ部長はネジ巻きを止めて動き出す。
「部長、ちょっと相談というか確認なんですけど。」
社員の伊藤はそう言って、上司であるゼンマイ部長を呼び止めた。どのメンバーの机からも見える位置、通路の手前だ。
「はい、なんでしょう。」
ゼンマイ部長は部下に対しても常に丁寧な言葉で話す。
「私、いいサービスって難しいと思うんですよね。」
「そうですね。狙いやアイデアが良くても手間をかけてあげないといけない。」
「やっぱり。一番難しいのはなんでしょうね?」
「ここみたいに大量のサービスをさばかなくてはいけない場合、チームワークで結果を出すのが重要でしょうね。あなたの相談というは、こういう話でしょうか?」
「はい、部長がどう思っているか知りたくて。」
ゼンマイ部長は、伊藤が視線を向けようとしない右側に意識があるのを知っていた。午後の作業のピークが終わったタイミングだ。ゼンマイ部長は何も気づいてないふりをして伊藤の話に付き合う。仕事の話に聞こえるが、その実質について彼女は興味はないのだ。
「そうなんですね。部長は全部考えてやらなきゃいけないですもんね。いつも大変そうだなって見てるんです。」
伊藤はデスクが並ぶ方へ身体をひねる。ゼンマイ部長もそれに付き合う。リラックスして談笑するように見せたいのだろう。
「ああ、そうだ。忘れてました。下の階へ行くんでした。」
付き合っても仕事への効果はないのは分かっていた。ゼンマイ部長は話を切ろうとする。
「部長、また話を聞いて下さい。」
「はい、もちろんです。」
「本当にお願いしますね。」
「分かりました。」
最後にそこだけ声のトーンを上げていった。何か頼んでいるとだけ伝わった。ゼンマイ部長は前にも同じ経験をした。自分が上役から一目置かれている、たぶん伊藤はそう誇示したがっているのだ。
「あの、部長。」
「はい。」
ある時、通路の前を通ろうとしたゼンマイ部長にまた伊藤が声をかけた。
「空調が弱過ぎると思うんです。調整できないですか?」
「そうですか。でも、人によってずいぶんと感じ方が違うでしょう。最適な温度って判断が難しいですんよね。」
伊藤は全員を代表しているかのように言葉を続ける。
「場所によってずいぶん暑い所が違うんです。みんなもそう言ってて。」
「そうなんですか。」
「そうなんです。部長、なんとかお願いします。」
この場所で伊藤が頼みごとをする時は、声がすこし大きくなる。一人でも多くのメンバーに気づかせるためだ。ゼンマイ部長は自分でビル管理の人間を呼び出すことにした。
「まず温度の確認をさせて下さい。」
管理会社の男はすぐにやってきた。作業服を着た男はゼンマイ部長と一緒にフロアを回り、天井の空調機の状況を確認する。
「そんなに暑いですかね?」
「そういう声が出ているもので。どう暑いですか?」
ゼンマイ部長は、まわりのデスクで仕事をしているメンバー達に聞く。すぐに反応したのは伊藤だ。
「暑いです。特に夕方はもう耐えられません。ねえ?」
隣に座っていた同じ派遣会社の女性に話しかけた。
「ねえ? そう思うでしょ。」
「はい。はい。本当にそうです。」
伊藤に話を合わせるように何人かの女性が笑った。
「やっぱり暑いと思う人が多いみたいですね。」
ビル管理の男はちょっと不思議そうに頷いてから言った。
「空調はこの上下四分の一フロアづつの温度調整しかできないですよ。今回は冷気を出す方向を調整させて下さい。」
それからしばらくの間、伊藤は空調設備が新しくなったのは自分が進言したからだと触れ回っていた。それが彼女の力の誇示らしい。職場の女性たちの中で派閥のようなものがあり、そのパワーバランスに伊藤はことのほか気を使っていた。
「部長、石野さんがうちの採用試験を受けたいんですって。なんとかなりませんか?」
空調の件から一週間も経っていないうちに、伊藤は新しい頼みごとを始めた。数カ月前から外部社員として働いている石野のことだ。研修の時、石野を伊藤が担当していて、それからずっと伊藤は石野を引き連れて歩いていた。
「そうですか。がんばってほしいですね。」
「でも、採用するかはどうかは部長なんでしょ?」
「全部一人で決めるわけじゃないですよ。私のところに話が来る前に止まることもありますから。」
「部長どう思います? 石野さんのこと。」
「いい子だと思います。」
「そうでしょうね。」
「でも、試験に受かるかどうかは人柄だけではないですから。」
もし石野が入社したら、自分が仕切っている派閥が強くなるという計算かもしれない。それは伊藤の論理だった。一方で、ゼンマイ部長は判断基準や考えかたには決まっている。
「お願いします。」
「私一人で判断できることはないんです。」
「そうですよね。」
「私のところまで選考の連絡が来たら考えますよ。」
「ありがとうございます。良かったわ。」
ゼンマイ部長が明確に断らなかったので、伊藤は望む答えを引き出したと思ったようだ。でも伊藤の言ったことは、実際にはゼンマイ部長の考えに影響しない。ゼンマイ部長の考えはいつでも決まっていた。
数日後、石野は伊藤に連れられて、ゼンマイ部長の前に現れる。それまでゼンマイ部長と石野は、挨拶程度の付き合いしかなかった。
「よろしくお願いします。」
石野がそう言うと、すかさず伊藤が説明を加える。
「石野さん、今日で退職なんです。」
今日は伊藤は付き添い役のようだった。
「石野さん、この前もお願いしましたけど、うちの試験受ける予定です。即戦力ですよ。」
「はい、ぜひ試験がんばって下さい。」
「部長、お願いしますね。」
石野は頭を下げるばかりで、熱心に売り込んでいるのは伊藤だ。
「まあ、試験ばかりはどうなるか分からないですからね。」
ゼンマイ部長がそう言うと、石野はちょっと驚いたようにゼンマイ部長の顔を見た。部署ごとの採用の権限は部長だからと伊藤に言われていたせいだ。
「部長が良いって言ってくれれば大丈夫だから、心配しないで。」
伊藤は自信満々だ。本人を前にして約束させればゼンマイ部長だって、もはや断れないと思っているのだ。
「ねえ、部長。石野さんなら大丈夫ですよね?」
「まあ今までしっかり仕事をしてくれていたと思ってますよ。」
それを聞いて石野は安心したようで、また黙って頭を下げた。伊藤は愛想良く笑った。彼女は全てが自分の思い通りになると思っていた。
採用試験の応募者として、石野の履歴書がゼンマイ部長に届いた。応募内容から該当部署の部長として書類選考を頼まれたのだ。それは通常の流れだ。そして次に面接に入る順番になるのだが、書類選考の段階で、ゼンマイ部長は総務部に面談不要との返事をした。実務を確認している部門からの評価として、当然それは伝わった。
石野が涙声で伊藤へ電話をすることになったのは、その夜のことだ。
* * *
「私お願いしましたよね。」
伊藤は興奮ぎみにゼンマイ部長に詰め寄った。その物腰から気が弱そうにも見えるゼンマイ部長だったが、まるで動じておらずいつもの様子で返事をする。
「なんのお願いのことですか?」
「石野さん、試験ダメだったって。電話がかかってきました。」
「そうですか。残念ですが会社側の判断ですね。」
「彼女泣いてました。」
「そうですか。会社の試験はあくまで会社との適性の確認です。必要以上に落ち込む必要はないと思いますよ。」
「部長、分かったって言ったじゃないですか。なんとかして下さい。」
「誰が何を頼んだかっていうのは関係ないですよね。」
「前の会社まで辞めて、私のせいみたいだし。」
「受かるかどうかは誰にも事前には分からないですよ。しかたありません。」
「でも、部長なら・・」
「伊藤さん、まさか受かるから大丈夫だって。彼女に派遣会社を辞めさせたわけじゃないですよね。」
「部長が大丈夫だって言うから。そう言いましたよね?」
それ以上の言った言わないの話には、ゼンマイ部長は興味がなかった。
「越権行為にも聞こえますね。採用試験で事前に結果が分かったらフェアではありません。」
「コネ入社なんてどこにでもいます。」
「もし、そうであればコネを持つ人に理由を確認してみてはいかがでしょう?」
数週間後、ゼンマイ部長へのあてつけのように伊藤は会社を辞めた。その結果、職場では女性派閥の束縛が薄まったようだった。
ゼンマイ部長は動きを止めた。そうしてゼンマイ部長はまたゆっくりとネジ巻きを始める。