第五話 さよならよりも大切な
「さて、と」
詩好子さんは僕を見て、笑顔でからかう。
「――さっきの続き、する?」
「そりゃ、いいけど……いや、やっぱ駄目、駄目だよ」
「え!? な、なんでよ! 私じゃ不満って訳!?」
「いや、そうじゃなくて……」
「じゃ何よ!」
「持ってないもの……」
「何を」
「……これ、僕がいうべき言葉じゃない気がするよ……」
「だから何だって訊いてんのよ!」
「コン、……ええと……」
「へ?」
「だ・か・らぁ! 僕は持ってないんだよコンドーム! そういう事はちゃんとしないと駄目でしょ!? ね!!」
「……あ。そっか……それもそうねゴメンなさい、言いにくいわよねそれは」
「……いや、解ってくれればいいんだけど」
「モテなかったのね」
「そっちじゃない!」
会話というものは何て恥ずかしいんだろうと思うのと同時に、僕は喋れるという事の最高の爽快感を味わっていた。
六年間、全く話せなかった事を忘れてしまうくらいに喋り続けたい。ずっと喋って笑って怒って泣いてみたい。今日一日、明日の朝まで途切れることなく声を出していても構わない、僕はそう思ってさえいた。
「……じゃあ夏彦、最後にもう一回だけキスしてよ」
「…………えええ」
「どっちにしても駄目なんじゃないアンタ! この小心も――」
すっ、と近づき一気に口づける。
舌を入れるのはもうさっきやったのでお互い慣れてしまっている。
僕たちはしばらく互いの舌の温度を味わった後、名残惜しげにそっとゆっくり唇を剥がして離れた。
「アンタって……意外と大胆よね」
「大胆にさせる相手が出来たからね」
「だからといって浮気は許さないわよ」
「……そんな度胸が欲しいよ僕は」
「やめて、嫌だそんな事されるのホントに……」
その不安と拗ねを混ぜたような顔が可愛くて、また軽く触れるくらいの口づけをする。
詩好子さんは真っ赤になって笑う。
「ホントに大胆」僕も赤くなって詩好子さんが見れなくなる。
「アンタに幼馴染なんていたら、私絶対嫉妬してたわね」
「残念、夢の中でさえ僕はずっと一人暮らしだよ」
「アンタの家一人で暮らすにはちょっとデカすぎるんじゃない?」
「もう慣れっこだよ。自炊も掃除も洗濯も」
「じゃあこれからは私がやってあげる」
「丁重に断るね」
「何で出来ないと思ってんの!?」
「――……違うの?」
「卵かけごはんなら作れるわ!」
「作れない人を逆に見てみたいなあ……」
「これからは毎日寂しく一人で生きているアンタの家にいって家事してやるわ! だからありがたく思いなさいよね!」
「はいはい、それはどうもありがとうございます」
そう言ってごまかしたてはおいたが、僕は内心で歓声を上げていた。
僕の家にひとがいる。それだけで、もう充分すぎるくらい幸せなことではないかと思ったから。そしてその相手が一番好きな人ならばなおさらだ。
「そろそろ帰ろうか」
僕はもう今日の日付が変わりそうな事を時計で確認して、詩好子さんにそう提案した。流石に女の子をこんな時間まで引きとめておくのは不味いと思ったのだ。詩好子さんは名残おしそうだったが父さんとの関係が少し前進したこともあったのか、素直に「そうね」といって身体についた草や土をはたいて伸びをした。
「じゃあ行こっか、夏彦。明日の朝から迎えに行くから。――ゲームでしか知らない幼馴染を疑似体験させてあげるわよ」
「それは最高だね」
詩好子さんはウインクして僕の手を握って歩き出す。僕も苦笑しながら歩き出す。
――ぽろりと、涙がこぼれた。
詩好子さんが驚いて僕を見る。顔を近づけて慌てて僕に訊いてくる。
「どうしたの夏彦! やっぱどっか変なとこでもあるんじゃないでしょうね!? 大丈夫!?」
「――……え? あ、ああうん大丈夫、全然平気。……不思議だね、なんか勝手に出て来ちゃってさ……ゴミでも入ったのかな?」
ごしごしとまぶたを擦る。
涙はもう、出なかった。
★×☆
「ただいまー……っていっても誰もいないんだけどね……。まあ、こういうのは気分の問題だし、言う事が大事なんだうん」
僕は玄関のカギを取り出して回し、暗い玄関に入る。
「あー、今日も何か残り物でテキトーに作ろうかなあ。もう面倒臭いからコンビニ弁当って手もあったけどお金もったいないし……それに今日は大事な記念日だしな……僕の声が出せるようになった大切な……ゆっくり二人で詩好子さんと電話でもしたいけど……無理かな……」
僕はずっと喋れなかったことを取り戻すかのように独り言をつづけている。口からは壊れた蛇口のように言葉が流れ続け、僕のなかに溜まりよどんでいた感情をすべて出し切ろうとしているかのようだった。僕はしんとして寂しくもあるたしかに広すぎる木造の日本家屋の二階、自分の部屋にいく。僕はドアを開けて部屋に入ると、ふうっといってベットに飛び込む。枕に顔をうずめながら唇にのこった詩好子さんの感触に思わず頬がゆるみ顔が赤くなった。――したかったな、確かに。
いやらしい気持ちだけでなく、なんというか純粋に詩好子さんの肌に肌で触れてみたかった。詩好子さんの声が聴きたかったし、詩好子さんと一緒になりたかった。身体だけじゃなく、もしあるのだとすれば心みたいなものも。それは性欲から来ているだけなのか、それとも詩好子さんの存在を自分に染み込ませたいという欲求からきているのか。どちらにしても同じモノなのかもしれないが、よくは解らなかった。
時計を外して枕の脇に置く。中学の時に自分で買った物で、星と月と太陽が時刻によって変わるという少し変わったものだ。センスのなさを自覚している僕にしてはなかなかいい感度の買いものだったなと自画自賛していたりする。裏面の銀色が輝いて僕の眼に光る。
その時、――文字が、見えた。
『コングラチレイション・ナツヒコ・フロム・グランドマザー』
頭がショートしたような感覚が僕を襲う。
がばッ、と、起き上がり、ドアに突進して開ける。
階段を降り、部屋という部屋を開ける。
確実に近所迷惑になっていると自覚しているが、そんなことは構っていられない。ばあんッばあんッと扉やドアを開けて全ての部屋を見たが、何もない。何で、何で何もないんだ!
ふと、居間にあった僕がずっと使っていたホワイトボードに目が留まる。
そうか。そういうことだったのか。僕は今まで、今まで、『夢』を見ていたのか。
『おばあちゃんと暮らし、大切な幼馴染がいるという、夢のような、日々』を。
書いてある文字に崩れ落ちる。ひたいを畳にこすりつける。
「何でもっと早く言わないんだよ……」
僕はどんどんと拳を畳に叩きつける。
「僕がいつ、そんな事頼んだよ馬鹿野郎オオオオオオオオッ!!!!」
絶叫した。泣きながら。彼女がずっと与えてくれていた時間の長さの分を、まとめて吐き出すかのように。
おばあちゃんとしてずっと一緒にいてくれた事に、言葉にならない感情を込めて。
昨日消し忘れたホワイトボード。
そこには、僕の汚い文字で、板面いっぱいに、たった二文字、書かれていた。
――〝詩織〟。
泣き続けながら、嘘つきでうかつな天使が、僕のなかでずっと笑いかけていた。
喋れるようになった僕の中で、喋れない程のおおきな喪失と感謝とにくしみと愛を、夕日の中にきえていった唇の温かさとともに感じながら。
その日僕は二つの大きな物を得て、そして二つの大きな物を失う。
得たのは詩好子さんと声。
失ったのは木洩日さんとおばあちゃんの〝一人〟。
一番いいたかったさよならよりも大切なありがとうを、いわせてもくれないまま。
「君は『天使』って柄じゃないだろ……木漏日さん………」
大きな羽音が聴こえてくる。
それは遠ざかっていくようで、同時に凄く近い場所で旋回している気もした。
ボードが消える。もう恐らく時計も消えているだろう。
うかつな彼女の残滓は消えていき、全ては白紙になっていく。何も無かったことになっていく。でも僕は絶対忘れてなんてやらない。やるものか。
優しくて。
お節介で。
不器用で。
そして、僕の人生をすくってくれた優しい天使だけは、絶対に。
その時、ひらりと一枚の大きな羽が落ちてきた。
僕はそれを手に取って蹲った。
「忘れてなんかやるもんかよ」
一枚の白い羽を抱きしめて、思い切り声を出して、
僕は泣いた。
★×☆
かんかんかんと、下の階で母さんがフライパンにおたまをぶつけながら私に呼びかけた。かんかんかん、「早く起きなさい詩織ー、学校遅刻するわよーこら聞いてんのー」かんかんかんかん。解ったよ、解ったって。すぐに起きるか……ぐすー、すー、すかーむにゃむにゃ。がん、がんがんがんがん!「うるっさぁッ!」気付けば部屋に勝手に母さんは侵入しており、私の耳元でフライパンとお玉のハーモニーを響かせていた。私は涙目になって噛みつく。「いくらなんでもやりすぎでしょうよ! 目覚ましの何十倍も不快だわそれ!」「つまりは目覚ましの何十倍の効果があるという事よ、父さんは仕事でずっと缶詰なんだから、色々サポートしてあげないといけないのよ私は」そう言って腰に手を当てるお母さん。私より先にパコパコキーボードに向かって文字を打っている父さんの心配をするあたり、未だラブラブっぷりが伝わってきて正直食傷気味だ。朝から胃もたれしそう。……まあ、仲が悪い夫婦よりはましな方か。私には男女の機微はいまだに謎の領域だからなんともいえないが。
「今日は父さんと母さんは出かけてくるからね、夕飯は自分でかってに冷蔵庫の中のものでも何でも食べていいわよ」
「店屋物でも?」
「特別よ」
「うし!」私は思わず拳を握りしめる。これでひさしぶりに大好きなピザを思うままに堪能できる。母さんに似て大食漢な私はそのことに一気にテンションを上げた。父さんと母さんの結婚記念日、プライスレス!
「佐久間も来るかもしれないから、そのときは一緒に食べてあげなさい。アンタ、ひ孫みたいに思われてるんだから」
佐久間さんは母さんの実家に住みこみで働いている使用人さんだ。八十を超えても穏やかな老紳士といった感じの人で私の友人の執事マニアには垂涎ものの人物らしい。私にとってはおじいちゃんに仕えるもう一人のおじいちゃんといった感じで大好きだ。「じゃ頼んだわよ」
そういって母さんは苦笑しつつ下に降りる。
私も大きく伸びをしてからベットから降りた。
快晴である。雲は欠片も見られず、私の視界を青一色に染め抜いていく。
顔を洗い制服に着替え、朝食をとり、カバンを手に持ってローファーのつま先を入れながら玄関を出る。眩しい。今日は熱くなりそう。
七月七日。
父さんと母さん――『帽子谷夏彦』と『帽子谷詩好子』が結ばれた日は、何故か胸がざわつく。何かが私の中で動いている。どくんどくんと脈を打つ。まるで父さんが書く甘い恋愛小説のように。――……ま、嫌いじゃないんだけどね実は。
日差しの中、私は汗をハンカチで軽く拭きつつ父さんの事を考えていた。
父さんはいつも今日だけは絶対に私に会おうとしない。
そのことに涙が出そうになるのはどうしてなのだろうと、いつも私は不思議に思っている。
授業が終わり、私は早速お気に入りの場所に向かうことにした。
奈々津荷山の中にある、獣道によく似た正規の道ではない獣道。
その先にある丘というのが私の夕方の過ごす場所である。
芝のようなみじかい丈の緑の草が一面にひろがるここは、誰にも邪魔されずに一人で楽しむには恰好の場所。寝っ転がりながら、ここに来るといつも安らぎと同時に形容しがたい寂しさにも襲われたりする。まるで、自分の背中には片方だけしか翼がついておらず、もう一方の翼がどこかで私を探して旋回しているような、そんな空想にも浸ってしまう。
恋愛小説家の父の影響がこんな所にも出ているなあと一人で笑った。
さて、暗くなり始めてきた。そろそろ帰って家に佐久間さんを呼んでピザを食べることにしよう。私が星がだんだん見えてきた空を見上げながらそう思っていると、
――かさりと。
後ろで誰かがここにやってくる音がする。誰だろうと入り口を見ると、そこには私の所の制服では無いブレザーを着た男子が立っていた。
「何してるんだい?」と彼は訊いてきた。手にはバスケットと水筒を持っていて、こちらにゆっくりやってくる。笑顔がデフォルトのような所はどことなく父さんに似ている。あの人、いつも笑っているイメージしか私にはないのだ。
「いや? 特に何をするでもなくぼーっとしているだけよ。ここはプライベートスペースのつもりだったんだけど、他にも人がいたのね。邪魔してゴメンなさい」
「いやいや。僕の方こそ何かじゃましてしまってゴメンね」
その時、くうーっと私のほうから何か音がした。私は流石に気まずくなって黙ってしまったが、彼は笑って「よかったら一緒に食べない? ちょっと多めに作りすぎちゃってたんだ」
「え、でも……」私これからピザなんで! と言おうとした瞬間パカリと開いたその中身に目を奪われた。
じつに見事な出来栄えのクラブサンドが五つ。
思わず喉が鳴る。
私がその全ての視線をバスケットに注いでいると、青年は水筒から麦茶をだして手渡してきた。私は無意識に受け取り、「食べよう」といった彼の言葉に引き寄せられたかのようにその三角形のクラブサンドを一つ頬張る。
「あ、美味し……」
「それは何より」
彼が笑って言うのを見て、私は言葉に出来ない気持ちが身体に渦巻いているのが解った。
それが何なのかはよく表現できないが、私に欠けている物をようやく見つけた、そんな感じがした。
食べ終わり間近。私はまだ彼の名前を訊いていない事に気付いた。
パンくずをなめ取ってから、尋ねる。
「そういえば、アナタの名前、きいてなかったわ。ごめんなさい、なんて名前なの?」
「僕? 僕の名前は――」そう一端区切って、続ける。
「――木洩日空人、真上にある空に人で空人だよ」
「かぶる帽子に谷で帽子谷、読む詩に織物の織で詩織。――帽子谷詩織よ」
「警察官のじいちゃんが空が大好きでね、だったら航空自衛隊入ればよかったのに、っていっつも思ってたよ」
「男の子だね」とくすくす二人で笑う。木洩日さんはふと空を見てぽつりと言った。
「この山の本当の名前って知ってる?」
「……奈々津荷山じゃないの?」木洩日さんは首をふって言った。
「〝空結山〟って言うんだって。〝空と地上の人を結ぶ山〟って意味なんだってさ」
私も一緒に空を見た。もうそこには天の川に挟まれたベガとアルタイルが美しく光り輝き始め、私たちの出会いと始まりを、優しく祝福しているかの様。
私と彼の物語が始まる。
この丘で、私たちだけの大切で秘密な物語が。
羽の音が聴こえた。
それはすぐそばに舞い降りたかのように私は感じられていた。
空に住む誰かとわたしたちを、その翼で力強く、結びつけるようにしながら。
……ぎゅっ、……と……。