魚網鴻離(ぎょもうこうり)
俺は、告白をした。
姉貴が好きだと言うことを、初めて言葉にしたんだ。
それは、相手が目の前に居ない、聞いているのかも分かっていない、閉じられた狭い小部屋の中の話ではあったが、俺にとっては大きな出来事だった。
教室の中に設置されたベニアの小部屋は、防音性なんてない。
俺の告白は、きっと今教室の中にいる人間には全員、聞き取れたのではないだろうか。
そして、その教室内に姉貴はいる。
俺は、直接的ではないが、姉貴に好きだと言う言葉を、ついに聞かせてしまったんだ。
それは、林原の燐とした告白と、諦め切れるのか、という問いかけが背中を押したためだ。
ガチャンと、ドアが開き、『入ったら出られない部屋』のスタッフがニコニコ笑顔で、「クリアおめでとう」と告げた。
俺は、隣の林原を見た。
林原も、こちらを見る。
彼女の表情は、笑顔だった。
でも、その笑顔の裏側は俺には読み取れない。
「出よう」
俺が林原を促して、個室から出たときに、右隣の個室から男の声がした。
「僕も……、大守リカが好きだ」
「えっ」
驚いた女の声が同じ個室から聞こえてきた。
その声は、姉貴で間違いなかった。姉貴の声は、小さな息漏れだって、俺には分かる。
つまり、隣の個室に入っているのは、姉貴と、男なのだ。
俺は、思わずその個室のドアを凝視した。
林原も、驚いた表情をしていた。
その個室から、「負けました」と云う女性の声が聞こえた。姉貴とは違う声だった。ならば、個室内には男一人に、女一人、姉貴一人の計三名がいることになる。
その声を聞いたスタッフが、個室のドアを開いた。
中には、テーブル一つに椅子が二脚。テーブルにはトランプが並んであって、対面するように男性と女性が腰掛けていた。
その男性の隣に、大守リカ、すなわち俺の姉貴がたたずんでいた。
「クリア、おめでとうございます」
スタッフがそう言い、男性と姉貴を個室の外に促す。
部屋から出てきた姉貴は、俺を見つけてその場で停止した。
姉貴の後から、椅子から立ち上がり個室から出てきた男は、青いガクランに身を包んでいた。
江洲高の男子生徒だと分かった。
ひょろりとした体格で、大人しそうな白い顔を個室から覗かせた。
「ダイ……」
姉貴が複雑な表情で俺を見ていた。
その姉貴の隣に男子生徒が控えて、こちらを見てきた。
大人しそうな顔立ちだと思ったが、その目は、明確な強い意志で光っていた。
「大守さん」
その男子生徒が、姉貴を肩越しに呼ぶ。
姉貴は動揺した表情のまま、横に向き直って、男子生徒の顔を見上げた。
その姉貴を真っ直ぐに見据えた男子生徒が改めて言う。
こちらからは、二人の横顔が向き合うように写っていた。
「大守さん。好きです。僕と、付き合ってください」
「――っっ!」
姉貴は、顔を真っ赤に染めて口を真一文字に固めていた。
教室内のスタッフ生徒が「おぉ~……」などと、盛り上がっている。
だが、俺はそれどころではない。
動揺に、動揺を重ねて、思考ができない。
だが、このまま黙っている状況ではないと、口が動いた。
「あんた、何なんだ」
俺は、告白をした男へ、声を投げる。
声が震えないようにするのが精一杯だった。
「僕は、大守さんと同じクラスの、脇山です」
と、はっきりとした口調で返して来た。
明確な意思を感じた。
――そう言うあんたは何者だ? という目をしていた。
俺がそのまま詰め寄ろうと一歩前に踏み出した時、姉貴が慌てながら脇山と名乗った男子生徒と俺の間に入って来た。
「脇山くん! こいつは、弟! 大守大作、うちの長男っ」
「えっ」
脇山は、虚を衝かれたという反応で、姉貴と俺を交互に見合わせた。
「そうなんだ、てっきり僕は……ははは」
と、照れ隠しのように笑い出す。
俺はその笑い声を聞いて、胸がかき乱されていくのを感じていた。
――何がおかしいんだ――。
――『てっきり』、俺のことなんだと思ったんだ――。
だが、俺はその思いを口に出す事はできなかった。
俺は『弟』なのだから。
そうして、相手の脇山をねたましく思ったのだ。まさに外巧内嫉といったところだ。
――こいつは、堂々と告白できるのに――と。
「でも」
脇山は、緩んだ笑顔をもう一度引き締めて、姉貴を見つめた。
「今の言葉、本当だから」
その真摯な眼差しは、脇山が本当に姉貴に惚れているんだと、伝わった。
俺にだって、伝わったんだ。いや、俺だからこそ、分かったのかもしれない。
だから、姉貴もその本気さに、うろたえていたんだろう。
真っ赤にそまった頬と、硬くなった表情で、何も言えずにただ、その脇山の顔をみているようだった。
その様子を見ていた脇山は、ニコリとほころんで、一歩、姉貴から身を引いた。
「ごめん。急だったよね。でも、隣から大守さんを好きって言葉が聞こえて、僕ももう、黙っていられなかった」
やはり、俺の声は隣の部屋にも聞こえていたらしい。
姉貴にだって、その声は届いたことだろう。
「返事は、あとでもいいから。きちんと、答えが聞きたい」
姉貴は、コクコクと硬い表情のまま何度も頷いた。
「じゃあ、また後で」
脇山はそう告げて、教室から出て行った。
姉貴は、そこで暫く固まったままだったし、俺も姉貴にどう声をかければいいのか、わからないでいた。
「とりあえず、出ませんか」
林原の言葉に、思考停止した頭が従うのみとなったのだった。
教室を出て、あんまり人が居ないところはないものかと、校舎から離れた所にあるテニスコート付近にやってきた。
文化祭中は使われてないようで、ここはひとまず静かでゆっくりと話すにはもってこいだった。
ここまで来る間、姉貴はまったく喋らなかったし、俺も声をかけなかった。
とにかく、落ち着いて話したいと思ったからだ。
林原が人目の少ない場所を探しながら、足が向くままここに辿り着いていた。
「……ご、ごめんね。なんかとんでもないトコみせちゃって」
姉貴が林原に真っ赤な顔が冷めていないままに侘びを入れた。
「い、いえ……」
林原は、そんな姉貴より、俺のことが気になっているのか、俺に目線を飛ばし、様子をうかがっていた。
「あいつとは、仲いいのかよ」
「え?」
「だから、あの脇山とかって男だよ。同じクラスなんだろ」
なるべく、なんでもないように自然に問いかけをしているつもりで、姉貴に聞いてみた。
だが、俺のハートはマグニチュードを計測できるほどにガタガタ揺れていた。
「あ、うん……。仲は悪くないけど、そ、そんな告白されるほど仲良くないっていうか……」
コクられてからの姉貴は、普段家に居る姉貴とは別人のように、女々しかった。
すっかり顔が赤くなっていたし、恥らうその表情はまさに『女の子』といった具合だったからだ。
その様子が気にいらない。俺は段々、語気が強くなっていく。
「じゃあ、なんでコクられてんだよ」
「わ、わかんないよ。文化祭の仕事を一緒にやってただけだし……」
「なら、姉貴はあいつのことはどうでもいいんだよな」
「ど、どうでもいいってコトはないけどさ」
どうでもいい相手だったら、コクられたって、なんとも感じないはずだ。
コクられた相手がそれなりに、恋愛対象として考えられるから、姉貴はテンパっているんだ。
つまり、あの脇山とかいう男子生徒は、脈アリってことじゃないか。
そう考えてしまうと、赤く染まる姉貴の顔を見て、どんどん心が淀んでいく。
「じゃあ、付き合うのかよ」
「つっ、付き合うとかは、ちょっと、わからんけども……」
「返事、どうすんだよ」
「ダイ君」
追求が厳しくなっていく事に、林原が制止するように、声をかけてくれた。
熱くなってしまっていた。だが、そんなのは、当然だ……。
これまでだって、姉貴に恋人が出来たらと考える事はあったし、その都度俺はストーカー紛いの事をしては姉貴の身辺調査をやっていたのだから。
自分の姉の独占欲は、かなりあるものだと、自覚していた。
そうして、そう思うと、自分の度量のなさ、そのシスコンぶりに自己嫌悪に陥っていた。
林原の声で、平静心を取り戻し始めた俺だったが、姉貴も同様だったらしく、赤らめた頬を冷めさせて、俺と林原に向き直った。
「そういえば……あんた達の部屋のお題、なんだったの? あたしらのはポーカーで勝つ、だったんだけど」
聞かれて俺は息を詰まらせてしまう。
そうだ、俺も俺で、あの告白を聞かれてしまっているんだ。
「好きな異性を答えよ、って張り紙で……」
と、答えられない俺に代わって、林原が説明を買って出た。
「そっか、それで……」
姉貴は合点がいったという具合に、息を吐き出して頷いた。
と、共に、突如俺に掴みかかってきた。胸ぐらをつかまれて、ググイと引き寄せられる。
「ってか、ダイ! あんた、どういうつもりよ!!」
いきなりの事で俺はワケが分からず、姉貴の剣幕に押されてしまった。
「な、なにがだよっ!?」
「好きな異性を答えろで、アタシの名前出すなんて、夢子ちゃんに不誠実でしょ!」
――やはり、聞こえていたんだな。
今度は俺が赤くなる番だった。
「んなこと言ったって……ッ! つか、離せっ苦しいんじゃアホウ!」
「お姉さん! 私は別にいいのでっ! 適当に答えればいいんだよって言ったのは、私なので!!」
「まったくもー。ごめんね、夢子ちゃん。こいつ、昔からムッツリだからさー。デリカシーとかないんだよ」
ひでえ言われようだった。
「姉貴には言われたくねーぜ」
俺が悪態をつくと、姉貴が足を踏みつけてくる。
痛みに飛び上がり、姉貴にもう一度、悪態をついてやる。
そのやりとりで、少しだけいつもの俺と姉貴を取り戻せた。
「まぁ、……脇山くんには悪いけど……私はそういう気、ないな」
「そうなんですか?」
姉貴が照れながら少し笑う。
俺はその言葉を横目に聴いて、内心ほっとした。
「アタシ、今は自分のコトで精一杯だから、人のことを想う余裕、ないんだよ」
「なんだよ、それ」
例の、姉貴を悩ませている何かのことだと察して、俺は少し食いついた。
「アタシって、人から好かれるような、価値のある人間じゃないと思うんだ」
姉貴らしくない言葉だった。
自分に価値がないなんて。
誰よりも、他人のために熱くなって、他人のために怒る姉貴が、自分自身をないがしろに考えるなんて、間違っている。
「お姉さんは、魅力的です」
林原がまっすぐと、姉貴に言葉をかけてくれたのが、俺は嬉しかった。
その言葉で、姉貴も小さく笑顔をみせてくれたが、内面にこびりつた不安が、姉貴に灰色のヴェールをかぶせているように感じた。
「お姉さんは、魅力的ですよ。だから、あの同じクラスの男子にも告白されているし、ダイくんだってお姉さんが好きだって言っているんです」
「お、おい、林原。その話はもういいだろ」
俺がまた蒸し返されるのが恥ずかしく、彼女の言葉を濁そうとした時に、林原は俺を睨んでいた。
――怒っている。
林原は、何かに怒っているらしい。
何に対してだろうか。
思い当たることはいくつかあるが……、林原の怒りの眼を始めてみた事で動揺し、俺はその真意をつかめないでいた。
何かが、変わりだそうとしている。
楽しくなると思われた文化祭は、いくつかの要素が絡み合って、俺たちを不安定な世界に誘うようだった。
この時の俺は知る由もないが、この文化祭は、姉貴や林原だけでなく。
月島さんや、蘭さん。
直也に、三太までも巻き込んだ、大きな渦巻きだったのだ。
それを語るのは、また別の機会になるだろう。
俺は、俺のことで精一杯なんだから――。