第一話 サンドイッチと罵倒語
「だからね私は思うわけ」
そう言って、詩好子さんは唇をなめた。
「やっぱりね、この世の中は全部つながっているってことよ。意味のないことことなんて起こりゃしないし、結果には必ず原因があるはずなの。なにか理不尽なことやいやなことがおこった時にも、その内容によってはきっと何かを暗示していたりいつの間にか私達をしばっていたりするものなんだわ」
そう一息でいいきって、詩好子さんは大きな口を開けサンドイッチにかぶりつく。男の僕から見ても豪快な食べ方だ。隣で小さく小さく口を開けながらゆっくり咀嚼している自分とは大違いである。
「私たちがふだん知覚出来てることなんて本当は全然少なくて、見落としてることの方が多いんだから何があってもその行動にはなんらかの理由があるはずなのよ、そう思うでしょ?」
僕はただただ感心してその早口に理解して追いつくのに必死だったので、ちょっと困ったが、とりあえず「そうだね」ということを伝えるためコクコクと頷いておく。
あ、また下にぼろぼろこぼしてる。食べてる時には話しちゃだめだって前言ったのに。もったいないなあ。
「世の中の出来事のほとんどのことを自分に関係ねぇっていうやつが時々いるけど、こんな資源のすくない島国で世界の出来事が関係してなかったら今頃こんな国消滅してるわよ、ばっかじゃないの誰のおかげで飯食えてると思ってんのよ遠くの国の農家さんとかに謝りなさいよ全くさあ」
くっちゃくっちゃ言っちゃ駄目だってことも、前教えたんだけどなあ。
そんなんじゃせっかくの綺麗な顔なのに、一気に相手に幻滅されちゃうよ。ああほらまたこぼしてる。ティッシュあったかな、口の周りパンくずだらけになっちゃてるし。お尻のポケットに入れておいたかな?
「ようするにこの世の中、狭い世間に狭い付き合い。何だかんだ国際感覚だのジェンダーだの英語教育だのを熱心にする前に、目の前の人や物を大切にしなさいってことよ、それこそがこれからの日本、いえ世界を平和にするための第一――ひゃうッ!!」
ああ、もう口の周りこんなにして。マスタードが髭になってなにかの仮装みたいになっちゃってるじゃないか。――うん。よし、取れた取れた。
「あ!ああああああんたねえ! い、いきなり何してんのよ、こ、殺されたいの!?」
|僕はケータイを打って伝えた。
『あんまり汚れてたもんだからつい。あと、食べながら喋らない方がいいよ。目の前の人に失礼、でしょ。解った?』
「――……ごめんなさい」
口をとがらせてながらもそう謝る詩好子さん。なんだかんだ言って素直なんだよなあこの人は。
僕はおかしくて思わず笑う。
詩好子さんはすねるように茶色のバスケットに入ってサランラップで包まれていたサンドイッチを、べりびりとはがし、さっきよりも大きな口を開けてバクリと噛みつく。
もっしゃもっしゃと口を動かして、詩好子さんはそれを一気に半分くらいまで食べてしまった。
僕は麦茶を保冷ビンから紙コップにそそいで、詩好子さんに渡す。かるく睨みつけながらも素直に受け取り、サンドイッチを一気に麦茶で流しこむと、ふうっと息を吐いてどさっとあおむけに寝転がる。あー、またお腹出して。いくら夏になってきてるっていったって、夜はまだ冷えるんだから。風邪引かないといいけど。
僕は詩好子さんがまた後で食べるだろうと半分になったサンドイッチをはがしたラップでもう一度包み、自分の食べかけをゆっくりゆっくり咀嚼する。
詩好子さんはこちらをチラリと見て、「女みたいにゆっくり食べる男はきらわれるわよ」と言ってくる。さっきのジェンダー発言を地でいく彼女に僕は流石は詩好子さんだなあとふたたび感心する。
思っていたような反応が得られなかったことに詩好子さんは悔しそうな顔をしつつ、黙って視線を上に向け直す。
僕も黙って顔を上にあげる。
満点の星空。バケツ一杯の光る砂を思いっきりぶちまけたかのような輝くそこに、申しわけなさげに視界の隅で輝く月。
僕達がすわっている虹色のレジャーシートが時折風ではためく。
背丈が短い草が緑色の絨毯のようになっているここは、風と一緒に葉擦の音が涼しさを運ぶ。
僕達は黙って空を見ている。
僕達が出会ったこの場所で、秘密の友達として、二人で。
☆
趣味があることは、人生に充実感を与えるからいいことだよと、おばあちゃんはよく言う。
そんなおばあちゃん自身、絵や編みものや写真が好きでよく描いたり編んだり撮ったりしているから僕もよくわかる。人生に趣味は大事なことだ。
おばあちゃんに触発されたかどうかは解らないけど、僕は昔から絵が好きだし、本好きだった母さんの影響で読書も好きだ。
でもなにより僕は、綺麗な星空を見るのが、一番の趣味と言えるかもしれない。
天体望遠鏡を担いで遠くまで見に行くほどではない。
けれど、夜に窓の外から見える星を眺めていると、つい時間が経つのを忘れてしまう。
おばあちゃんはぼうっと部屋の窓から星空を眺めている僕を見つけては、初恋の人を思い出すらしい。
星が好きな人で、夜になるといつも見ていたと。
『おじいちゃんに聞かれるんじゃない? 空にいるんだから』と僕はケータイのメール画面を見せてからかうと、くすりと笑って「おじいちゃんは心が広いから大丈夫よ」と平然と言う。
僕は色恋にはさっぱりだけど、おじいちゃんがいたらあんまりいい気分じゃなさそうだなあ、と今はあの空の何処かで光っているかもしれないおじいちゃんに同情した。会った事はないけれど。初恋は別腹なんだってさ、おじいちゃん。
そんな僕は暖かくなってくると、星を見に、よく行く場所がある。
僕の家から自転車で二十分くらいの所にある山。
ここ奈々津荷町に古くからあるもので、大体この町にある小学校なら一度は遠足に使うような、ありふれた標高の低い山である。
名前はあるのだろうが、だれも本当の名で呼ぶことは無く、普通に奈々津荷山と呼ばれている。頂上付近に広い丘が広がっており、そこで持ってきたお弁当やお菓子を食べる行事を、奈々津荷の人間なら小学三年生で誰もが経験する。
皆に親しまれているという面ではとても良いところだ。僕も好きである。でも、あまりにもメジャーになりすぎて意外と夜にも人がいたりする所が難点だった。
僕は一人でゆっくりと星を眺めたいのだが、そういう人たちは友達同士で集まったりバーベキューをしたりしているのでとても騒がしく、とてもではないが楽しめない。それにその、仲のいい男の人と女の人が、その、あれ、ううんと、そう、身体を合わせていたりするので、そういう時は更にいる訳にはいかない。というか居れない。
そこを見つけた時も、正にそんな所に偶然出くわした後の事だった。
おし殺した男女のくぐもった声が聴こえた瞬間、即座にまわれ右をし肩と腰をすぼめて寂しく木で舗装された帰り道を下っていた時だった。
階段の中ほどあたりに、左へと獣道のような、普通の道ではない道を偶然見つけたのだ。それは解りにくかったが、確かに何処かに続いている様に見える。
僕は先には何か獣が出るかもしれないという恐怖と共に、もしかしたら星が綺麗に見渡せるいい場所もあるのではないかとの期待も少ししてしまい、興味半分腰引け半分で、その道へと入って行ったのだった。しかしいざ入ってみると、草は生えているものの、意外と踏み固められている回数が多いらしく、そんなに危険な道ではなさそうである事が解った。誰かが昔使っていたようで、かなり前には普通の道だったのかもしれない、と、僕は歩きながら考えていた。
背の低めな草木を踏み分けて進む。持ってきていたライトを点けて前を照らしながら慎重に歩を進めると、いきなり視界が開け、見た事も無いような星空が僕を迎え入れた。感嘆のため息が口から漏れる。
視界を遮るような邪魔な木々は一本も無く、大きくは無いものの平らで短めの草がほぼ均一に揃っている地面はまるで天然の芝のよう。球体のような〝そり〟すら感じるような、一面の星空がそこにはあった。
半円状の広場のようなこの場所は、縁が少し急斜である事さえ除けば、正に僕だけの個人用天体観賞スペースとして作られているかのような文句の付けようがない、正しく素晴らしい場所だった。
さっそく真ん中あたりまで行って寝っ転がってみる。
――すごい。
一面に広がるのは濃い黒の海の中に散らばる金の砂たち。
ちかちかと光るわけでもないのに、妙に心を引き付けて離さない光点の集合体。
プラネタリウムよりももっと現実的に胸に迫ってくるのに、プラネタリウムのような作り物にすら見える美しい光景。
僕はその日から、この場所で星を見るようになった。
僕のための、僕だけの特別な場所として。
暖かくなってくると、僕は自分で適当に作ったサンドイッチ三つとその日の気分に合わせた飲み物を保温ビンに入れて持っていき、レジャーシートを広げてそこでサンドイッチを食べながら、空を何をするでもなく見続ける。
星空というものは可笑しなもので、じっと見続けているとまるで自分がこの世にいる存在では無いような、僕が今感じている現実が実は本物では無く作り物で、本当の僕は違う何処かにいるんじゃないのか、あの空の向こう側に、僕と同じように感じているもう一人のこっちにいるべき本当の僕が、僕と同じ事を考えてこの空を見ているんじゃないか、そんな空想すら浮かんできてしまう。
後ろ頭に手を置いて寝っ転がって、この世のものでは無いような幻想的な夜空を眺めていると、馬鹿馬鹿しい想像も全部ひっくるめて愛しく感じられる。
僕はそんな風に空を見ているのがたまらなく愛しく、そして大切な時間になっていたのだった。
その日も、僕はいつもと同じように日が暮れる頃、買っておいた食パンを軽くトーストしてハムとチーズとレタス、それにおばあちゃんが作ってくれていたハンバーグの残りを切って挟んだサンドイッチを五つ作って持って行った。 僕は自他ともに認める小食男なのだが、その日おばあちゃんは「肉が多く余ったから、悪いけど食べておくれ」と言って僕の許容量の限界を超えてハンバーグを作ったのだ。いつも買っている精肉店のサービスだったらしく断りきれなかった所に、僕との血の繋がりを感じさせる。
今夜はおばあちゃんから「また長く見て行くんだろうから多めに作っていくといいよ」と言われたため、ハンバーグを使い切って五個作った。去年の今頃、一時ごろまで帰って来なかった事を覚えられているあたり、僕もまだまだ子供だという事らしい。少し恥ずかしくなってそそくさと家を出た。おばあちゃんのいたずらっ子を見るような眼は優しげで少し悔しいものがある。
奈々津荷山まで自転車を漕ぎ、薄暗い山道の入り口に着く。六月の後半の梅雨明けの空は、最後のあがきとばかりに山の向こう側を真っ赤に染め、迎え来る藍色と混じり合いながら薄紫色の調和を図っている。うっすらと月がその色を帯び始め、雲も少ない今日は星が良く見えそうだった。半袖の自分の二の腕から漂う、少し強めの虫除けスプレーの匂いが、僕のこれからの幸せな時間の到来を告げているようだった。
山道の入り口の道路を挟んだ向かい側には登山者のための大きめの駐車スペースがある。
バスがよく出入りするため大型の駐車場所が二つ、その脇に一般車の停める所が十個程。僕はその少し古ぼけたコンクリートの方へと自転車を滑らせると、車を止める場所の何分の一かと思われる程小さな自転車置き場へとママチャリを停め鍵をかけた。停まっているのは他には盗難車と思われる横倒しになって古びて錆びついたものが一台と、やたらと高そうな輝く赤いママチャリ。しかもよく見るとライトの中には真中に赤いLEDが取り付けられており、点けるとどうなるかを想像して、世の中には面白い事を考える人がいるものだなあと感心した。
一緒に走ったら少し恥ずかしいかもだろうけど。
入り口の所には看板が掲げられており、その錆び具合からもこの登山道の古さが解る。
僕は茶色のバスケットを片手に持ち、もう一方の手で携帯ライトで前を照らしながら奈々津荷山に入った。
かさりかさりと葉や土を踏む音と共に、僕は丸い木で舗装された階段を上がって行く。慣れたもので殆ど躓いたり怪我したりするという事もなく、登り始めて10分くらい経ったとき、いつも行く僕の専用スペースへの横道に逸れた。
少し違和感を覚えて、僕はその道をライトで照らす。なんだろう。何かがいつもと違っている。あえて言うならば、道が踏まれなくてもいい所まで踏まれた様な、踏み固められたところ以外にも誤って踏んでしまって、道が大きくなったような、そんな感じがした。
僕は僕以外の誰かが来ていたのだろうかと想像し、それが昼間であることを願った。夜のあそこはまだ僕だけの場所であってほしい。僕が一人でそこでゆっくりと星を見れるそんな場所であってほしい、そう思った。
行くにつれ道はどんどん広がり、この歩き方は男の人だったのかなあと想像した。
一幅一幅が大きく、間隔が広いし、何やら乱雑に邪魔な草木を払いのけて行ったような跡がある。シャーロック・ホームズならばたちまちこの人物がどんな人間であるのか解るのかもしれないが、僕は周りから『穏やかなる鈍』の通り名の通り、切れ味鋭い彼のような推理力など期待できるはずも無い。
とりあえず、あまり繊細な性格では無い事は確かだった。
ライトを照らしていた時、ぷつりとその光が遠く遠くの方へと伸びた。木々や遮るものが無くなったために光が急に伸びたように感じられる。いつもの特別スペースへと着いたのだ。
僕はとりあえず辺りを照らしてみる。人がいないか確かめたかったのだ。
もしさっきの人が怖い人で、夜にここに来るのが趣味になってしまった人ならば、僕はここに来るのを諦めなければならない。僕はケンカは弱いし、口ゲンカも出来ない。
そうなってしまったらとても悲しい。僕はこれから静かにこんな綺麗な星が見れなくなるし、それは僕の一部分が無くなってしまうと思うほどの、辛い事だ。
そう思って少し空へ向けていた視線を前に戻し、そのままその方向にライトを照らしてみた。
心臓が止まった。
そこには、僕の方から見て頭を左に、足を右をして、髪の長めの女性がうつぶせに倒れている。顔は向こうの方へ向いていて解らないが、体つきからみてそんなに歳をとっている訳でもなさそうだ。その女性が僕が光を当てた事にすら全くの無反応だったことで僕の心は更にパニックになり、その場に持っていたバスケットを放り出して全力疾走で駆け寄った。傍に言ってしゃがみこんで最初は弱く、反応が無いと解ると強く揺らした。
くそ、僕じゃなければこんなに悩むことなんてないのに!! どうしたら、ケータイ持っていても、電話が使えなければ何の意味も無いじゃないか! おばあちゃんにメールして救急車を呼ぶしか――
そう思い立ち僕はすぐにケータイを開いて文字を打とうとした。そしてちょうどその時、その女性が唸り声を上げて頭を僕の方へと向けた。
――綺麗、だ。
場違いにも僕はそんな感想を抱き、一瞬我を忘れる。
小さな顔。つり気味だけど大きな瞳。高くはないけど歪みなくスッと通った鼻梁。少し薄めの唇。そして短めの眉がまるで昔のお姫様みたいな印象を与えている。
苦しげに顔をしかめながら、しかし時折解るその整った顔立ちに、状況を忘れて僕は見とれてしまっていた。
「ううん……」と彼女は再び苦しそうに声を上げた。
ハッとして意識を呼び戻すと、僕は大丈夫!?という意思を込めて、再び強く揺すった。速く、速くメールを送らなきゃ!
僕が再びケータイ画面に目を落とした時―
「――……腹減っ、て……もう、だめ……し、死ぬわ……」
僕は彼女を見た。
手に持ったケータイ画面が、光点の少ないこの場所で、やたらと場違いな明るい液晶を光らせている。
『おばあちゃん!!! 今すぐ奈々津荷山に救急車をよんで! 場所は――』で止まっているその画面が、やけに空しく、光り輝いていたのだった。
僕はとりあえず彼女の命に別状は無い事に安堵して、ケータイをしまってもう一度強く揺さぶってみる。「んうゥ……」と何だか色っぽい声だなあと思いながら揺さぶってみると、微かに身じろぎしうっすらと目を開ける。
そのまま彼女は僕の方へと目を向け、最初の一言を告げた。
「身体が欲しいならよそを当たりなさいこの短小野郎とっとと失せろ」
僕は人間同士の付き合い方が上手いとは決して言えない。
むしろ苦手だと自分では思っているくらいだ。
それでも、初対面で、身体目的で、そのええと僕のを勝手に短い、と言われるような経験は、十六年間生きて来て流石に無かった。
善意がここまで報われない事も初めてだった。
ちなみに今の彼女の状況を見て、身体が目的の人間はよほど神経が図太いか、 かなりおかしい人間じゃないかなあと思ったけれど、何だか彼女に伝えてもすべてが逆効果な気がしたので、そっと心の中だけで呟くだけにしておいた。
でも確かに、彼女の顔色があまり良くない事も事実。
僕はこの場所に入ったあたりで投げ捨ててしまったバスケットの所までライトで照らして戻ると、バスケットの中身を見てサンドイッチが無事な事を確認する。
そして、また彼女の所に走っていって、持ってきていた小さ目の保温ビンと一緒に彼女の前にまた屈んだ。
薄眼を開けていた彼女はその匂いにぴくんッと身体を跳ねさせて、僕の顔など全く見もせず、そのバスケットの中を(見えてはいないだろうけど)、凝視していた。
僕が、おそるおそるバスケットの金属の留め具を外してサンドイッチを見せると、彼女はガバッと跳ね起きて僕にいやバスケットに覆い被さる様にしてその中身、サンドイッチを奪い取る。三角形では無く普通に真中で二つに切ったそれらが、茶色のバスケットの中でいつもより多い量のためぎゅうぎゅうと詰め込まれている。彼女はラップされたそれを大根か何かの様に二つ、アフレコで『よいしょおッ』と掛け声をつけたくなるような振りで引き抜き、べりいッとラップを剥がすとばくりと三分の二くらいを綺麗な桜色をした小さ目の口を、豪快に開けつつ噛みつく。
唖然としながらそれを只見ている僕の前で、彼女はその口に入った物を十回ほど噛んだだけで喉の奥へとごくんと押し込み、三分の一残った物をぽいと口に放り込み、それももっぐもっぐと噛んで飲み込む。二つ目をびりびり破いて口に入れた所で、ああ絶対こうなるなとの予感がしたので、前もって保冷ビンから麦茶を容器に入れておく。
予想通り、胸をどんどんと拳で叩いて青くなった彼女が、もう一方の手を地面の草に置いて蹲るのを見てさりげなくそれを鼻先に持っていく。奪い取る様にしてそれを一気に飲み干し、詰まっていたパンとチーズとレタスとハンバーグを胃にへと押し込んでいく。
その手に持った容器を僕の前に置き、再び僕の眼の前にあるバスケットから三つ目が消えて、同じように三分の二が一口で消え、三分の一が二口で消え、その間に僕が淹れておいた麦茶の容器で流し込み、これを二回繰り返した。
バスケットの中には何にも無くなった空の底と、剥がされ捨てられたサランラップの死骸が横たわっている。僕は今まさに最後のハンバーグサンドイッチを咀嚼し終わらんとする彼女に、どう言葉を伝えればいいかを悩んでいた。
嘘だ。
実際は、ものすごい速度で無くなっていったその五つのサンドイッチが、この細めに見えるこの身体に一体どのようにして収まったのかを観察しているのが楽しくなってきたのと、その険しい顔がだんだんと、大好きなおもちゃで遊ぶ子供のようにあどけなく幸せそうな顔になっていったのがなんだか作った者として幸せな気持ちになっていき、つい何も考えずにずっと見つめてしまっていた。
そして彼女の喉がごくりと上下し、最後のサンドイッチは彼女の胃に沈み、そして消えていった。その時、初めて彼女は僕の方を見た。口の周りに一杯パンかすとハンバーグソースを付けながら。
「あんた誰?」
あれだけ食べておいて作った人に「あんた誰」と聞くのにはびっくりしたが、そのきょとんとした顔に何故か怒る気にはなれず、僕は曖昧な笑みを浮かべて困るだけだった。そもそも、今の僕にはすぐに返事など出来ないのだから。
その無言ぶりに耐えられなくなったのか、彼女は次第に苛立ち、焦り始めていき、そこに不気味さも付け加えていった様だった。
無理も無い。今は明かりなど真上に少し雲に隠れている月くらいだし、そもそも彼女は見も知らぬ他人から何の確認もせずに持っていたものを全部食べてしまったのだ。
何か入っていたなどとは流石に考えはしないだろうが、それでも不安になるのには充分な材料ではある。
僕はそんな彼女を安心させようと、ちょっと急いでケータイを取り出してメール画面を出して文字を打つ。
でもそれが良くなかった。
いきなり会話もせずメールを打ち始めた人間に、只でさえ不信感を持った人間がどうなるのか、僕は、そこまで考えが及ばなかった。
すうっと息を吸い込んだかと思うと、彼女はその肺活量の限界に挑むかのように最大級の言葉の奔流を吐き出し始める。
「ちょっと! あんた私の話聴いてんの!? ちゃんとこっち向きなさいよ人が話しかけてんのにメール打ってんじゃないわよこのド腐れ男! 川に流して捨てるわよ逆桃太郎にされたいのアンタ!? 人と話をする時は人の眼を見てしなさいって習わなかった!? 習わなかったんなら今私が教えてあげるからこっち向きなさいよね大体人が話しかけてんのに会話もしようともしないってどういう料簡よ! 人としての最低限のマナーってもんがあるでしょうそれを無視してまでこっちの気を逆立てようってんなら相手になるわよそんでこのサンドイッチは何なのよ美ん味いじゃないのよどうもありがとう!!」
僕は目を大きく見開いて彼女を見る。色々言いたいことは言っていた気がするけれど、ちゃんと最後にはお礼を言ってくるあたり何だかいい人かもという気もしてくる。何よりその物凄い言葉達の速度に圧倒されていて、よく噛まずに喋れるなあ、そんなに喋れて羨ましいなあとすら考えていた。
僕のその驚きの顔が更に彼女を不安にさせたのかもしれない。
彼女はだんだんとその顔が怯えに変わっていったのを見て、慌ててメール画面に文字を打ち込む。
僕の方からじりじりとお尻から草を押しつぶして得体の知らない僕から遠ざかろうとする。本当に危ない奴と二人きりになってしまったと後悔しているのが、細々とした月明かりの元でもありありと解った。
それでも彼女は勇敢にも僕に対して罵声を浴びせ続ける。
「だ、だいたい、ねえ、人には声帯ってもんがあるでしょうよ、それを使わずに非言語コミュニケーションだけで人生渡っていけると思ってんの? 私はね、そうやってケータイ使いながら相手の話とか適当に聞く奴とかってのが一番嫌いなのよ、今流行のケータイ依存ってやつなのアンタ、人とまともに喋る事も出来ないの?悔しかったらなんか言ってみなさいよ、こ、こ、この、臆病者……」
こんな誤解されたまま逃げられてしまうのはとても切ない、悲しい、というか悔しい。それに僕には今の言葉がとても重くのしかかってきていた。例えそう思われても仕方がないとしても、好きでメールをこんな時にカチカチ打っているわけでは無い事を証明したかった。――よし終わった。
僕はとりあえず、この暗い中でライトを除けば唯一の光源であるケータイのメール画面の文面を、今では心底怯えてすぐにでも逃げ出そうとしている彼女に向かって、差し出す。
『ごめんね。無視してたわけじゃないんだ。ただ、君に伝えるためには、こうやるしか今は方法が無くってさ。身体は大丈夫?さっき食べたヤツには変なものとかは入ってないから安心してくれていいよ。美味しく食べてもらったみたいで良かったし。』
彼女は少しその文面を見て、怪訝そうな顔をした後、すとんと、自分が何を言っていたのかを思い出してしまったらしい。
一瞬で青ざめてしまったその顔は、自分がとてつもない失敗をしてしまった時にしてしまう顔で、もう取り返しのつかない事なのも動揺と衝撃と共に同時に感じている様だった。
「あ、あんたまさか、口が……言葉が、喋れないの………?」
僕はその時どんな顔をしていたのか解らない。苦笑いだったのか、愛想笑いだったのか、はたまた苦虫を噛み潰した様な渋い顔だったのか。
でも、その顔がいいとは決して取られないような顔をしていたのは事実の様だ。
見る見るうちに、彼女のその膨らんだ風船に似た尊大な態度がしぼんでいき、身体も前傾になって、下手な体育座りみたいになりながら、小刻みに震えはじめる。
「ご、ごめんなさい、わ、わた何てこと言って、て、わたし、さいてい、さいて、さいてい、だ…、ホント、ゴメン、ゴメン、ゴメンなさい……」
この子はいい娘だなあと場違いにもそう思った。
口で罵倒を流れるように吐きだすくせに、悪いと思えばちゃんとこうやって心から反省してくれる。
確かに言われた事に何も感じなかったと言えば嘘になる。
でも、こうして自分の言葉を自分で悪いと思ってくれたのが分かって、謝ってくれるこの娘はいい人だな、とも思ってしまう。
でもここで更に『気にしないで』とでもメールで打ったら、この娘はもっと傷ついてしまうだろう。
僕はまたメール画面を、泣いているらしい彼女に向かって差し出した。
『ねえ、ここで何してるの? いい場所だよね、ここ。君、来るのは初めて?』
そう書かれたメール画面を体育座りで膝の間に埋めていた顔を上げて見た。目は真っ赤になってまるで兎のようだったが、ちゃんとそのメールの文面を見て、素直に話始める。
「えと……、うん。ちょっとイライラする事多くって……、家にいんのもどっかのファミレス入んのも、っていうより人とあんまり会いたくなくってさ……一人でゆっくりしたかったんだけど、良い所が思いつかなくて……。そしたらたまたま山の上に広場があったと思って疲れそうだけど登ってみっかって行ったのよ。……そしたらその男と女が端っこの木の所で、その……ヤッてるじゃない、アオ、アオカン? って言うんだっけ。そしたら居れるわけないじゃない。だから、しかたなく道降りて行ったら、何だかうっすらと明るい月明かりが道みたいに伸びてて、階段の脇の方にある目立たない獣道みたいなのがあるのが分かったの。その月明かりがちょうどよく照らしてくれてたから、ちょっと怖かったけど行ってみようと思ったのよ。そしたら、‟これ〟でしょ?」
そう言って、彼女は上を見上げながらため息をつく。
今日も変わらずに空には美しい星が輝いている。
彼女は何故か眩しそうな眼をしながら空を見ていた。だけど僕にはその気持ちが、よく解った。
「そんでね、ここは最高だわって思っちゃって、ごろんてここに寝っ転がりながらずっと空を見てたの。気持ち良くて、嫌なこと全部忘れちゃうくらいに良い気分になれたから……でも気付いたの。昼から何も食べてないって事に……気付けば腹が減りすぎて立てなくなっちゃってさ。……どうしようかと思ってた所にちょうどよくアンタが来てくれたって訳なのよ。美味しかったし、本当に助かったわ。ありがとう、おかげで餓死せず明日の朝日が拝めるわ」
僕に視線を戻しながら、彼女はそう言って笑った。
僕は照れながらも、星空と微かに浮かぶその微かな月の光の中で、穏やかに微笑む彼女のその顔から、目が離せなくなってしまっていた。
この世の物とは思えないような。
とても幻想的で、蠱惑的で、それでいて惹きつけられるような魅力的な顔。
正に天から来たのではないか、と思える程に、彼女は綺麗だった。
その姿は背景と相まって、彼女の整った顔立ちに神秘的な雰囲気すらかもし出させている。
「ここはいい所ね、本当に、……でも先客がいたみたい。残念」
そう言って、寂しそうに立ち上がる彼女。僕はついその姿を見た時に、その顔がまた泣き出しそうになっている事に気付く。
「サンドイッチ、ほんとに美味しかった。なんかあれね、誰かのきちんと作ったものを食べるっていいもんね。久しぶりに実感した。あんなデカいの五個も持ってくるなんて随分と大食漢だとは思うけど。細い割に喰うのね。でも食いすぎには注意した方がいいわよ、将来は解んないんだからさ」
そう言って、ゆっくりと、僕の脇を通り過ぎようとする。そうゆっくりと、名残惜しそうに時折空を見上げながら。
無意識に、僕は手首を掴んだ。
一瞬、彼女は不思議そうに僕が掴んだ左手首を見ていたが、何の様かと僕の手を振り払わずに待っていてくれた。慌てて僕は片手でメールを打つ。ああもどかしい。くそ、間違えた、……よし、出来た。
今度は怖がらず、そのまま彼女は僕が打ち終わるのを待っていてくれる。そして書き終った文面を、静かにそっと、彼女に差出した。
『せっかくのこんな空なんだから、もう少し一緒に見て行かない? 僕も長い事ここに居ると、一人で退屈するんだ。僕は話せないけど聴くことは出来るんだよ。難聴では無いからね、その点は安心して。あ、でももし嫌なら、全然構わないんだけど……』
顔が真っ赤になったのがこんな夜で良かったと思った。こんな顔を昼間見られたら、絶対誤解される。いや、誤解では無いかもしれないんだけど。
彼女は、じっと文面と僕の顔を交互に見比べる。何か品定めされている鮮魚の気持ちが少し解ったかもしれない。キツかった。今度スーパーに行くときはちゃんと真摯に、活きのいいものだけじゃなくてちょっと不細工なのも選んであげよう。食べる事を考えると少し違う気もするけど。……何考えてんだろう僕。
しばらく彼女は僕の顔をさっきよりじいいい~っと見つめてきて、いきなり、はあっ、とため息なのか笑いなのか解らない息を吐いた。言う。
「ナンパにもなってないけど、まあいいわ。一応合格にしておいてあげる。そんじゃ、麦茶もう一杯ちょうだい。話まくったら喉渇いてきたわ」
僕の真ん前にあぐらをかいて座る彼女。ニカリと笑ったその顔にはさっきのような色っぽさは無かったけれど、とても見る人をスッキリさせるような良い顔だった。
言われた通り、フタ兼容器のカップにもう一度冷たい麦茶を注いで渡す。彼女はごっごっごっと喉を鳴らして美味しそうに飲み込む。ぷふあァーっと言って空に向かって言う。
「この一杯のために生きてるゥッ!!」
ビール飲んでも焼酎飲んでもカルピス飲んでもサイダー飲んでもコーラを飲んでも同じことを言いそうだよなあこの人と思わず苦笑する。そんな僕を見て面白くなさそうに「何よ」と唇をとがらせて彼女が言った。
「何飲んでも同じ事言いそうとか思ったんじゃないの」
エスパーっているんだなあと僕はまた感心した。
「そういえば」
もう一回注いであげた麦茶を受けとりながら、彼女は言った。
「アンタ、名前なんていうのよ?」
小首をかしげる彼女に、素直に可愛いと思ってしまう。
僕はカチカチとケータイを打って、見せる。
『――帽子谷夏彦、って言うんだ。文字だと漢字も一緒に見せられるから、こういう時には便利だよね』
彼女はしげしげとそれを眺め、「ポジティブシンキングなのはいい事よ」と嫌味でも何でも無く、おそらく本心からそう言った。聞き取り方によれば皮肉にも捉えられる言葉なのに、彼女がいうと純粋に褒めたと思える。こういう所もいいなあと僕はまた感心する。
「帽子谷、ね……珍しい名字ね、よく言われない?」
僕は肯定のサインとしてコクコクと頷く。
よく言われるどころか毎回言われたりする。日本中に探してもいるかいないかだと僕も思っているくらいだから、まあ当然と言えば当然かもしれない。
僕はメールを打つ必要も無いので、手のひらを上にして、彼女を指した。「君は?」の意味である。もちろん伝わって、「ああ私?」と自分を人差し指で指す。コクコクと頷く僕。
「天河。天空の天に河童の河。名前は読む詩の詩に好きっていう字に子供の子で詩好子。――天河詩好子よ」
『よろしく、天河さん』メールを見せて僕は笑った。
手をひらひら振って、「詩好子でいいわよ別に」と苦笑いする。
『じゃあ詩好子さん。よろしくね。』
「ええ、よろしくね。夏彦」
にこりと笑って彼女も僕を下の名前で呼んでくれる。
「ところで夏彦、あんた何でこんな所に来てんのよ? 天体観測?」
『ただの星好きだよ。知識も何にもない、只の星好き』
「ふうん。変なやつね」
『君も人の事は言えないと思うけど……』
見せたら、凄い顔で睨まれてしまった。
こうして僕たちはここで出会った。
それから夜になると、僕たちはここで会って話をした。
趣味はいいもの。
一つのきれいな花が咲いたとなれば、尚更。
★
僕が喋れなくなったのは十歳の時だ。
でも僕は、その瞬間の事を、よく覚えてはいない。
と、いうのもベットで唸っていた時になったと思われるので、気が付けばなっていた、というしかないからである。
十歳といえば、子供が少しずつ大人への仲間入りをはたしていくときでもある。
僕は、当時の自分のことを、少しませた勘違い馬鹿だったと今では思っている。
父さんと母さんの嘘も何となく解るようになって、欲しく無くても「親が喜ぶから」という理由で好みでは無い服を喜んでもらうとか、そういった、自分ではよく気の付く子供だと勘違いしている、今になって思うと顔から火がでそうな程恥ずかしい子供だった。
父さんと母さんが、僕は大好きだった。
大人の事情というものがあったとしてもそれは仕方のない事だと思っていたし、「良い子」でいる事に窮屈感を覚えながらもちゃんと愛情は貰っていたと思うし。
教育ママとパパといった感が無くも無い家庭では、よくある事じゃないかと思うし、僕自身もそう思っていたから稽古事を習わされたり、好きでもない事をさせられたり、テストで少しでも駄目な点を取ると凄く怒鳴られたりするような事も、とりあえず適当に上手く流していくという事を覚えたのも、子供の頃の自分なりの処世術いや生きて行く上での必死の知恵だったのだと今は思う。
そんな僕は父さんと母さんにますます良い子だという印象を与え、僕は家庭の中で自分の位置づけというものを自然に理解した。
人が何を求めているかを察知する。それが僕の子供時代の特徴。
僕にとってそれが幸せかどうかは関係ない。
人から見たらとても疲れた子供でもあったのだろうし、事実僕は無意識のうちに疲れを溜めていたのだろう。
学校では「良い子」でいる事への苛立ちから、よく喧嘩をするようになった。
身体同士の殴り合いなどというある意味健康的なもので無く、言葉で相手を挑発して、口ゲンカして相手を叩きのめすというような、いわゆる『凄く嫌な奴』である。
あの頃に戻って僕が一言言えるとしたら、「何もいいことないからそろそろ良い子止めなよ」だろう。
最低な自分を受け入れるのは難しい。
それに僕は当時何をそんなにイライラしていたのすら解らなかったのだから、ますますそのあやふやさにイライラしてまた喧嘩をふっかけていくという、正に悪循環。
僕の周りに友達なんてものはいやしなかった。居るわけが無かった。いじめは無かった。いじめすら無かったと言った方が正解かもしれなかった。
僕をあの時のまま放っておいたら、どんな人間になっていたかと思う時がある。
考えたくも無い事だと思って意識を思考を停止させる。
結果は解りきってるくらい簡単なことだったから。
僕に転機が訪れたのはちょうどその頃の事だった。
両親が死んだ。
交通事故であっけなく。
何の言葉も僕に残さず、二人で仲良く、あっという間に、僕の傍から消え去って行った。
とても雨の強い日だった。
僕はその時風邪をひいていて、ベットで横になりながら頭に冷えピタを張って、ごほごほ言いながら学校を休めた事を実は喜んでいた。僕には誰も、話しかけてはくれなくなっていたから。
身体がだるく、何をする気も起きなかったけど、電話が喧しくぷるる、ぷるるると騒ぎ出したので仕方なく痛む節々に耐えながら玄関の前まで行って、受話器を取る。
『帽子谷夏樹さんのお宅でしょうか?』
と低い声で喋りはじめたその声に、僕は両親ならいません、伝言なら伝えておきますがどのようなご用件でしょうかと、完璧な受け答えで返す。そこがまた生意気で嫌な子供だったなと思う。変に頭の回転がいい所が特に。
その時、受話器の向こうで一瞬、そうとても重い感情を抑え込むようにして相手の方が言いよどんだ事を、僕は一生忘れない。そこにどんな葛藤があったのか 僕は知る由も無い。
でも、彼ははっきりとした口調で、僕に告げた。
『帽子谷夏彦君、だね』
「……はい」
『君のお父さん、お母さん、帽子谷夏樹さんと秋子さんが乗った車が先程、雨でスリップした対向車が進路上で曲がり激突してね』
「……――は、い…………?」
『ご両親ともすぐに救急車に運ばれたんだが……その場で、死亡が確認された』
「何をおっしゃってるのか、よく解らないのですが……」
『ご両親が……亡くなったんだ、夏彦君』
「……………は、あ?」
「――もうすぐ署の人間が君を迎えにいく、悪いが準備をしておいてくれるかな。辛いと思うが大丈夫、私たちがついている、心配しなくていい、私の名前は――」
――ごとん。と。
僕はその場で倒れ、意識を失った。
頭から鈍い音が聞こえたと思ったけど、そんな事は一瞬で消え、僕は暗い闇の中に溶けて行く。僕の意識は、どんどんずぶずぶと、どろりとした沼の底に沈んでいく。
熱でうなされたのか何なのか、僕には解らなかったが、何かの羽音がした。それはだんだんと遠ざかったようにも、近づいたようにも思えた。
それが何だったのかは、今でもよく解らない。
それからの事を、僕はよく覚えていない。
元からひいていた風邪が更にこじれて、僕の身体は三日ほど高熱にさらされ続けた。
治った時、僕は病室のベットに寝かされていた。
何かの薬剤の匂いと左腕に刺さった針から点滴の雫がぽたり、ぽたりと落ちて来ていて、他に患者さんの姿が見えない事からどうやら個室にいるようであることは解った。
まだ身体がだるかったがどうして僕がここにいるのか、どうしてこんなことになっているのかの頭のもやが晴れて行くと同時に、より鮮明となって事実として蘇ってくる。
僕は頭が爆発しそうになりながら、もう何も考えずに行動していた。
刺さった針を引き抜き、ピンク色の患者服をはためかせながらドアを開けて飛び出す。
ふらつきながらも懸命に走り、目についた、こちらに向かっている女の看護師さんを捕まえて、叫んだ。「僕の父さんと母さんはどうなったんですか! 死んだって本当なんですか!」、と。
きょとんとされた。
ただ黙って、不思議そうに僕を見つめただけだった。
僕の声は、誰かが吸い取ってしまったように、出てこなかった。
声を出そうとしてもぱくぱくと声帯で何の変換もされずに、ただ音がひゅー、ひゅーと鳴るだけ。
僕が金魚の様に口を開け閉めしている事に、最初は不思議がっているように見えたその看護師さんも次第に僕のその異変に気付いたのか、まだ背の低かった僕と目線を合わせるように急いでしゃがみ、僕の眼を見て肩に手を置きて焦ったように僕に尋ねてくる。
「君、どうしたの!? 声が出ないの、大丈夫!?」
僕はその焦ったような声を聴いてしまって、ますます自分に何が起きてしまったのか解らずパニックになってしまう。
出ない、出ない、声が出ない!
何で、どうして、僕の身体に何が起こってるの?
解らない、怖い、怖い、怖い、怖い!!誰か!
誰か、助けて!
しまいには僕は我を忘れて泣き出してしまった。
でも、それでも大声で泣きわめいたつもりなのに、声は一向に僕の口からは出て来てくれない。たださっきよりも強くしゅー、しゅー、と音が漏れ出てくるだけ。
看護師さんは急いで携帯で僕の主治医らしい先生を調べて、連絡してくれる。
飛んできた先生に僕は涙で一杯になった瞳を向けながらも、あのいつものような相手を傷つけ痛めつける流れるような言葉は出て来なかった。
ただ、空気を欲する魚の様に、腹話術師が居なくなってしまった腹話術の人形のように、ただ勝手に口だけが動いて、音が出ない。
僕は言葉を失った時を、よく覚えてない。
消しゴムで消された鉛筆の絵の様に、目が覚めたらいつの間にか消えていた。
失った絶望だけが、僕に油性のペンで書いた落書きの様に、残っていた。
先生は脳に異常があるわけでは無いので、おそらく熱と疲労に両親の死というショックが重なり、言葉を発する事に障害が出来てしまったようだと言った。
理由はどうでもよかった。
ただ、僕はこれからずっと喋れないのだ、という事が、僕の両肩に大きくのしかかった。
食事も睡眠もろくに取らず、僕は目に見えて痩せていき、両親の葬儀も出ず、僕はただ病室でぼうっと外を見る事が多くなった。
そんな日々が一週間ほど続いたある時、僕は眠れずに病室のベットからぼんやりと空を見た。その時、僕はその空に、
――眼が、離れなかった。
空はまるで一枚の絵画のようで。
星々がきらめき、煌々とその姿を僕の視界に焼き付けている。
二つの大きな星が特にきらめきながら輝き、光の帯がそれを更に引き立たせる。
七月七日の天の川だった。
その時いた病院と、病室が少し標高の高い所にあったせいか少し淡く弱かったものの、天の河はしっかりと見え、僕はそんな光景にただ震えていた。
気付けば、涙がこぼれていた。
僕は手を合わせて頭を下げていた。
声が、どうか僕の声が。
また、僕の声が戻ってきますように。返ってきますように。
そう祈って僕は眠った。
まだ、その願いは聞き届けられてない。
でも僕の人生が本当に変わったのは、きっとあの時からだ。
そのことは、胸を張って言える事だと、僕は思っている。
おばあちゃんが来たのは、それから三日後のことだった。
父さんとあまり仲が良くなかったらしく、僕は小さい頃に何度か会った事があるだけで殆ど覚えて無かったけど、すぐにその新しいおばあちゃんが好きになった。
僕が声を出せないと知ってからも、「人は色々な事が出来なくても、ちゃんと色々な事が出来るから人なんだよ。だから気にする事なんて全然ないさ。出来る事を大事にして、その出来る事で、人の役に立てばいいんだ夏彦。そしてそういう事を気にする男の子になっちゃいけない。そしてお前みたいな人を馬鹿にするような人間にだけはなっちゃいけない。そのまんまで生きな夏彦。お前はまだたくさんの事が出来るんだからね」
そう言って、僕を優しく抱きしめてくれた。
その時初めて、僕は人に抱きしめられるというのは、温かい事なんだという事を知った。
おばあちゃんは不思議な人だった。
鋭いと思った所があったと思ったらいつも些細な事でポカをし、結局失敗するという事がよくあった。そしてそういう時にも、「人は失敗する事から学ぶんだからいろいろ失敗していいんだよ、お前も気にせずどんどん失敗してきな」と笑って言ったりして、今までずっと父さんと母さんから失敗したら怒られていた僕にとっては、衝撃的な事だった。おばあちゃんはそれまでの僕を根本から覆していく、まさにヒーローだった。
その日、食卓には真っ黒になった焼き鮭が乗った。
焦げに発がん性物質があると聞いたのは、ずっと後の事だった。
☆
学校という所は、基本勉学を学ぶところであることは、疑い様の無い事実だと思う。
そして学校という所は、基本的に学生が行く場所であり、僕も例外にもれず学校に通い、学校で勉強し、学校で昼食を食べ、学校でトイレに行く。全ての生活の実践の場は僕達学生にとって学校であり、学生にとって学校はいわゆる一つの社会。村と考えてもいいんじゃないかなあと僕は思う。
学校とは学ぶ場である。だが、遊ぶところでもある。
今、僕の眼の前では喧騒と雑談に花が咲き、もうすぐ始まる下校時間に皆のテンションが否応なしに上がっているのを見る。僕は窓際の席で肘をつきながら、ぼけえっと外を見ていた。ああ、人生はかくも儚いものなのか。こうやっている間でも僕は成長し続け、そして年老いて行くのだろう。成長する事には異論はないけれど、今それを実行してしまうのは真っ暗な世界で一人ぼっちになり、見回りの用務員さんに肩を叩かれ苦笑いされながら街灯の元で一人寂しく帰り、想像を絶する恐怖を味わい、そして適当に相槌を打って流すおばあちゃんの作ったカレーライスを食べるのだ。
要するに眠い。溶けてしまいそうな程に、眠い。
今の気温と温かさは反則である事が僕には一番の苦痛である。皆も酷い。起こしてくれればいいのに。気を利かせて揺さぶってくれるくらいでいいのに。
そんな事を思いながらうつらうつら船を漕ぎ始めてしまった僕の方へ、夕日は優しく照らしてくれる。放課後前のホームルームまでの短い時間。皆はこれから訪れる学校社会からの解放と高校生という有り余ったエネルギーを消費する生産的な活動のため、つまりは部活動というものへの準備と期待を込めて同じ部活の仲間と「今日の練習はキツくなりそうだ」とかいう話をしている。
僕にも部活はあるのでこんな風に寝てしまっていたら、それこそ遅れてしまうし部長や部員に迷惑が―掛からないのというのがちょっと無い事からも適当な部活だという事がいえるけれど、それども部活は部活だ。
僕の中の真面目な部分がきちんとしなさいきちんと!(おばあちゃんに似た声なのは謎だったけれど)と言っているので、何とか船頭が僕を乗せた船をぎいこぎいこと睡魔の国へと連れ去ることに必死で抵抗していた。そこでいつも会う詩好子さんに似た人からいつも速く戻りな夏彦。アンタもいつもいつも言わせるんじゃないよ、夢の世界でもぼんやりしてるんだから、しゃきっとしなしゃきっと! と文句を言われる。ごめんなさい。僕の妄想の中のおばあちゃん。いつも世話役ごくろうさまです。
船はいつも通り引き返し、僕は現実の世界に引き戻される。ちょうど僕が眼をさました時に、右肩を控えめにとんとんと指先で叩かれる。
僕はその主を探すため、首をねじって後ろに向け、その人を見た。そして学校で欠かせないA4ノートを横に二つくっつけたくらいのホワイトボードにペンでキュッキュッと文字を書き、相手に見せる。
『おはよう、木洩日さん。眠い時には寝た方が成長が促進されるっていうけど、僕はまだ部活に行くという使命があるから寝てないよ? 寝てないったら寝てないんだからねッ』
「何でツンデレ風なのかは訊かないけど……もうホームルーム始まるよ? そろそろ起こさないとまた君放課後どころか深夜の学校に一人で取り残される事になるんだから。用務員さんが『ヤツは大物になる』って逆に感心したくらいの人物なんだからさ君は」
両手を腰に当てて、木洩日さん、木洩日詩織さんは僕を見下ろしながら言ってきた。
僕は悔しくなってその事実を噛み締めた。用務員さんが用務員室でおごってくれた鮭お握りは美味しかったけど、そういう問題ではない。
『そもそも、皆が今の木洩日さんみたいに僕を軽く揺さぶってくれたら良かったんだよ。そうしたら僕は帰り道に知らない女の人にずっと追いかけられて逆痴漢されそうになる事も無かったのに』キュッキュッと文字を走らせて見せると、木洩れ日さんのショートカットの綺麗な直毛がサラサラ流れて動く。女性の髪の毛というものは男とは全然違うものなんだなあと僕が思っていると、木洩日さんはやれやれといった風に首を振り、また更にサラサラと音がするかのように髪も揺れた。
「君は人畜無害を地で行っている人間だからね…その人にとっては正に渡りに船だったんだろうね……襲いやすいという意味で」
『洒落にすらならないよ! 第一僕声が出せないんだからなおさら僕の貞操は滅亡の危機だったよ!女の人が男の視線だけで嫌な理由がよくわかったよ!』
「そうだね、君はそれを学習したんだ……成果はあったんじゃないか」
『一生望みたくない成果だよ!』
僕は慣れたものでより素早くホワイトボードに文字を書いていく。
木洩日さんは苦笑をして、
「まあ起こさなかったのは悪いと思ってるよ。でもその寝顔がまるで天使みたいな喜びと慈愛に満ちた顔だったから、起こすのも忍びなくなっちゃってね、何だか見入っちゃ……じゃないその顔をそのままにしておきたい……でもなくって起こすのがかわいそうになったんだよ。他の皆もそうだったみたいで、皆君を見てから教室を出るときすこし幸せそうな顔をしていたよ。流石〝奈々津荷校の聖職者〟だね。ああ、ちなみに私の待ち受けはそのときの君の寝顔――わッ、わッ、そんな顔真っ赤にして奪い取ろうとしないでくれよ!ケータイ壊れる!」
『壊してやるそんなケータイ!』
片手で薄いグリーンの木洩日さんのケータイを狙い、よくもない運動神経を総動員して腕を振るいつつ右手で文字を書いて見せるという、ちょっと凄いかもしれない芸当をしながら僕が抗議していると、がらがらと教室のドアが開いて担任の柏原先生が入ってきた。僕達はそこで争うのを止め、皆も騒がしい教室から一転、徐々に授業中のような静寂の世界に戻って行く。……まあこの五分後にはさっきよりも大きな騒音が起こる訳だけど……。
柏原先生はちょっと僕達の前、黒板の教壇の前に立ちながら、少し低めなその身長で少女のような綺麗なソプラノで話始める。
「えー、今日は、特に連絡事項等はありませんがー、皆さん気をつけて帰って下さいねー、今は男性も遅い帰宅の際は気をつけないと駄目ですよー、先日、そういった趣味の人に追いかけられた子も居ますのでー」
教室中からくすくすくすくすと笑い声が漏れるのを、僕は真っ赤になった顔を隠し、机に突っ伏して見せないようにする事で耐えていた。この先生酷いと真剣に思った。もう公開凌辱に近いような気もした。でも、僕はこの先生だって悪気があるわけじゃないんだし許してあげなよと自分に言い聞かせた。無駄に終わりそうだったけど。天然は時に正義であり、悪魔である。
後ろを見れば、二つ後ろの席で木洩日さんが僕と同じように机に突っ伏していた。
肩を震わせながら。
子供の頃から何かと世話とか面倒とか、声が出せない僕をずっと支えてくれた木洩日さんではあるけれど、その姿に僕は自分の両手が震えるのを隠すことが出来なかった。
怖かったんだからね本当に! 自分の股間を触られた時の気持ち悪さと言ったら、僕はもう全身に虫がはい回ったくらいに気持ち悪かったんだからね! 君は警官の娘だから強くて心配ないかもしれないけど、僕は貧弱を絵にかいたような人間なんだよ! 抵抗なんてカバンを振り回してぶつけることくらいしか出来ないんだよ!!
恨みを込めて木洩日さんを見る。まだ肩を震わせている。僕もまだ肩を震わせている。
木洩日さんは僕がお世話になった警察官の木洩日大志さんの一人娘である。
僕が初めて会ったのは、僕がまだ経過を見るために入院していた頃。
おばあちゃんに出会った時と大体同じぐらいだった。
前々から弟が欲しいと言っていた彼女は僕が色々と口がきけなくなったことで起きた不都合や難点などをきちんと丁寧に教えたり諭したりしてくれ、僕を精神的な面で救ってくれたと言っても過言では無い。ただおばあちゃんとはあまり会いたがらなくて、おばあちゃんも木洩日さんには最初から積極的に会おうとはしなかった。木洩日さんはおばあちゃんの事を嫌っているわけではなさそうだけど、少し距離を置いているように見えた。
――訳を訊くと、「ジュースを思いっきり頭にこぼされた」と言っていた。おばあちゃん……
そして、僕と同じ中学だけでは無く、高校生になってまで僕の相手をしてくれている木洩日さんには頭が上がらないのは事実だ。しかも今年で六年ずっと同じクラス。腐れ縁過ぎてお互いに苦笑を交わす毎日なのだ。
このホワイトボードも木洩日さんからのアイディアで、これなら授業で当てられても書けば相手に伝える事が出来る。会話もできるしメールよりずっと速い。
おかげで、僕の文字を書くスピードは中々速い方だと自分では思えるくらいなった。役に立っているかは微妙だけれど。
出会ってから小学生までは、僕は木洩日さんの事を下の名前で『詩織ちゃん』と書いていた。だが、中学生になってからは何となく気恥ずかしく、名字の『木洩日さん』と書くようになった。
木洩日さんは何となく寂しそうな、でもホッとしたような顔をしていた事を思いだす。
中学生は、色々何かと大変なのだ。
中学生の時には、僕はもう、他人と無暗に喧嘩をしたり、傷つけたりする事も無くなっていた。
僕を小学校の小さい頃から知っている人は、僕が誰だか顔は知っていても記憶の中の以前の僕と一致せず、よく「本当にお前あの帽子谷か?」と訊かれる事も多い。喋れなくなったという事も大きいのだろうけど、それ以上に僕が意味の無い見栄や良い子をおばあちゃんの教育(?)で消し去ってしまった事が、一番の原因なのだろう。
あれだけ鋭いくせに失敗ばかりしていて、しかも悪びれずに僕に刈りすぎた枝を更に切って無くしてしまえと言うような人と日々生活を送っていれば、自然とそうなるのも無理はない。
僕は中学生になってからはだんだんと良いとは言えないまでも、周りと不和を起こすほど人間関係をひどくするような事も無くなったし、僕がホワイトボードを持っている事も、喋れない事も、さして問題にはならなかったのは幸運だった。木洩日さんが毎回自然にフォローしてくれたり先生なども協力してくれたから。
僕は自然に笑えるようになったし、皆の最初のぎこちなさもやがて薄れ、僕はクラスの一員としていてもいいと思えるようになっていった。
僕は教室も悪くないもんなんだな、と思えるようになっていた。
そんな回想を終え、まだ肩を震わせている(いい加減長すぎると思う)木洩日さんをホームルームが終わっていたので、お礼にこの思い出のホワイトボードで思いっきり殴ってあげた。相手が木洩日さんだからできるこの行為、プライスレス。
僕は教室の外に出て校舎の窓から外を見る。夕日になりかかっている太陽と、グラウンドへと勢いよく走って行く青い野球帽を被った球児たちを見て、それから吹奏楽部の練習前の調子ハズレの音を聴く。周りには軽く茶に染めた女子高生たちが談笑しがら通りすぎ、僕を追い抜いた男子たちは何やら鉄道についての話をしていた。僕は歯噛みした。
天文部が、あればなあ。
奈々津荷高校には天文部が無い。
無くても全然不思議ではないから当たり前といえば当たり前なのだけど、こんなにいい星が見えるこの町で天文部が無いのはいかがなものか。全くこれだから部活というものは困る。……いや、誰に対して文句を言っているのかは自分でもよく解らないけども。敢えて言うなら天体望遠鏡とかを家に持っている子とか…。
そんな事を思いつつ夕日が差し込み赤色に燃えているような廊下を歩く。
しばらくして階段を降り、渡し廊下を通って古い木造のギシギシいう部活棟に入る。
色々なものが雑然と置かれている所をゆっくりと歩いた。脇には段ボールに積み込まれたマンガの資料とおぼしき背景に使われたようなプリントアウトした風景が溢れていたり何に使うのかも解らないファンシーというよりちょっと猟奇的な雰囲気を持っている笑顔のクマのぬいぐるみの頭があったり。吹奏楽部が使わなくなったと思われる金色のラッパの先っぽのようなものや鉄道模型部のゴミらしきニッパーで取られた後のパーツが付けられていたプラスチックもいくつか落ちている。
全部左手側にある部室の扉では人の気配がし、歩きながらなんとなく聴いていると写真部からは「1年C組の木洩日さんに被写体をお願いしよう! あのボーイッシュな感じで微笑まれたら僕は何枚ででも、指がつるまで撮りつづけることが出来る!!」とか不穏な事を言っていた。殴り込みに行こうかなと何故か関係の無い僕が思ってしまう。……何故だろう、幼馴染の危機だからか? よく解らない。
そんなこんなで部室の前まできてしまって、僕ははあっとため息をついた。
この学校はとりあえず全員の生徒が何処かの部室に入っていなければならない。
つまり、天文部が無い僕も、必然的に何処かの部活には入らなくてはならないのだ。
基本、少し緩めの校則の奈々津荷高校だけど、僕は決まりだから守らなくてはいけないというより好きでは無くてもどこかの部活に入った方が人間関係が潤うんじゃないかなと思ってしまったのだ。
そんな風に能天気に考えるから、皆から皮肉られて〝奈々津荷の聖職者〟なんて呼ばれてしまう。いつか絶対に返上してやるぞ。……いつになるかは解らないけども。
ドアの所に銀色のプレートが鈍く輝いている。
大体何処の部活も、自分たちの部活を示すためドアには部活名が書かれたプレートを貼っているのだが、その殆どが新しかったり、もしくはすぐ取換えられるように剥がしやすいものになっているのが普通だ。
しかし奈々津荷高では昔からある伝統的な部、例えば野球部やサッカー部、ラグビー部に茶道部など歴史の長いものにはプレートが打ちつけられていて変わる事も無く、そのドアに居続けるものが普通になっている。
この僕の前にあるドアのプレートもその一つで、目の高さより少し上の所にあるプレートは少し錆びて読みにくくなっているものの確かに打ち付けてある物。
名前を『奈々津荷歴史研究部』。
奈々津荷高でもマイナー中のマイナー。
しかし歴史だけは古くなんと創立以来からあるというから驚く意外に無い。
入っていく人間がいるだけでも不思議だけど、それよりもここに入るイコール『変人』というレッテルを張られる程に、この部は一種異様な雰囲気を持っていて、この部室棟に与えなくてもいい余計なプレッシャーを与えている。
僕はひとつため息をついて、ドアノブに手をかけた。
……ちなみに僕の他の部員はさっき僕がはり倒した木洩日さんも入っている。
僕が入ると言ったら何故か急に彼女も「面白そうだから私も入るよ」と言って、入部を決定。あっさりと僕とおなじ部活になった。
彼女はこれで中学の時から僕と同じ部活である。心配してくれてる半分幼馴染がいる気安さ半分といった所なのだろう。嬉しいような恥ずかしいような照れくさいようなちょっと困る。僕はもう16で高校1年なのだけどなあ。…受験勉強の時にも星を見に言っておばあちゃんに呆れられたような性格ではあるんだけど。
そんな木洩日さんだが今日はさっき僕が思いっきり殴った影響で頭が痛いと半泣きになっており、僕はそんな彼女を放ってきたのである。この気心が知れてる感。プライスレス。
まあ、そんなのはもちろん理由なわけが無く、ちょっと行く所があるからと言われて木洩日さんは軽く手を振りながら僕と別れたのだった。何でもようやく時が来たと言っていたので何が?と訊いたら「スーパーの創業祭」との答えが返ってきた、ご苦労様です。
僕は部室を開けて、部屋の中へと入る。少しかび臭いが不潔では無い室内。年季の入った黒に近い書棚が両脇の壁にずらりと並んでいて、その前には整理箱がいくつも置いてある、番号が振られていたり『重要捨てるな!』と油性ペンで大きく丸で囲まれながら書いてあったり、宇宙人の模型の様なものが四隅に立ててあったりする。混沌といってもいい空間である。壁には奈々津荷町の地図が張られ、所々に赤丸や青丸が付いているし、何故か『レッド・ツェッペリン』や映画『タクシードライバー』のポスターが色あせつつも張られており逆にそれが存在感を増して壁のクリーム色を覆い隠している。
その他大小様々な何に使ったのか解らないような小道具のような物が脇に固められていたり、真正面の窓がある壁にはアンティーク調の食器淹れとお茶道具、洋食器があり(無駄に高そうだよなあといつも思っている)。部屋の中心には安めの長机が四つロの字を書いてくっつけられており、その上にはお菓子類が散乱していたりする。そしてその真ん前には人がいた。
――むしゃむしゃとそのお菓子を口一杯ほお袋一杯にハムスターの様にシマリスの様に食べている人が。
「おっそいわよー、帽子谷くん。遅すぎて私の胃はそろそろ限界を迎えようとしていたわよ」
むっしゃむっしゃと口を動かしつつくちゃくちゃという音を立てないという凄いんだか凄くないんだか解らない技術を使って話す女の人。
「お菓子はね、心の栄養剤なの。でもね、栄養は取りすぎると心が幸せになりすぎて逆に現実が見えなくなるの。怖いわね。怖いわお菓子というものは、一種の麻薬ね。そうは思わない?」
思わないですアハハ。
とも言えないのが僕という人間なので、キュッキュッとホワイトボードに『特に僕は〝じゃがりこん〟を食べていると幸せになります』と書いて見せた。
「相変わらず話が解るわね帽子谷君」びりっと〝ポテイトチイップスコンソメ特大〟を開けると、ざあっと手で五枚ほど掴んで口に放り込む。解る振りをしているだけなんだけどなというため息は心でしておいた。
――『浮世ノ世輝夜』先輩。
ポニーテイルにしている少し茶色の入ったクセのある髪。目が大きくぱっちりとしていて、鼻が少し高めで高身長の、スタイルよし、強気な視線と常時人を小ばかにした笑みは好みが分かれる所だろうけど顔も綺麗でよし、といった美人さんなのだが、何というか人として駄目というか、興味がある事には物凄い知識と洞察力と勘が働くものの、それ以外、つまり自分に関係なかったり興味が無かったりすることについては全くといっていい程使えない、それが浮世ノ世先輩である。
『でも先輩、お菓子は持ち込み禁止ですよ。部室が汚れるのは他の人たちにも迷惑ですし、何より僕達が気持ちよく部屋を使っていくためにはやっぱり清潔な方がいいと思います』
文字が書けなくなったので、裏側がマグネットになっててボードについてるボード消しで書き直し、
『だから、そろそろ片付けましょう?』と見せた。
「私、部屋は汚れてた方が気持ちが落ち着くんだけどな――」
『――先輩?』
僕が書いてにっこり笑うと、先輩は憮然として机の上の空箱たちを両手でかき集め、机の隅にあるゴミ箱にどさっと捨てた。
ゴミ箱に『捨てるな危険!』との落書きがされていて、じゃあ何処に捨てればいいんだと首を傾げたい。
しかも無駄に字が綺麗だ。
書いたのは浮世ノ世先輩なので、どうでもいいスペックがあることにはもう慣れたが宝の持ち腐れではないかなあと本当に思う。
お菓子のカスだらけになった室内を、僕は壁に立てかけられているやたらと柄の長い、魔女っ娘が使うようなホウキ(先は竹ボウキでは無く普通に柔らかいので意外と使いやすい)で集めて捨てる。
先輩はこっそりと最後に残った未開封の〝カレエムーチョ〟を取り出そうとして、僕の笑顔を見て止める。先輩の将来が僕、凄く不安です。
そうやって箒を動かしていると、先輩は頬杖をついてこっちをじっと見ていた。
僕が視線を感じるとすいっと視線を外し、はあっとため息をついた。
意味が解らず僕が頭に「?」を乱舞させていると、先輩はぐてえっと机に潰れて、ぽつりと言う。
「帽子谷くん。君はこのシチュエーションに何も感じないのかい?」
コクリと頷く。え、いや何が?
僕が知るわけないんじゃないかなあと思っていると、先輩は口をとがらせ、薄く染めた茶髪を、正確には頭で結んだポニーテイルを揺らして、首を振る。
「密室で男女が二人きりって……」
『僕用事を思い出したのでかえりま』
「まーちたまえよぉー、ぼーしやくぅんー……」
書きかけの文字のままドアへとダッシュしようとした所に、先輩がブレザーの 首根っこを掴んで押しとめる。僕は構わず逃げようと前へ行って、――後ろで先輩が転んだ。
慌てて振り返り、何も考えず僕はそばへ近寄った。
怪我はないかまじまじと足や身体を見て確認する。うん大丈夫、何ともなっていない。
と思ったら覆い被さられた。
「―――――!!!!」
正に『声にならない叫び』をあげて、僕は上に乗っかって何やら嬉しそうににやにやしている先輩に、目だけで抗議した。首を振られて抗議は一瞬で却下された。ええ!?
「――……敵に情けをかけまくり。敵に塩を送りすぎ。塩分過多でそのうち私は高血圧になってしまうよ帽子谷君」
意味わからないよ何言ってんのこの人! わーん!! 離せー!!
「ま、それが君のいい所でもあるんだけどね、ねぇ、〝奈々津荷の聖職者〟さん?」
またそれかよ!
もう僕には悪い意味にしか聞こえないんだけど!!
「むう全く。私に欲情しろとまでは言わないが、共に神秘を探求するものとして少しくらいは私に興味を持て。自分では意外といいスタイルをしていると思っているんだぞ」
お菓子を食べなくなったらもっと良くなるんじゃないかなあと心で呟く。
「という訳で、私に愛の言葉を一つ書いてもらおうか。はいボード」
手渡されたボードに、僕は三秒にも満たない速度で書き終る。
『ダイエットしてください。』
「よし死ね」先輩が本気で拳を握りしめたのを見て、僕は慌てて書き直す。
『いい匂いがしました。間近に顔があってどきっとしました。身体が柔らかかったです。また今度お願いします』
半分、本気で書いた。
……こうでもしないと聞いてくれそうにないから先輩は…。
書いている内容は変態で間違いないけれど、背に腹は代えられない時もある!
予想通り先輩は満足そうに唇を一瞬舐め、離れてくれた。僕もほっとしてボードを持ったまま立ち上がる。
がちゃりとドアが開いた。
僕と同じ一年生、写楽理さんが冷たい眼のまま僕らをいや、僕のボードを見た。
静かに、「おじゃましました」、と言って出て行く。
僕ら二人はシンクロナイズトスイミング並みの一致さで彼女を追いかけた。
ここは、『奈々津荷歴史研究部』またの名を『奈々津荷神秘調査部』。
奈々津荷にまつわる伝承や伝説、そのことに関わった人物の調査研究。
何かと不思議な事が起こりやすいこの町で、古くからある歴史ある部だ。
奈々津荷の歴史を丹念に調べ上げるその熱意と姿勢は、高校生同士の発表大会などでも非常に高く評価されている。
実体がこんなものと知っても辞めなかった僕は確かに聖人かもしれなかった。