第四話 『天使がいた丘』
家に帰るとおばあちゃんは何故か妙にハイテンションに僕を迎えてくれた。おそらく僕がまだ見ぬ彼女といい感じになったと喜んでいたのだろう。しかしすぐに僕の顔を見るとどうなったかを察し一瞬その顔を曇らせる。でも変わらずおばあちゃんは僕に「なんか美味いもんでも作ってやろうかね」とそのカラ元気のようなテンションのまま僕をちゃぶ台に座らせ、気付けば僕の好物がこれでもかこれでもかと並べられていく。
あのさ、満漢全席じゃないのこれ。
突然のごちそうにいきなり僕は王様か何かになった気分だった。
途中でやけになったのではないかと思われる程のその贅沢っぷりに、僕は思わず首を傾げる。何か此処までするものがあっただろうかと。
はたと気付く。――そうか。
明日はおばあちゃんの、結婚記念日じゃないか。
さっきの事で頭がいっぱいな僕はそんな事にすら考えが及んでいなかった。
僕は恥ずかしくなって反省する。きっとおばあちゃんのハイテンションはそこから来ていたのだ。
この料理は、儀式だ。一番大切な人を思い出す悲しみを埋めるための、儀式。
僕はおばあちゃんの顔を見れず、おばあちゃんがちゃぶ台の向かいに座るのを待って、一緒にご飯を食べ始める。
終始おばあちゃんは上機嫌で、それがどういう気持ちからであるのか解っているというのに、駄目だと分かっているというのに、静かに、だが確実にだんだん腹へと怒りが溜まっていく。今はそんな気分では無いのにわざわざ僕の小さかったころの事を話し出したり、今までの笑える思い出話で一人で笑ったり。――おじいちゃんを懐かしむような、話をしたり。
おばあちゃんと全くと言っていい程交流の無かった、しかもおじいちゃんの顔さえ知らない少年時代。
そんな僕が、おばあちゃんで変った、変われた。僕は自由に生きていく事の意味を知ったし、障害はその人を潰してしまうだけじゃない事も、それが自分に新しい生き方を与えてくれるものだと教えてくれたのも、おばあちゃんだった。
でも、今はそんなおばあちゃんの話を聴いていたい気分じゃなかった。
ほとんどのご飯を食べずに、僕はボードに『ごちそうさま』と書いて立ち上がり、使った食器を洗い場へ持っていこうとする。呼び止められた。
「――夏彦」
僕は、静かに、しかしはっきりと拒絶の視線でおばあちゃんを見る。おばあちゃんの横には僕が今日送るはずだったプレゼントが英字新聞調のラッピングに包まれたまま置かれてた。鋭いおばあちゃんが何があったか解らないなんて事は絶対ない。僕が知る限りエスパーと断定していい木洩日さんと、同レベルの勘の持ち主なのだから。
放っておくという事を、珍しくおばあちゃんはしなかった。
ゆっくりと一言だけ言う。
「諦めんじゃないよ」
僕はぐっと唇を噛む。今日は涙腺が緩いらしい。どうやらしっかり結んでおかないと駄目のようだ。
「強く抱きしめて、離すんじゃない。好きならとことん追いかけな。解ったか夏彦。――頑張りな」
駆け足で僕は自室への階段を駆けあがる。
ばたん!と強く部屋のドアを閉めて、そのままずるずるともたれ落ちていく。涙腺の許容度はとっくの昔に超えていた。
エスパーは嫌いだ。
お節介で優しくて大好きなエスパーは、特に。
★
翌日。
僕はいつもと同じように登校していた。
僕の二つ後ろの席の木洩日さんが僕に軽く手を振っていた。僕はぎこちなくも手を振りかえす。席に座る時、胸を針で刺されたような痛みが襲った。が、無理矢理それを抑え込んで前を向く。木洩日さんは笑っていた。
今にも泣き出しそうな顔をして。
チャイムが鳴って、授業が始まる。僕に指名が下る。僕はボードで答える。心なしかボードが叫んでいるように存在が薄くなって見える。
僕はその日何と書いたのか、全く思い出せなかった。
放課後、僕と木洩日さんは部室へと一緒に向かう。
木洩日さんはいつもと変わらない陽気さではしゃいでいるように見える。でも無理をしているのが僕には丸わかりだった。そして僕はそれに気付かぬふりしていつもの様に怒った演技でボードで叩こうとする。木洩日さんは相も変わらずいつものエスパーぶりで華麗にそれを避ける。そんな超能力者に、今の心は絶対読まれてほしくなかった。僕がボードを下ろすと、木洩日さんは静かに微笑んで「行こう」と言って先に廊下を歩いていく。
僕の歩幅より随分短いはずなのに僕は彼女に一向に追い付くことが出来ない。僕は黙ってその背中を見ている。だが自分からその距離を縮めようとは思えなかった。
部室に着くと、そこには先輩と写楽さんが既に来ていて、顔を合わせて俯いていたが僕達が来ると同時にぱっと離れ笑顔を向ける。
先輩は何やら今まで泣き腫らしていたような目をしていたが、僕達に笑いかけると大きな声で「じゃあ次の丘の調査を始めるための検討会を行うぞ!!」と叫んだ。隣の写楽さんも小さな声で「おー!」と腕を上げて笑っている。写楽さんが先輩のノリについていく所なんて初めて見た僕が驚きを隠せずにいると、写楽さんも悪戯っぽく笑って僕を見る。
小さく「今日だけは同志ですから」と、彼女が呟いたような気がした。
意味が解らない僕が後ろの木洩日さんに振り向くと、彼女は少し頬を緩めてテンションの高めな二人を見ていた。
その微笑みに更に僕は首を傾げたのだった。
検討会で、僕はその日いくつもの候補の丘を上げた。
だけど、本当の天使の丘の事は絶対に上げなかった。
木洩日さんはただ笑って、それを見ていた。
チャイムが鳴り響き、僕たちは部室を出た。
木洩日さんと校門を出て、僕は木洩日さんにボードで書いて訊いた。
『気付いたんでしょ。――僕が、本当の丘の事を知ってるって』
少し間が空いて、木洩日さんは「うん」と言って僕を見る。「とっくの昔から」
僕は続けてこう書く。
『何で、黙ってたの?』
木洩日さんはぷっと笑っておかしそうに身体を揺らして言った。
「ただでさえ辛いのに、更に傷口に塩を塗り込むような真似、出来る訳ないじゃない」
それが何の事を指しているのかは解らなかった。ただ、僕には解らない、部の中で彼女たちだけの約束事みたいなものがあったらしいのは、おぼろげながらも解る。
「その丘で、その娘と会ってたんだ?」
木洩日さんはそう言って、静かに僕を見つめる。
僕はもうこの人に隠し事はしたくなかった。だから、正直に書いた。
『うん、天気のいい日限定だけどね』
木洩日さんはくすっとして、
「十分すぎるさ。私もその方が良かったし」
意味深に笑って僕をつっついた。その意味が解ったから顔が熱くなる。今更だけれど可愛いな、と思う。今更そんな事に気付く僕にはふさわしくないな、とも。
『木洩日さん』
書いていた僕の手をそっと握って、彼女は僕の書く動作を止めた。木洩日さんが僕に近づく。
「――名前で呼んで」
……――え?
「もう一回、最後に、私を名前で呼んでくれない?」
木洩日さんに夕日が当たる。その瞳が鈍く輝く。僕はそれに吸い込まれそうな錯覚に襲われ、ごくりと喉を鳴らす。鼓動が速くなる。
「駄目、かな……」
僕は、ゆっくりとボードに文字を書いた。大きく、大きく、大きく、画面、一杯に使って。たった二文字を、ゆっくりと書いて、見せる。
『詩織』、と。
唇が温かい。
そう、思った瞬間、僕のまつ毛には木洩日さんの長めのまつ毛が乗っていた。
木洩日さんの白い肌が僕にくっつき、汗ばんだ肌と僕の肌が吸いあう。
眼を閉じて伏せられたまつ毛には雫が乗っている。僕の胸に制服の上からでも解る柔らかな二つの膨らみが押し付けられ、そこから伝わってくる鼓動の速さすら感じられる。
僕の中で何かが弾けた。そう思った瞬間には木洩日さんは僕から離れていた。
「最後だったからね。つい、調子に乗っちゃったよ」
べっと舌を出して僕にあっけんべーをする木洩日さん。
僕の胸は熱くなりすぎて倒れるんじゃないかと思うほどなのに、それと同じくらい冷めている自分もいた。自分自身を最低だと声を響かせ叫んでいた。
「さよなら『夏彦』君」
そう言って、彼女は走って行く。
遠くなっていく。どんどんどんどん。もう会えなくなるように感じる程。
僕はただそこに、立ち尽くした。
夜が、始まろうとしていた。
★
夜七時。僕は自室でじっとしてベットの上でケータイを見つめていた。
不思議なものだ、と思った。
こんな小さな機械の中に、僕たちは言葉を言い、書き、そして相手と繋がる。
それは僕達の中で既に当たり前のものとして、ごく普通に受け入れられているけれど、以前にはそんな事は空想の産物ですらなかった。出来っこない、不可能だとすら思われていた。
遠くにいる人と人が気持ちを伝え合う方法は、ずっと前には手紙くらいしかなかった。それがどういう事か、今ではこうしてほんの数秒もあれば相手に気持ちを送る事が出来る世の中になってしまった。なんという〝進歩〟だろうか。
でも、そんな二十一世紀に生きる僕がこうやって、ただ身じろぎもせずに想いを伝えたい相手からの返事をじっと待っているなんて、なんとも滑稽な話ではないか。
結局、想いを「送る」速度は進歩しても「届く」速度は人間がこの世に生まれてから全く変わってなんかいやしないのだ。
いつだって人は誰かに何か想いを伝えたいと思ってあくせくあがくけれど、いつだってそれがちゃんと相手の心に届くかどうかは解らないのだ。
一瞬で伝わる時もあれば何十年たってようやく届く事だってあるだろうし、それは心が通じ合っていようといまいときっとずっと変わらない事なんだと思う。
そんな僕達に出来る事と言えば、ただ伝える努力を諦めない、という事だけではないだろうか。
いつかは届くと信じて、その気持ちを忘れずにいる事ではないか。
僕は隣に置いてあるプレゼントを見る。信じよう。ただ、信じよう。
僕の気持ちが詩好子さんに『届く』ことを。
心の距離を縮める魔法なんて、僕達はきっとずっと、持てはしないのだから。
だから。
ぶるるるる、とケータイが震える。
飛びついて。開けて。見る。『メールが来ています』。『天河詩好子』。急いで読む。
『もう着いたんだけど。早く来なさいよ。あんたの家、遠いのよ全く』
僕は階段をげ落ちん勢いで降りた。
おばあちゃんが下で手招きして笑っている。僕も笑う。
いつだって、人は信じる事で生きている。
心や距離が遠い相手に届くと信じて生きている。
例えどんな小さな波紋でも、いつか伝わると信じて生きている。
僕は今、生きている。
おばあちゃんは詩好子さんに会って目を潤ませた。僕はそこまで信用が無いのかなあと笑っておばあちゃんを見る。おばあちゃんはこほんとバツが悪そうにワザとらしい咳でそれをごまかし、
「――可愛い子じゃないか夏彦。それに安心したよ。アンタが好きになったのがこの娘でさ。――ずっと待ってたんだよ?全くアンタが手紙で『僕にもう一回だけあの丘で会ってくれないか、絶対渡したいものがあるんだ』――なーんてまるで最後の別れみたいな事書いたりするから」
「うええッ!? あ、あのッ、私は別に心配なんてしてませッ……って! それに何でその事を知ってるんですかッ!? アレ誰にも見せてないはずなんですけど! ちゃんと大事に机の奥にしまって!って……ってあッ……す、すいませんッ……ただ、私は昨日は夏彦君にかなり失礼な事をしてしまったので、そのお詫びにと思って自宅まで来させていただいただけなんです、いえあの確かに夏彦君はお世話になってますし、私もその、た、楽しい時間を過ごさせてもらっていますから心配していないなんて事は無くは無いんですけど、そう言う事でも無くもないというかそうでは無くええとああ違う、ええといえでも、なんというかその、あの、えう、あい、あの、どの、この、その、とのあの…………えう、えうう…………」
僕では無く、僕の家族には流石の詩好子さんでも強くは出れないのか。
否定したい。けれど本人の前でははっきりとは言えない。それに、友達の家族に出来るだけ失礼はしたくない。そんな動揺がはっきりと見てわかる。
しどろもどろという状況を描けと言われて今の詩好子さんを描けば、僕なら満点をつけてあげるだろう。本当に可愛い人だなあこの人は。
「『可愛いな』だってさ。良かったねぇ、詩好子ちゃん❤」
あ、あとおばあちゃんの事は諦めた方がいいよ。その人、モノホンのエスパーだから。
そう思いつつ、真っ赤になって更に何を言っているのか解らなくなっている詩好子さんと、何か含みのある笑顔でそんな僕と詩好子さんを見るおばあちゃんを、少し生温い視線で見たのだった。
☆
「びっくりしたわよ、私の考えてる事みんなばれるんだもん、驚かない方が無理ってもんよね、それにしてもかっこいいおばあちゃんねー、すらっとして背筋も伸びてて、素敵だったー、何か気が合いそうだったし。アンタもいい人と暮らしてんのね、何となくアンタがそうなったのも解る気がする」
詩好子さんが上機嫌で僕の横で自転車を走らせる。僕は自転車を漕ぎながらだと相手に意思疎通する事が出来ないのでただ黙って肯定の首振りをするだけだった。
それにしても、ちょっとこれは恥ずかしい。
今僕達は奈々津荷山へ二人並んでゆっくり自転車を漕いで向かっている途中だ。僕の隣には奈々津荷山に置かれっぱなしだった詩好子さんの『赤い彗星』がライトを点けながら走っているのだが、その真ん中に赤LEDが埋め込まれており、シャアザ○の目の部分(?)の様に明かりの中で赤い光点が中心で輝いている。
一緒に走っていて少し、いや、かなり恥ずかしい。ガンダムが好きな人なら嬉しいかもしれないけれど、僕は殆ど見た事が無いので困った。どうやら詩好子さんは先に奈々津荷山によってここまで来たらしい。僕の住所は結構解りにくく、町の中でも存在自体がおぼろげな所なので、着くのが大変だったと詩好子さんは言った。そして着いた後もずっと僕にメールを送るかどうかで悩み、ずっと外で、待っていてくれたらしかった。おばあちゃんは僕達が出て行くとき、大きく手を振ってくれた。さよなら、と言ったあと、僕に「ずっと大事にするんだよ」と耳打ちして僕の顔を真っ赤させたのは永遠に忘れない。覚えてろよおばあちゃん。
僕達はそんな風に一方的に詩好子さんが話し、僕が相づちをうつといういつもの会話で自然さを装って走っていたが、少し詩好子さんが黙ったと思ったら僕をチラリと見て、小さくこう言った。
「――本当に、ごめんね」
すぐにその意味が解ったから、僕は曖昧に笑ってごまかした。
確かに、僕にとって辛い事を沢山言われたけど、こうしてまた僕に会ってくれただけで嬉しかったし、それより詩好子さんがどれ程の勇気を振り絞ってここまで来てくれたのかも、ちゃんと解っていたから。
何でも無いように話す声がさっきからずっと震えていることは、いかに鈍い僕でも気付いていたし。
僕は黙って前を向いた。ピースサインを詩好子さんに向けながら。
ちょっと吹き出して、しばらく詩好子さんは目じりの雫をぬぐう。
「やっぱりアンタって――」変な奴、と来るかと思っていた僕にこう言った。
「凄い奴よね」
そう言って前を向く詩好子さんの横顔は、今まで見た中で一番綺麗だった。
奈々津荷山に来てみると、空には星がもう瞬いていた。ゆらゆらと浮かぶ雲に、星が邪魔だ邪魔だと叫んでいるかのように輝いている。空気は澄み、僕たちは懐中電灯であたりを照らしながら前へと進んだ。僕はいつもの獣道に入り、詩好子さんは後ろからついてくる。僕が片手に電灯、片手にラッピングされたプレゼントを持っているのを見て、詩好子さんが「それが手紙で言ってた渡したいものってやつ?」と訊いてきた。
僕が振り返ってにこりと笑いながら頷く。
「アンタ女の子に送って喜ばれるものなんか買えたの?」
からかうように言ってきた。
うん、自信は正直まったくないよ。
とりあえず曖昧に手を振って僕はごまかした。
懐中電灯の光は突然伸び、広い空間、いつもの丘に着く。
僕達は今日バスケットとシートを持ってこなかったので、そのまま下の草にどさっと倒れた。
空を見上げて、二人で声を無くす。(元々僕はでないのだけれど)
そこには先程までの雲など何処にも無く、ただ一面の星空とその中でも特に輝く二つの星、アルタイル、ベガがその存在を主張していて、その間には星屑が帯の様に広がっていた。
僕達はその光景に何かを感じていた。
僕は声が出なくなってこの空に願いを託した六年前の今日の日の事を。
詩好子さんはきっと、昨日の辛い体験の事を。
僕達は横で寝っ転がりながら、じっと動かずに空を見ていた。
「あんたさあ」
詩好子さんが呟くように僕に訊く。
「奈々津荷の七夕伝説って信じる?」
僕は驚きを隠そうと精一杯無表情を装ったつもりだったが、バレバレだったらしく、
「あんたって解りやすいわよねえ」と笑う。いや違う、僕の周りがエスパーだらけなだけだ、……多分。
「父さんが来たことは聞いてるんでしょ」
よっと、と言いながら上半身を起き上がらせる詩好子さん。
僕も身体を起こして詩好子さんと目線を合わせた。
「――……私はさ、父さんの事、まだきっと好きなのよ。可愛がってもらった覚えはあまりないけど、その気持ちの裏側を知っちゃってる分だけ、母さんはそれくらい愛されてたんだなって思えるし。生きていてずっと喧嘩ばかりしちゃってる夫婦よりは子供にとってみると意外と幸せな事なのかもしれないしね」
すいっと、彼女は一等星、織姫星のベガを見つめた。
「もしこの世に意味が無いとしたら、あの世に行ってみないと解らない、か。母さんがもしかしたら今でも私を、他の誰かでもいいんだけど見守ってくれているのかもしれないのなら、もう一度だけでいいから父さんに、母さんに会わせてあげてくんないかなあって願ってるわ。幽霊でもなんでもいいんだけど、私なんかの事より、そんなに大事にしてくれてた父さんの方に一度だけでも行ってやってくんないかなって」
ふうっと、息を吐き、
「そうしたらちょっとは昔みたいに少しでもいいから話せるようになるかもしれないって、邪な気持ちもあるんだけどね」
と苦笑いして詩好子さんはアルタイル、夏彦星を見つめる。
カチカチとメールを打って、見せる。
『絶対いつか解ってくれる時が来るよ、詩好子さん』
詩好子さんは画面を見て何も言わない。気休めはよしてくれとばかりにひらひら手を振るだけだ。僕は悲しくなった。そんな顔はしてほしくないとこの前願ったばかりなのに。
僕は無力だ。人の心を動かす事は簡単な事では無いと、こんな時に実感させられる。
僕は立ち上がり、またメールを書いて見せる。
『願い事してみない?』
詩好子さんはきょとんとして僕を見る。もう一度メールを打つ。
『僕じゃ相手にはなれないかもしれないけどさ』緊張しながら見せる。
ぽかんとして僕を見つめた後、あはははははははは! と爆笑されてしまった。
「アンタってやっぱ変な奴だわ」
くるっと反動をつけて詩好子さんは立ち上がり、僕に手を差し伸べる。
「何願うか言っちゃ駄目よ」
コクリと頷き僕もその手を握る。空を見上げて僕たちは願った。
――どうか、詩好子さんのお父さんに、尊さんを会わせてあげてください。
幽霊でも、幻でも、何でもいいです。お父さんに、優星さんに、
二人を、会わせてあげてください。僕の隣のこの人のためにも。天使さん。
僕が願い終わり、目を開けると、詩好子さんはまだ目をつぶっていた。僕はその顔をじっと見つめる。この人と、ずっと一緒にいれたらな。
詩好子さんが願い終わる。僕らは顔を合わせてくすりと笑う。
「なにお願いしたのよ」
『内緒』
「けちね」
『お互い様でしょ?』
僕はそっと手を離して、詩好子さんにプレゼントを拾って渡した。
詩好子さんが、ちょっと緊張気味に包み紙を開いて中身を取り出す。
「?」
そのまま顔中一杯に〝?〟が広がる。
「ええと、これって……」
シルクハットだった。黒くて、もさもさして、イギリス紳士がステッキと一緒に持っているような、ちょっと滑稽なもの。
彼女は戸惑ったようにそれを見て、「こんなもん渡すために呼んだ訳?」
とちょっとがっかりしてしまっていた。解りやすく肩を落として。
僕はポケットに入れておいたスイッチを、押す。
―――ぱっ、と。
シルクハットが輝いた。裏側から開いた穴。そこから電飾の頭を出し、文字を浮かび上がらせる。その光の点同士が浮かばせたのは、―質問。詩好子さんへの、クイズだ。
〝Girl love of poetry, as beautiful as the Milkyway?〟
(『詩』を『愛』する『少女』は、『天の河』より美しいか?)
ぽかんと光る文字を目で追う詩好子さん。僕はその顔に畳みかけるようにボタンを押す。ぽちんと。
ピンポーン! と、やや間抜けな音が響き、ハットの頭からガチャンと丸型のスティックが飛び出す。
――〝YES!〟と電球文字が輝きながら浮かぶ。
しばらくして詩好子さんは我に返り。
爆笑、した。
しばらく地面に手をつきどんどんと手の腹で揺れる草を叩き続ける。
なかなか止まない笑いに、心の底から笑って欲しかったとは思っていたが、こういう反応だと急激に恥ずかしさがこみ上げきて、叫び出したくなるのを必死に堪えた。恥ずかしい穴があったら入りたい!! おばあちゃん、全然だめじゃんあなたに期待した僕が馬鹿だった!!
そんなのが十分ほど続いてようやく笑いが治まる頃には、僕は体育座りながら草をむしっていた。いいさ、僕にはどうせロマンチックは似合わないさ。自嘲しながら僕は暗い笑みを浮かべた。いいさいいさ、笑えよちくしょうこんちくしょうめ!
ぶちぶちと草を抜いていると、「夏彦」と呼ばれる。無視。僕は今貝になっておりますので反応できませんよすいませんねへへへ。
僕の眼の前に屈んで、目線を合わせる詩好子さん。僕はくるりと回転してそっぽを向く。首をつかまれ、ごきん、と無理矢理彼女の方に回される。痛い!
がちん、と歯と歯がぶつかる音がした。互いに痛かったと思うが、そんな思いは一瞬で消え去り。
僕は詩好子さんの唇の柔らかさに驚いた。
じっと黙って僕たちは唇を押し付け合っている。しばらくして、おずおずと僕が舌を彼女の唇を割り入っていくと、戸惑いながらも詩好子さんもそれを受け入れ、僕に舌を絡めてくる。
最初の内はぎこちながった舌同士は滑らかに動く蛇の様に柔軟に動き、互いの唾液を飲みあい吸いあった。僕はそのまま詩好子さんを押し倒して唇を重力と共に更に押し付ける。
息が息を飲み込んでいく。二つの赤い蛇が絡み合う。粘膜をなぞり合って時折息継ぎがしたいというようにむずがる詩好子さんを無視してその呼吸音すら吸い上げる。
僕達は草の流れる音と共に抱き合い互いの頭を掻き交ぜあう。
女性独特の高い声がする。髪から草とシャンプーの香りがして、僕は強く抱き締める。もう離さない、そう思いながら。
――びりッ、と。
舌に、喉に強烈なしびれが僕に起こる。思わず顔をしかめ、唇を離す。詩好子さんが少し蕩けたような顔のままぼんやりと唇を袖でぬぐい、「どうしたの?」と心配してくれる。でも僕はそれに応じる事が出来なかった。
僕は喉を押さえ、何かが込み上げてくるのを感じている。熱い! 何か熱いものが痺れと共に僕に、迫ってくる! 襲ってくる!!
身体を曲げて、僕は喉と舌の痛みに必死に耐える。堪える。
――しばらくして痛みは波が引くように消えて行き、僕はようやく上半身を起こすことが出来るようになった。
大丈夫、みたいだな……
さっきからずっと背中をさすってくれていた詩好子さんはしきりに大丈夫? 大丈夫!? と訊いてきてくれたのが、僕には何よりも嬉しい。そして言った。
「――うん、ゴメンねもう大丈夫。心配かけちゃったけどなんだか急に喉がいたくなっちゃってさ、でももう治まったから――」
時間が止まった。
詩好子さんがそのつり気味の眼を人間の出来る限界まで見開き、口を震わせる。
僕は意味が解らず首を傾げて――
絶叫が僕の隣から轟いた。僕はまだ意味がよく呑み込めずにその詩好子さんのはしゃぎっぷりを見ている。詩好子さんは言う。
「伝説は本物よ!!」何が?
「祈ったの!!」何を?
「伝説が!」だから何が?
「〝アンタの声が、戻りますように〟って私願ったのよ!!!」
わあぎゃあ言っている詩好子さんの言っている意味と、騒いでいる意味が僕の軽い頭にも浸透していくと僕も、
「――喋れてる、僕……」と遅い気付きの声を上げた。
詩好子さんは手を握ってぶんぶん振る。「あんた今喋れてる、喋れてるよ夏彦!」いつの間にか僕は涙が溢れて止まらなかった。止められなかった。僕は、僕は、僕は、今、話せている! 喋っている! 詩好子さんと自分の口で、声で、僕は喋ってるんだ!!
もう一回強く引き寄せて詩好子さんに強引に口づけする。もう歯の音はしない。その代りに幸せの感情とともに唇の吸いあう音が風と共に響く。詩好子さんも泣きながら僕を抱きしめ続ける。唇を離し、言いたいことをいう決意を固める。「――詩好子さん」詩好子さんもゆっくり離れ僕を見て言う。「はい」思いっきり息を、吸い込む。一言一言の重さを、心地よく感じながら。
「僕のそばでいつまでも輝く星でいてください、――……ずっと」
詩好子さんは声を詰まらせながらコクリと頷き「――はい」と言う。
「約束するわ。アンタの傍で、邪魔だって言われたって光り続けてやる。要らないって言われたってずっと隣に居座る。だから覚悟しといてよ、〝アルタイル〟さん」
僕は‟ベガ〟と笑い合った。
声が出せるという事はこんなに素晴らしいことなのか。
好きな人に大切な言葉を届ける事はこんなに素敵なことなのか。
僕はこんなに幸せで、いいんだろうか。
もう一度、僕達が唇を合わせようとした時――
ぶうううん、ぶうううううん、と詩好子さんのケータイに電話が来た。
ちょっと戸惑ったようだが詩好子さんは無視する。でも、僕は「出なよ」と〝自分の声〟で伝えた。あせる事なんてない。もう僕たちは、同じ口で、同じ言葉で、同じ気持ちを伝えあえるのだから。
着信を見た詩好子さんは何やら険しい顔になって、しばらく出るかどうか悩んでいたようだったけど、観念したのか通話ボタンを押すと耳に押し当てる。
「もしもしどうしたの? ――パパ」
僕は一瞬にして緊張感を取り戻した。詩好子さんのお父さん。恐らくここでの伝説を体験したもう一人の人。
僕はどうしようかと思って詩好子さんを見た。が、詩好子さんは「大丈夫」と片手でジェスチャーして僕に落ち着くように言う。大丈夫だろうかと思って様子を窺うが、どうにも不思議な感じがした。二人に流れている、いやここにはいないわけだが詩好子さんと詩好子さんのお父さんの会話が何となく穏やかで、そしてどちらの声も震えているように聞こえたから。しばらくして通話を終えた詩好子さんが僕の方を振り返ってこちらを見た。
詩好子さんは、笑いながら泣いていた。音も無くすうーっと雫が流れては落ちている。
一体何があったのか僕は慌てて近づき詩好子さんに訊く。
「何があったの!?」
詩好子さんは泣きながら「アンタって本当に馬鹿ね」と言った。馬鹿?何が。
「お父さんの前に、母さんが出たってさ」
僕は幻聴でも聞いたのではないかと思い、もう一度尋ねる。
「僕、今度は耳がおかしくなったみたいなんだけど」
「父さんが家でお酒飲んで寝てたらね、母さんが部屋のソファーで座ってたんだって。それでびっくりして思わず「尊ッ!」って呼びかけたら、『あらあら優星さん、飲み過ぎは身体に毒ですよ。もっと身体を労わってあげないと駄目です』って言って、机の上の酒ビンぜんぶ棚に片付けちゃったんだって。しかも順番ぜんぶ間違えて。小っちゃい頃聞いた通りの人だったみたい」
こんな時なのに軽く吹き出してしまう。本当に佐久間さんのいっていた通りだったらしい。詩好子さんも軽く苦笑しながら、
「それでね、そのことで間違いなく尊だって父さんは確信したんだって。で、「僕を憎みにきたのか」って言ったらしいのよ。……私を、ずっと傷つけてきたことにね……そしたら母さん苦笑してこう言ったんだって。『私ほどあなたに愛される資格のある人間はいないですから、それは仕方ないですねぇ』って。私はほとんど覚えてないけど、すっかり好きになっちゃった。母さんの子供でよかったって思った。だって、父さんの一番好きな人は、ちゃんと父さんを一番に独占したいほど愛してくれてたんだもの」
詩好子さんと正反対って言ってたけど、あれは間違いだね佐久間さん。少なくとも、芯の部分、根っこの部分はうり二つだ、尊さんと、詩好子さんは。
「ずっと言いたかったことを父さんが母さんに訊いたらしいの。「――幸せに出来なくてごめん」、って。そしたら母さん笑って、『だったら詩好子を幸せにしてあげたらいいじゃないですか』って言ったって。『――詩好子は私達の、宝物なんですから』って」
詩好子さんはぼろぼろ泣いて僕の胸のシャツに顔をうずめた。僕は何も言えずその背中を撫でる。詩好子さんは嗚咽をこらえながら僕に言う。
「『私と詩好子は違う人間なんです。勘違いされちゃ困りますよ』って言って――消えたんだって」
僕は必死に上を向いて熱くなった鼻の奥をごまかしていた。僕と詩好子さんにのしかかっていた目に見えない重石が、そっと取り除かれたような気持になる。
上には満天の星空。
ベガとアルタイルは輝きを抑えずに微笑みかけている。
――意外と洒落てるだろう天使のやつも、そういうように。
僕達の上には星が降る。
僕達の目に見えない軌跡を描いて、少しの奇跡を振りまきながら。