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第三話 秘密

「夏彦君、君は知るべきだよ。世の中はね、そんなに甘くはないんだってことを」

 僕は言いたいことが山ほどあったものの、それをいちいち書くのが面倒臭いということと、僕自身怒りすぎていて口に、いや書けもしていなかったので、じっと黙っていた。言われるだけ言われて腹が立たない程、僕は人間が出来ていない。 

「なあに言ってるんだい『奈々津荷の聖職者』のくせして」

 だからなんで君は僕の言いたいことが解るの!? 君本当にエスパーなんじゃないの!? 

「いやあそれほどでもははは」ほめてないよ!

 全く、と僕は思いつつこの怒りを伝えられない事に、ストレスは正直マックスハートだ。プリでキュアキュアである。

「君が〝恋〟とはねえ。いやはや、やっぱり人生、長く生きてみないとわからんもんだね」

 あと、君は僕と同じ十六歳だ。……僕の記憶が間違ってなければだけど。

 だがそんな事が書けない程、僕は恥ずかしさで顔から火が出そうだった。

 僕が人生において、誰かを異性として好きになったりしたことなど、中学生の時ですらなかったのだから。

 第一、喋れない僕が恋なんて絶対出来ないと思っていたのも心の底ではあったのだけど。そのせいもあって僕の恋愛経験値はほぼゼロに近い、近いというのはちょっと見栄を張っただけで実際はゼロである。なので、僕は今のこの気持ちにどう対処していいのか解らずに、自分自身の心の動揺にただ手をこまねいて見ているしか出来なかったのだ。

 大体こんな人に相談したのが間違いだったのだ。もっと有意義な人、と言ってもいくら年上とはいえ先輩は論外だし、一番頼りにしていた写楽さんにいたっては話した(書いた)瞬間この世の終わりのような顔をされ、「ちょっと疲れたので帰ります」と言って部室から出て行ってしまう始末。悲しい。でも大丈夫なのかな写楽さん。 

 以前さりげなくクラスの友人たちに相談した時も、何故かにやにや笑って真面目に笑って聴いてはもらえなかったし。

 なんだよみんなしてさ!

 僕に好きな人が出来たらそんなに可笑しいの!? そうかよ笑えよ笑ってろよ僕は一人ででもやってみせるぞうわーん助けて木洩もーん!!

 そんなこんなで泣く泣く最も相談したくない相手、木洩日詩織(こもれびしおり)閣下にご助力頂こうと僕は頭を下げた。返ってきた言葉は「……ようやくか」とどこか遠くを見つめるような優しげな視線だった。

 別名、生暖かい視線とも言う。

 まるで思春期の男の子の部屋に隠してある秘宝を、掃除機をかけている時に発見して、その趣味がちょっと微笑ましい感じの嗜好(しこう)だったりした時の笑い。

 別名、見下げはてし微笑とも言う。

 木洩日さんは、僕の事を馬鹿にするときは必ず『名前』で呼ぶ。

 それは特に意識している事では無いのかもしれないけれど、僕には実はそれがちょっとだけ嬉しかったりする。僕に遠慮していない時だと解るからだ。

 だから僕もそんな時は遠慮なく反撃に出るのだが、必ずといっていい程僕の対戦カードには黒丸がつく。 むしろ黒丸しかない。端っこに白一個ついていれば、オセロなら大逆転間違いなしなくらい盤面は真っ黒だ。

 そんな彼女が僕を名前で呼んだ。

 馬鹿にされた。

 嫌味言われた。

 泣きそうになった。

 嬉しくない黒丸がまた一つ増えた。 

 散々馬鹿にされ皮肉を言われ、からかわれ続けた後に、燃え尽きて僕がうなだれると、木洩日さんは少し寂しそうに「……そろそろだとは思ってたけど、やっぱりこうなっちゃうのか……」と優しく笑う。

 僕にはそれがどういう意味なのは解らなかった。けれどぼくには、その顔がとても辛く、そしてまた痛ましく映ってしまった。

「何やってるんだかなあ私は……私らしくなかったなあ、こんな気持ちになっちゃってるなんてなあ……」

 散々僕の心を傷つけたくせに、更に僕の胸をざっくりと刃物で切り付けるかのように木洩日さんはその何かを諦めたかのような微笑みのまま僕を見つめ、そして僕を更に苛立たせていった。

 その態度あたりから、さっきまでのおちゃらけた雰囲気は僕達には全く無くなってきていて、二人して赤く染まった放課後の部室で黙っている。

 空が燃えている。まるでこの世の終わりの様に。

 僕達はそこから炎を浴びて、真っ赤に染まる。窓に背を向けている木洩日さんの顔がだんだんと見えなくなってくる。逆に僕の顔は木洩日さんには良く見えていることだろうが、僕が今どんな顔をしているのか、自分では解らない。でもきっといい顔はしていない事だろうと思った。

 今、部室には二人だけ。

 部長はコンビニでお菓子の新商品が出たというから買いに行くと言って、一瞬だけ部室に顔を覗かせた後すっ飛んで行ってしまったし、写楽さんはさっき言った通り青い顔で帰ってしまったきりだったので、僕は結局最後に入ってきた木洩日さんに不承不承相談していたのだ。

 結果、こんなにも気まずい空気になってしまっていたが。

 僕はそんな空気を払拭したいとも思いつつも、どうしてこうなってしまったのかを訊くことが出来なかった。木洩日さんは何とも無かったかのように逆光の中でんーと伸びをしながら僕を見ずに立ちあがる。僕もつられて立ち上がる。校内でチャイムの音が響く。

 下校時間がいつの間にか迫って来ていた。



 僕達は並んで歩きながら黙っている。

 木洩日さんはふうっと息を吐いてから、僕の方を見て話し始める。

「で、どうするつもりなの?その天河さんって娘にするのかな、純情ボーイの帽子谷君は?いつ告白する訳?」

 もう木洩日さんはいつも通りのその屈託のない笑顔で、僕をからかってきていた。

 ようやくいつもと同じになったとすぐに僕もそのテンションに乗っかろうと思ったのだが、よく考えると乗っかったら乗っかったで僕自身の恥ずかしい話題にシフトしていく訳だから、凄くためらうものがあった。でもしょうがないと苦笑してボードにペンで書き込む。  

 ふと、このボードも随分古くなったと思った。

 夕日にさらされて赤く輝く白い表面は何度も書いては消し、書いては消ししているのでお世辞にも綺麗とは言えない。しかしこのボードが僕の声の代わりに声になってくれている僕の〝喉〟なのだ。僕の気持ちを人に伝えてくれているものなのだ。

 これがなかったら、僕はとても今のように人とコミュニケーションするような事は出来なかったろう。人と意思を疎通し笑いあったりふざけあったり泣きあったり怒ったりも出来なかったろう。僕はこんなにも人といる事を幸せには思わなかったろう。

 そしてそのかけがえの無いボードを僕に与えてくれたのは、他でもない僕の隣でさっきまであんな顔をしていたこの木洩日さんなのだ。

 何を迷う事がある。

 僕はキュッキュッと書いて、彼女に見せる。

『僕、詩織ちゃんに会えて、本当に良かったよ』、と。

 ――木洩日さん、いや詩織ちゃんは面食らってそのボードを見た。そして、くしゃりと顔を歪めて、バッ、バッ、っと何かを振り払うかのようにその頭を揺らして震える声で精いっぱい強がって言った。

「――私の質問に全く答えていないのではないかね、帽子谷君?」

 僕も泣きそうになりながら、また書いて、見せた。

『告白の前にもう一度、詩好子さんには笑って欲しいと思ってね』

 そこでペンが止まり、また書き足す。

『心の底からもう一度』



 ★



 家へ帰ると、おばあちゃんが夕飯の支度をしつつ、居間から流れるテレビの音を聴いていた。歌謡曲と最新ポップスのコラボ番組だったと思う。以前僕のおばあちゃんが好きだというので、懐メロが聴きたいならとHDレコーダーに入れておいたものをおばあちゃんはCD代わりにして家事しながらよく流す。

 僕に言われなくても自分で勝手に使いこなしているあたり、今時のお年寄りは頭も体も元気だよなあと思わず笑う。

 歌に合わせてハミングしているおばあちゃんは、とんとんとんと包丁を鳴らしながら僕に背を向けたまま「おかえり夏彦」と言った。相変わらず鋭い。

 僕はこつこつと机に軽く拳を当て、呼ぶ。僕とおばあちゃんの間で自然発生した合図である。 

 振り向いたおばあちゃんはどことなく暗い顔をしていた。僕が『どうしたの?』と書いて見せると、「ちょっとまた黒くしちゃってねぇ……」と言って舌を出した。それが理由かはどうかは解らなかったから、僕の方も深くは追及しない。今日は何が出て来ても驚かないぞ、と覚悟は決めたが。僕は腕時計を見ながら、今何時か確かめた。午後六時ちょっと前。今日は詩好子さんにもメールを送っておいたので、また一緒に星が見れるはずである。問題は、どうやったら詩好子さんを元気づけられるか、という事だ。僕のすっからかんな頭には、全くといっていい程いい案が浮かんでこない。全くもって駄目な頭の持ち主である。

 そういえば、と僕はおばあちゃんから中学入学のお祝いに貰ってからずっと使っている時計を見る。

 デザインが中々凝っていて、太陽と月と星が時間によって出たり入ったりくるくる変わるという一体どこで見つけたのかは解らないがお洒落なものだ。男が付けても女が付けても様になる僕のお気に入りである。 しかも後ろには『コングラチレイション・ナツヒコ・フロム・グランドマザー』と英字で彫ってすらある。着けていたくなるのも無理はない、自分は決してババコンでは無いのだと言い聞かせる。

 僕はこんなにいい物を選んでくれるくらいセンスがいいおばあちゃんなら、女の人が何を貰ったら嬉しいのかすぐに解るのではないか、訊いてみようと思った。

 僕には荷が重すぎる話なのだが、おばあちゃんの様な老獪(ろうかい)な人がその底力を発揮してくれば僕にもマシな選択が出来るかもしれない。しかし、別に付き合っている訳でもない男に何か貰うという事も、逆に相手に負担をかけるような物では無いかと思い、正直気が引けている自分もいた。そこら辺の事も含めて僕は老獪(ろうかい)なおばあちゃんの意見を――

「――誰が『老獪』だって?えぇ、夏彦よ」

 だから僕の周りにはエスパーしかいないの!? 勝手に人の思考を読むなよ頼むから!!

 僕は頭を抱えて唸ると、からからとおばあちゃんは笑う。

「なんだい、色気づいてきたと思ったら、遂に何かやろうってかい、ええ?」

 ふきんで手を拭きながらそのまま僕の方へやってくる。 

 僕はもうどうにでもなれと思って、

『好きな人が出来たんだけど、どうしたら喜んでもらえるのか解らない。しかも付き合ってもいないのに物を送っても迷惑じゃないのかも解らない、どうしたらいいのか』

 と、思った事をそのまま書いてみた。

 おばあちゃんはテレビのついている居間に料理を運んでいる。僕は小食だし、しかも後で詩好子さんとサンドイッチを作って食べるので二人分で一人前位の料理しかないが、僕も一緒に盛られた皿を運ぶ。互いにちゃぶ台に腰を下ろすと、おばあちゃんは「そうだね…」と少し寂しそうに呟くと、「お前がもうそんな歳になっちまった事も驚きだけど、私もそんだけ長くここにいるんだねえ、道理で天井がすすけて見える訳だ」と苦笑する。

 僕はご飯茶碗に小もりになったごはんを口に運ぶと、噛みながらボードに書いて見せた。

『すすけているのは元からでしょ?』

「こういう時、食べものの音を立てずに相手と会話できるのはマナー的には楽チンだわね」と以前、おばあちゃんがなんの皮肉でも無くそう言ってきた時には驚いたが、それが素直な感想だと思えるのはおばあちゃんの人徳だろうか。遠まわしな嫌味を言わない真っ直ぐな所は詩好子さんに少し似ている。だから魅かれたのかなとおばあちゃんを見ながら、詩好子さんを脳裏に思い浮かべる。「どういう意味よ!?」と怒られた。ごめんなさい。

「――まぁ確かに、何とも思ってない男友達に物送られたら重いって思うかもしれないけどねぇ……でも夏彦、その娘は天気のいい時には毎回会って話をするんだろ?」

 僕はコクリと素直に頷く。大体週に三~四回は会えているとは思う。

 もうすぐ夏休みだから、出会って一か月くらいか。会うのはあそこだけでだけど、僕の方はそれで十分満足だった。

 しかし、一か月と言うのは告白云々の前に確かにペースとしては色々早いような気もする。

 僕が(時期尚早かな)、と思い何かすることはやめにして、もう少し様子を見てからの方がいいかなと思っていると、おばあちゃんは静かに、

「夏彦」

 と呼びかけた。僕が俯かせていた顔を上げるとおばあちゃんは、

「女はね、好きでもない相手と一緒にそう何度も綺麗な景色を見ていたいとは思わないよ」

 からかうように言ってくるのは木洩日さんとも似ているよなぁと思いながら僕は『そうかな?』と書いた。

「女が、しかも暗くて誰も来ないような所で、そんなにあっけらかんと普通に色々な話をするなんて、普通はありえないさ。恋愛感情までいっちまってるって言うのはちょっと先走りしすぎかもしれないけどね、『一緒にいても安心ないい奴』くらいには絶対思われてるよ。第一、泣き顔を見せてもまた会おうと思ってるなんて、結構自信持ってもいいんじゃないかい? やるじゃないか」

 僕はそんなものだろうかと思ったが、確かに詩好子さんは僕と一緒にいる時には楽しそうにしてくれているし、それに時折どきっとするくらい無防備な所もある。

 詩好子さん自身は気付いていないかもしれないが、そのあのええと僕だってオトコなわけで、そういう風に笑ったり見つめられたりすると、ちょっと自制心的な面で困る事もあるというか……。まあただの天然という事かもしれないけれど。「言ってくれるじゃないよあんたァア!!」ごめんなさいッ!

 僕が脳内詩好子さんに説教されてうんうん唸っていると、おばあちゃんは僕に向かって、こう言った。

「その娘も、アンタと同じで星が好きなんだろ?」

 僕がばっとおばあちゃんを見て、コクコク頷く。

「だったら、こういうのはどうだい?」

 そう言ったおばあちゃんの顔は、やっぱり老獪のそれで間違いなかった。

 僕はその提案を飲むことにし、さっそく明日準備する事にした。

 焦げた(ぶり)も軽くスルーする事にした。



 ☆



 次の日。

 僕は少し遠くにあるショッピングセンターに足運んで例のものを買いこみ、早速家に帰って作り始めた。おばあちゃんが「お前は昔からそういうモノが得意だったね」と苦笑するのを横目に、僕はそれを丁寧にまとめてラッピングし、その完成品のチェックをしてからふうっと息を吐いて造り上げた達成感で胸を溢れさせた。

 僕はおばあちゃんの姿がいつの間にか見えない事に気付き、和式の畳の部屋に行った。すると、おばあちゃんは仏壇の前に座って鐘をちーんと鳴らしていた。

 おじいちゃんの写真は飾られておらず、ただそこには誰かの戒名が書かれた位牌が置いてあるだけ。お祖母ちゃん曰く「見てると辛くなるから」と言っていたから、よほどおじいちゃんの事が好きだったんだろうな、と勝手に推測する。おばあちゃんは仏壇の前の座布団に座りながら静かに手を合わせた。僕の事にも気づかないくらい集中していて、何か大切な事を考えているのが解る。そうか。もうすぐ命日か。しばらく放っておいてあげようと静かにドアを閉める。

 静かに故人を悼んでいる人間に気の利いた事を言える程、僕は賢くない。

 昔を懐かしむことも出来ず、昔に魅かれもしない僕には、なおさら。

 その出来上がったものを持って僕は出かける準備をしていたのだけど、僕は少し違和感を感じる。なにがどう違うかはよく解らなかったが。

 日が暮れ始めていた。僕はそうっと台所に立ち、いつもの様にサンドイッチをバスケットへぎゅうぎゅうと詰めて入れる。今日は暑いが、あの山の丘は結構涼しい。薄手の夏用パーカーをTシャツの上から羽織り、僕は作ったものが壊れないように丁寧に自転車の籠の中入れてまたがっていつもの山に向かう。相変わらず駐車場には赤い自転車(赤い彗星)がドカンと真ん中に鎮座していて、僕はそれを横にそっとずらし、脇に置いてからその隣に自分の自転車を置いた。

 山の方は日が長くなったせいかまだ明るいまま世界を照らしている。

 山を登っていると、いつもの道がなんだか違う風景に見えて来る。何故だろうと思って考えていると、僕自身が凄く緊張しているという理由に思い至った。僕が女性に物を送るのはこれが初めてなのだという事も手伝っているのだろう。――もちろん、木洩日さんはカウントにいれてません。少し足早に彼女が待つ丘を目指した。

 そんな中でも僕は気になる異性に対しこんなものをどうやって渡していいか解らず、実行するのは止めてまだいつもの友達関係のままでいた方がいいかもしれない、傷つくよりもそっちの方が楽かもしれないとぐるぐる何度も考えた。でも、それは違う気もした。

 自分で自分を裏切っちゃいけない時というものが、人生の節々では必ず起こるのだろう。そんな時に、逃げ出してしまってばかりいたらその場は良くてもきっと後で後悔する。後悔は悪い事じゃない。でも後悔をしないように行動した方が大事なのではないかとも思うから。

 僕は更に早足になって緊張を隠しきれずに黙々と歩き、そして、いつも通りに着いた。

 詩好子さんにメールを送り、着いたことを報告する。

 ……しかし一向に返事がこない。

 おかしい。いつもは即レスしてくるのが普通だから、十分、二十分待っても返信が来ないのはどうしたのかと感じるのはせっかちだからでは無いと思いたい。

 三十分たっても来なかったので、僕はもう一度送ってみる。ちょっと心配になった。何かあったのだろうか。

 僕がカチカチとすっかり暗くなった周りで唯一の光源を主張するケータイにメールを打ち、送信する。また十分待った。来ない。諦めて帰ろうかなと思っていた所で、ようやく返信がきた。

 ――『死にたい』、と、一言だけ。


 僕は夢中で山の階段を駆け降り、自転車置き場に残されている赤いママチャリを見た。隣にあって捨てられていたおんぼろ自転車が何か強い力でぶん投げられたかのように遠くに転がっている。嫌な予感が頭の中で最大級のアラームを鳴らす。僕はケータイに登録された詩好子さんの住所の所まで、大急ぎで自転車で風を切って漕ぐ。僕は周りの景色をびゅんびゅんすっ飛ばしながら息が切れる限界までペダルを漕ぎ、足が悲鳴を上げても構わずに走り続けた。

 着いたとき、もうそこは午後九時過ぎ。荒く息を吐き、そして吸って心臓を落ちつかせる。

 大きな家だった。豪邸というほどではないけれど、それでも十分に大きく、クリーム色を基調としつつも赤や黒を所々要所要所に使い全体を締めている。流石服飾店経営、センスがいい。その前には立派な門があり、奥の庭には綺麗に刈り取られ整地された芝が風でそよりと揺れる。

 僕は思いっきりインターホンを押そうとして、声が出せない僕には無意味だと気付き、近所迷惑だと思いつつもガンガンとその門扉を叩く。暗かったいくつかの部屋の窓に明かりがつくのが見える。

 奥にある玄関から一人の初老の男性が出て来て、僕を見つけるとそのまま早足でこちらへと向かってくる。

「――申し訳ありませんが、どちら様でしょうか。呼びかけならばそこのインターフォンをお使い下さい。あまり音をお立てになると周りの皆さまのご迷惑になりますので」

 僕は申し訳ないと思い、素直に頭を下げた。顔を上げ、ジェスチャーで喉を押さえてから両手でバツをつくると、相手の男性もすぐに申し訳なさそうでいてそして同情する視線を僕に向けてきた。慣れてはいるけどやっぱりあまり気持ちのいいものではない。

「大変申し訳ありませんでした。それで、どのようなご用件でしょうか?」

 僕がメールを打ち始めた理由もすぐにわかってくれた様だし、門の向こう側にあるらしいボタンを押して僕のちょうど真上にあった電灯を点けてくれるなど、機転が利いて気配り出来る人だなとこんな時だというのに感心する。 

 僕は急いでさっき見たメールの内容と僕が彼女の友人であることを伝えると、さあっと顔を青ざめて、「どうぞこちらへ」と門を開けてくれ、一緒に走って玄関に入り、階段を一気に駆け上がって詩好子さんの部屋の前まで来た。

 始めて家に入るのがこういう理由なんて最悪すぎるぞ神様!! と思わずじわりと涙が出て来る。

 僕は詩好子さんの部屋の前まで来ると、こんこんと軽めにノックした。中からもぞりと衣擦れの音がする。小さく「誰……?」との声も聞こえた。

 僕が話せない事がこんなに悔しいと思った事は無い。

 この薄い木の扉の向こうに、詩好子さんがいる。それは唯の扉で、壊そうと思えばハンマーでも持ってくれば簡単に突入できる事だろう。でもこの扉は僕と詩好子さんの間に流れる川なのだ。こんなに薄い板一枚に、僕たちは互いを知る事も出来ずに立ち尽くすしか出来ない。僕からは呼びかけられない。詩好子さんからは呼びかけない。ずっと、ずっとずっとずっと、目には見えない遠い距離がここにはある。どうしても越えられないそんな壁が。

 その様子を隣で案内してくれた初老のおじいさんは、「帽子谷さまが来てくださいました、お嬢様」と言ってくれた。

 僕はこの人が今流行の執事と言う奴なのかと場違いにも思った。執事服は着ていないけど、確かにその態度はまるで紳士のようなオーラを(まと)っている。僕の前に本物の執事がいる、不思議な感じだった。

「何で来た、このお節介。早く帰れよ」

 氷の様に冷たい声音だった。誰の心にも棘を埋めるような、痛く、憎たらしい棘。

 でも、何で、なんでそんなに、

「早く……帰れよ…………」

 泣きそうな声、してんだよ。

 なんでそんな苦しそうに君はしてんだよ!

「メールの事? あんなの只の言葉のあやよ。何本気にしてんの、いい人ぶるのもいい加減にしなさいよ、あんたアタシの何なのよ、……うざい。うざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいんだよクソ虫ィッ!!!!!! いいから帰れ、この〝声なし〟野郎!!」

「詩好子さまッ!!!」

「黙ってろ佐久間(さくま)! お前なんかに話してない!! いいから帰れとっとと帰れ!! ――二度と私に顔を、見せんなッ!!」


 僕は呆然として扉から離れる。何だか足元がふわふわする。頭がぼんやりする。僕はなんだか変になってしまった。僕が僕自身を強く馬鹿にする声が聞こえてくる。笑っているように感じる。佐久間と呼ばれた人の声が遠くから反響している。

「帽子谷さま、大変申し訳ありませんでした! どうぞこちらへ! 少しお休みなさってください肩をお貸しします! どうかしっかりしてください!!」何だい何だい僕は今そんなに情けない状態になっているのかい。ははは笑える笑える笑えるよなあホント笑える。「帽子谷、さま……」

 ――ホントに笑えるよ。涙が止まらないんだから。



 ☆



 僕の前には湯気の立っている紅茶が僕の顔を歪んで映す。

 湯気は僕の顔に当たり、視界を遮られて何をするでも無くただぼんやりそれを見つめる。

 僕の正面には先程の初老の男性が沈痛な面持ちで僕の前のソファーに座っている。

 そして僕の事を気遣いながら、ゆっくりと僕に話しかける。

 僕は視線をカップからようやく離し、その人に移しながら、話を聴かせてほしいという事を態度で示す。男性は「自己紹介が遅れました」と言って僕を見て、

「わたくし、この天河家でお世話になっております管理人の佐久間と申します。この家の使用人と考えて頂いて結構です」

 と言って僕に微笑んだ。六十代を少し越したあたりだとは思うが、若々しく伸びたその背筋を見ると、五十代前半といっても充分通用する、礼儀正しい本物の執事の様に感じられた。

 僕はしばらくじっとしていたが、佐久間さんが僕の前にペンとコピー用紙を束で持ってきてくれたのでお言葉に甘えてそれを使って尋ねた。

『――一体、詩好子さんに何があったんですか?』

 数秒、佐久間さんは険しい顔を作り、そして僕の方を見て、こう言った。

「……帽子谷様は、詩好子様と詩好子様のお父様、つまりこの家の主の天河優星(あまかわゆうせい)様についての御関係はご存知でしょうか?」

『はい』

「――……そうですか……、詩好子様にも、ようやくそんな話が出来るご友人が出来たのですね……喜ばしい事です、本当に……」

 感慨深げに微笑むその瞳にはじわりと涙が浮かんでいた。

 詩好子さんがどれだけこの人に愛されているのかを肌で感じた僕は、同時に彼女が今まで辛い事をずっと一人で抱え込んできたということを、如実に物語っていた。

 僕は続きを促した。佐久間さんはぐっと親指と一指し指で目頭をぬぐうと、すっと背筋を伸ばし再び話し始める。

「瓜二つなのです本当に。詩好子さまと、お母様の――(みこと)さまは。生まれ変わりではないかと私ですら、思ってしまうほどに」

 少し間があって「まあ性格は全くの正反対ですが」と苦笑した。僕はその言葉に少し癒される。きっとおっとりした優しい人だったのだろう。

「ちょうど今くらいの歳だったらしいのです」佐久間さんは悲しげにそう呟いた。

「お二人が、出会われたのは」



 ★



 何処にでもある、普通の恋だった。

 何処にでもいる高校生の男は父親と二人暮らし。

 祖父母、母は彼が幼い頃既にこの世から去っており、残された二人の男は慣れない家事をしつつ喧嘩もしつつ、しかしたった二人の家族として力を合わせて生きていた。


 何処にでもいる高校生の女は父と祖母と三人暮らし。

 大人しく温厚な性格とその容姿から男性たちの注目の的だったが、そのせいもあってか同級生の女子グループから眼を付けられいじめの対象になっていた。

 ある時彼女は学校からの帰り道、嫌がらせをうけて泣いた赤い眼をごまかすため、一人になれる場所を探していた。ふと見上げれば奈々津荷山が自分を見下ろしている。

 何の気なしに登ってみて、久しぶりに味わう木々の香りに包まれ、少女は幸せになった。

 そんな時偶然、彼女は正規の道では無い獣道が階段の横に続いているのを見つける。

 興味半分で入ってみる。元来好奇心は強い方だった。

 彼女は、そこがまるで天然のプラネタリウムになっているような星空を見つける。

 辺りは静寂に包まれている。

 こんな素晴らしい場所があったなんて、来てみて良かったと思った。

 そこでかさりと、後ろで音がした。彼女は振り向いた。

 一人の学生服を着た他校の男子が立っている。手にはビニール袋に入ったコンビニの弁当。

 家計を助けるため、少年は学校が終わってからはずっとバイトの毎日。

 そのせいか学生気分が抜けてしまった少年は、同級生とあまり上手く馴染めていなかった。

 少年は天体望遠鏡を持つくらい星が好きな父の影響で星が好きだった。

 彼の秘密の休憩場所。それが此処だった。

 二人は、こうして出会った。

 それから六年後。大学を卒業した彼は父の小さな服屋を継いだ。

 星空が満開の花たちの様に輝き、空には天の川がかかり美しすぎる景色とこの世で一番好きな女性の前で彼はこう言う。両親の反対の中、二人は誓い合う。

「いつまでも、僕の傍の輝く星でいてくれ」

 二人は夫婦になった。反対していた両親もその時から祝福の言葉を並べ始めていた。

 彼は店を彼女の名に変え、念願だった子宝にも恵まれた。

 詩を愛する女性のように優しく育ってほしい。そう思って彼女は我が子に名前を付けた。

 男は幸せだった。

 三年後、あっけなく女は死んだ。

 男の人生が仕事だけになった瞬間だった。



「当時私はこの町で職を探していました。しかし四十を超えた男に就職口などあるわけ無く、ほぼホームレスのような状態でした。そんな所を救っていただいたのが優星さまだったのです、まだ小さな服屋、しかもご結婚したばかりという状態で私などのために職を与えてくださいました。先代の流蔵(りゅうぞう)様も身内同然のように接してくださいましたし、人生のどん底にいた私の今があるのは流蔵さま、優星さま、そして尊さま、そして詩好子お嬢様のおかげだと断言できます。ですから、この話を聞いたのはおそらく私一人でしょう。もう他の人には絶対言わないと誓ったと(おっしゃ)っていましたから」

 僕はうつむいて何も言えなくなっていた。

 優星さんの気持ちは痛いほど解る。大好きな人がいなくなってしまう事の辛さ、怖さは失ってみないと解らない。失ってはじめて、解ることだからだ。上手く息が吸えなくなってしまうような痛み、苦しさ。愛しいものは空気だ。普通に息している時は気付けない。いなくなって、苦しくなってはじめて、ああ幸せだったんだって気付くんだ。こうやって声も出せなくなってしまった、僕の様に。

 優星さんの気持ちはいかほどのものだったのだろう。

 一番愛していた人が一番愛さなくてはいけない人の顔になってしまったら。

 僕だったら耐えられるだろうか。

 一番優しくしたい相手に優しく出来ない辛さを。

 自分に何の理由も無く疎まれてしまう詩好子さんの気持ちは、どれほどのものか。

 ――互いに大切にしたいと願っているはずの二人の辛さは、そうやってずっとすれ違ってきたのか。

 詩好子さんのから聴いた話だけでは分からなかった。こうやって、父である優星さんの気持ちを知ってしまった後では、なんとも救いが無い話なのだとしか言えない。

 そんな事を思うこと自体が傲慢だと分かっているのに。分かっているはずなのに。

 そんな僕を優しく佐久間さんが見つめていた。

「お嬢様もいい方とご友人になられた……あなたが詩好子様のお友達、いえ……それ以上なのかもしれませんが……わたくしは本当に詩好子様の相手があなたで良かったと、心の底から思います」

 僕は少し涙で濡れた頬をぐいっとぬぐうと、素早く『じゃあ、今の詩好子さんのあの状態の理由はなんなのでしょうか』と書いた。字が震えてしまって汚かった。

「――会ってしまったのですらしいのですよその場所で。そこでおそらくあなたをお待ちしていた、詩好子様と」

 ペンが、落ちた。

 その場所って。つまり。じゃあ。僕達のいた所は。やっぱり。あそこに壊れた自転車が吹っ飛んでいたのも。

「明日は七月七日です。お二人の……ご結婚なされた日なのですよ。明日の事もあって、久しぶりに行って来られたのでしょう。雨が降るかもしれないと仰っておりましたから、その前にという事で……結果、その思い出の場所に、詩好子様がいらっしゃった。後は、想像するしかないのですが、おそらく……」最悪、だ。

 先輩たちと調べた『天使がいる丘』はやはり近藤さんの言ったとおり、僕達が会って星を観ていたあそこだったのだ。そして近藤さんが聴いた証言もおそらく優星さんのもの。

 想像した。思い出の場所。無くした最愛の人の事を思い返しながら歩いていく。二人だけの秘密の場所。自分たちだけの汚れない特別な場所。そこにいる詩好子さん。自分の最愛の人と瓜二つの顔を持つ自分の娘。愛した人では無いが愛した顔を持つ少女。それが星を観ている。誰かを、いや、僕を、待ちながら。

 何を優星さんは思ったろう。「尊!」とでも叫んだのだろうか。泣いたのだろうか。そして詩好子さんはどう思っただろう。「何でここにアンタが来るのよ!」とでも叫んだのだろうか。――叫んでしまったのだろうか。

 想像するのはここまでにした。いや、ここまでにしておきたかった。これ以上考えるのが、それからどうなってしまったを考えるのが、痛かった。まるで、自分が小汚くなってしまったようにすら感じてしまうほど、それは心がぐしゃぐしゃになる光景だった。もう抑える事すら出来ない震えと共に曲がった文字で、僕は尋ねる。

『二人はどうやって帰ったんでしょうか…、車か何かで一緒に……』

 せめて最後の一線だけは超えないでいてほしい。せめて、車に同乗するくらいには壊れずに。そう願っていた僕の気持ちは神様には全く伝わらない。

「――……いえ、お互いにお一人でお帰りになられました。優星さまは先程から自室でずっとお酒をお飲みになられております…今はお休みになられているようですが……随分と荒れていらっしゃいました……一言だけ、『詩好子には構うな。放っておけ』、と言い残して……」

『詩好子さんは……』

「手に擦り傷がいくつか……何かを固いものを投げつけたかのような感じでした……ひびなどは入っておられないようでしたので安心しましたが……歩いてお帰りになったようです。大好きな〝赤い彗星〟を何処かに置いて来られるとは余程の事があったのではと、心配しておりましたが……」

『そうですか』

 そう書く手が震える。何処にもぶつけられない怒りというものはどうすればいいのか。誰も悪くない事に一体第三者が、何を言えるのか。

 僕はもう一度だけ詩好子さんの部屋の前まで行かせてもらいドアの下に、手紙を書いて滑らせる。これが駄目ならもう駄目だ。チャンスはもうこれきりだ。

 僕はもう君の事なんかまったく信じていないよ。でも、あの病院の窓から見た景色が僕を救ってくれたように、今の詩好子さんを少しでも元気に出来るのなら。


 ――僕は何度だって君に、頭を下げ続けるよ。


 天使(きみ)がいる丘なら、もう一度僕に信じさせてくれよ。もう一度彼女を、笑わせてくれよ。

 僕に力を、貸してくれよ。


 詩好子さんにあげるためだった〝プレゼント〟を持ち、僕は天河家を出た。

 佐久間さんが黙って深く腰を折る。

 僕も黙って頭を下げながら、自転車に乗る。空を見る。

 星はその姿を隠しもせずに見せている。


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