転
◆
家に着くとすぐさま自分の部屋へと直行する。
両親がまだ帰ってきていないことは車の有無で確認できた。
しんと静まり返った我が家はそれはそれで落ち着く。
変装に使った作業服は押入れの奥深くに封印し、二度と使わないことを強く願った。
それから着替えることもせずにベッドにごろんと寝転がる。
今日は色々なことがありすぎたし、一度憑依させたこともあり疲れが溜まっていた。
人の死体を見たことから食欲も湧かず、このままぐっすりと眠ってしまいたかった。
だが、
『やっほー、お兄ちゃん。おかえりなさいのお疲れ様ー』
「よう。俺は見ての通りお疲れなんだよ……。だからお前のごとき下等種族と遊んでやれる余力はあんまり残ってねぇんだよ」
『ほうほう、なるほどねー。それはつまり憑依して良いってことだねっ』
「……バカに効く薬はないものか」
『?お兄ちゃん、頭良くなりたいの?』
「少なくともお前よりはな」
『えへへー褒めないでよー』
「今のどこが褒め言葉聞こえンだよ」
まったく……。
こっちはマジで疲れているというのに………。
勘弁してほしい。
電車の中だって実はうとうとしてたのに、結局それどころじゃなかったし。
俺の愚かなる妹である更とこんなやり取りをしている今の時間はもう八時だ。
外はすっかり暗くなり、星が見え始めている。
そんな中で俺の大して広くもない部屋でふわふわと、ぷかぷかと更の奴が浮ついて浮いている。
まるで、更専用の無重力空間があるかのようにそこら中を縦横無尽に飛び回っている。
鬱陶しいことこの上ない。
今更、何が楽しくてそんなことをしているんだか。
「つーか、何の用だよ。そろそろいい加減にしないとぶった斬るぞ」
『どうやって?!』
あからさまに驚いた顔をする。
元気溌溂だなぁ、いつもいつも。幽霊だからだが。
これから俺はおそらく静夏さんを成仏させる活動に身を置くことになるだろう。
でも、こいつにもあるんだろうか。
未練――やり残したことは。
更も今は幽霊である以上あるはずなのだ。
それが幽霊の存在理由なのだから。
『ねぇ、お兄ちゃん』
「あ?」
『今日なにかしたの?』
「したって何が?」
『その……あたしたち幽霊についてのなにか』
部屋中あちこち飛んでいたのを止めて、床に腰を落ち着かせる更。
改まって何を話す気なんだ?
『お兄ちゃんってさ、時々ものすごく疲れて帰ってくるからさ。その時は絶対幽霊のことで色々あったんだなーって思うわけですよ、あたしは。いくら視えるからって関わりすぎだと思うんだよね』
「……………」
『そんなだと幽霊の方に引っ張られて生きていられなくなるよ……。死んでるのか生きてるか分からなくなるよ。お兄ちゃんまでいなくなったらお父さんとお母さん寂しくなるんだからね。悲しませるのはあたしだけにしないと。これ以上親不孝はいけないよね』
「お前に言われたくねぇよ……」
更から心配されたのが、なんだかバツが悪くついつい言い返してはみたがこいつの言う通りだった。
確かに俺は目についた悪霊や生き霊なんかを片っ端から成仏していった。
昔はこんなことはしていなかったはずなのだが、いつからだろう。
おそらくは更が死んでからだ。
その頃から俺の一日の幽霊と接する時間は明らかに増えた。
高校生活の半分くらいは。
そういえば静夏さんに話した二人の『本物』からも更みたいなこと言われたっけ。
《幽霊には関わるな。関わると命を落とせなくなるぞ》
今になってもその忠告を受けることになるなんて、しかも妹なんかに。
でも。
心配してくれているのは嬉しくないわけじゃなかった。
俺みたいな奴を心配してくれるのは更くらいのものだろう。
そこには癪だけど感謝すべきことか。
「心配いらねぇよ。もうすぐ夏休みだし、俺の活動も少しは収まるだろうよ。学校に行くと幽霊のエンカウント率上がるからな。流石の俺も自分から幽霊に関わろうとは思わない。だから今回の件が終わったら、ちゃんと体は休めるよ。言われなくてもな」
『……うん!ありがとう!!』
花が開いたように嬉しそうに笑う。
こんな更を視るのは、悪くない。
そう思えるくらいには、案外俺はシスコンかもしれないな。
二人の間に穏やかな風が流れる。
初夏を感じさせる気持ちのいい風だった。
今日は疲れたし、このまま眠ってしまおうかと悩んでいたその時――――
「――――ねえ、荘子くん」
「っ!」
「ここが荘子くんの家なのよね」
突如、窓から現れた存在。
俺と更との繋がりを断つギロチンのように降り注いだ声。
先刻、別れたばかりの人。
黒くて長い艶やかな髪が風に靡いていて、綺麗だと思ったのはやはり不謹慎だった。
「あのね、荘子くん。まず最初に謝っておくわ」
何を言っている。
「ごめんなさい」
何を言っている。
「でも、間違いは正さないといけないと思うの。それも私にしかできないと思うから」
何を言っている。
「これは私なりのお礼のつもり」
何を言っている。
「……覚悟してね」
何を――――
「荘子くん。この家のどこにも……いえ、この世界のどこにも―――――」
――――言っている。
「この世界のどこにもあなたの妹――更ちゃんは、いないわ」
「…………っ」
「だって幽霊である私から視えないもの。さっきから様子を覗ってはいたけど、ただあなたが独り言をしゃべっているようにしか私には、見えなかった」
「……………………………………………………」
なにを……。
「幽霊に視えない幽霊なんているはずないわよね。だから更ちゃんは幽霊になっていない。未練なんてなかったのよ」
何を言ってるんだ!!!!!
「現実を見て、視て、認めなさい。あなたの妹はもう…………」
「うるっさい!!!!!」
言うが速いか俺は家を飛び出した。
裸足だろうがなんだろうが、まったく関係ない。
俺は逃げた。
突如現れた静夏さんと。
更が存在しない現実から。
◆
「……はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ」
勢い飛び出してしまった。
なんで注意までしたのに静夏さんが俺の家に来たのか。
なんで更がどこにもいないことを知っているのか。
今はそんなことはどうでもいい。
今はとにかく――――
「つっかれたああああ」
俺はとある公園へ入りそのまま地面へと寝転がる。
寝転がるというより倒れ込んだ。
それもそのはずだ。
元々部活もスポーツもやっていない俺が体調も万全ではないままにいきなり町中を駆けずりまわったのだ、しかも裸足で。
これでバテないものか。
「くそ!!ああもう畜生っ!!あぁーーーー!!」
俺は叫ぶ。
意味なんてない。
「どう?頭は冷めたかしら」
遠くから余裕そうに飛んできて俺の下へとふわりと舞い降りてくる。
その姿はどこか幻想的で、目が離せなかった。
「ああ。おかげさまで。すっかり頭が冴えちゃって、この世界が……更のいない世界がよくわかるよ」
そう、といいながら頷く静夏さんは視線を合わせようとしてくれない。
やはりどこか後ろめたいというかこちらに対して負い目を感じているように視える。
「いいんだよ静夏さん。アンタのおかげで目が覚めたよ」
息切れもほどほどに、体中の脈動も落ち着いてきた。
夏の夜空が悔しいくらいに綺麗に輝いているがわかる。
「俺だって限界ってやつを感じてたんだよ。更が幽霊になっているなんて。そんなわけがなかったのにな」
更はいない。
あの日、俺の合格発表の日に事故に遭って以来ずっとそのままだ。
そのままで、死んだままだった。
俺の前に幽霊として現れるでもなくただ単に死んだ。
あっけなく家族がいなくなってしまった。
「珍しいんだよ。事故に遭って死んだってのに未練もなくあの世に逝くなんて」
あんなにお茶らけていてもやりたいことはあるはずだ。
友達つくって遊んで、恋人つくって愛して、家族つくって笑って。
更には更なりの夢や希望があったはずなのに…………。
どうしてなんだ。
「なんで更だけ……。なんで更だけ違うんだよ………………ッ」
ちくしょう。
俺は消え入りそうな声で叫ぶ。
目に見える空が歪んで、ぼやけてしょうがない。
こんな時に俺は更のこと思い出す。
更は『良い人間』って奴なのだ。
昔からリアクションの大きい奴で。
愛想が良くて、よく笑い、人付き合いも上手でコイツの周りにはいつも人がいた。
人気者だった。
誰からも必要とされた人間だったし、誰かが必要とする人間だった。
それに比べて俺は違った。
幽霊が視えるというだけで、いや視えるからこそ気味が悪がられ子供の頃はいつも独りだった。
自分から自己主張をしなくなった。
したら皆が迷惑そうな顔をするのだ。
「なにしてんだよ、こいつ」って。
俺はいつもいつも妹と比べられ、更にとっては俺なんか重くて冷たい枷でしかなかっただろう。
「あんな兄がいなければ」、と散々周りの人から言われてきた。
それでも更は、
「お兄ちゃんはあたしのお兄ちゃん」
と言って譲らなかった。
今の俺があるのは更が支えてくれたおかげだ。
更がいたからこそ俺は今ここでこうしているのだろう。
面と向かっては照れくさくってとても言えないが、ありがとうくらいいつか言おうと思っていた。
なのに死んだ。
俺とは関係ないところで。
なんのドラマもなく。
「いつからその……現実逃避が始まったの?」
静夏さんが躊躇いがちに訊いてくる。
静夏さんが言っているのは俺が更を『いる』ものとして振舞っていることだろう。
現実逃避。
確かにその通りだ。
「それは、多分更が死んでからずっとだと……思う。最初は親に訊かれたんだよ、本人の葬式中に、更はそこにいるのかって。娘の死をまだ受け入れらない親を見ていられなくてつい嘘吐いちまった……。それがきっかけだと思う。それ以来、俺はさもそこに更がいるように演じ始めた」
高校に入学したての頃のことだ。
当時の自分がとても道化じみていて、今では我ながらに滑稽に思う。
「初めはうまくやっていけてたんだ。嬉しかったよ、親たちがいつになく俺を頼ったりしてさ……。初めてだった。でも、今ではすっかり立ち直ったみたいで、すっかり元の通りに元気になった。俺はタイミングを見計らって親の前での演技はやめた。けど今度は俺が嘘にとり憑かれてしまった」
虚構と現実のラインが消え去ってしまった。
朝には目覚まし時計で起きているくせに更から起こされているように演技したり。
更は家から出ないだって?
当たり前だ。
幽霊の更は俺の妄想なんだ。
人前でそんなことしたらみんなにバレてしまう。
みんなにバレてしまえば、俺にもバレしまう。
俺が俺を守るため作った嘘。
俺は自分にとり憑かせた嘘を自分自身に気づかれないようにしていた。
でなければ、一年間も続くはずもない。
「俺が視えなければ……幽霊が視えなければ………!!こんな苦しい思い、しなくて済んだんだ!!」
なんの感慨もない公園の中心に倒れ込んだまま俺は吠える。
犬のように。
赤子ように。
世間体や静夏さんの視線など気にしない。
更がいない世界からどう思われたって俺にはもう……どうでもいい。
「家族が死んだら素直に泣けば良いのに!そんなこと俺でも知ってるっ!!でも俺は……泣けなかったんだよ。妹が死んだのに泣けなかったんだよ!心の中に大きな穴が空いたみたいでとても、途轍もなく痛くて、辛くて、苦しくて苦しくて苦しくて……ッ!!俺はッ!!………おれはぁあああ!!」
慟哭する。
更が死んだあの日の分だけ声を出し続ける。
自分じゃあもう止められない。
その俺に静夏さんは近付いてきて、
「……もういいのよ、荘子くん。あなたはもういいのよ。もう自分に嘘を吐かなくてもいい。もう苦しまなくてもいいのよ」
透き通るような白い腕で、体で、透き通りながらも俺の体を包んでくれる。
強く、つよく抱きしめてくる。
そうしたところで俺には疲労以外、何も伝わらない。
でも。
不思議と、ほんのちょっぴりだけ心が安まるのを感じる。
こんなのは幻でしかないのに……。
確かな人の温もりを感じる。
「あなたは生きているんだから、ちゃんと生きなさい。自殺した私なんかに言われたくないだろうけれど……それでも聞いて」
「………………」
「あなたは生きるべきだわ。生きて生きて、命の限りに生きて……。それであなたは知るべきよ。世界の尊さを。人の温もりを。生の楽しさを。友の篤さを。女の愛しさを。人間の脆さを。幽霊の闇を。あなたはまだ何も知らない。そしてやり残したことが。未練が、まだまだあるの。だから――――」
目から想いが、感情が溢れだしてくる。
自分では止めようとしても止められない。
みっともなくって、恥ずかしくって、情けなくて、でも大事なこと。
これが『泣く』ってことなのか――――。
「ちゃんと、生きなさいッ!!!」
これまでにない強い想いが俺の心に染み渡っていく。
静夏さんの想い。
静夏さんの願い。
そのすべてが俺の穴のあいた空っぽな心を満たしていく。
「俺さ……このまま生きてても良いのかな……」
更がいないこの世界で。現実で。
俺は自分のために生きても………良いのかな……。
「良いに………決まってるでしょ…………ッ」
静夏さんは力強く俺に希望を与えてくれる。
自分だって辛いのに俺なんかを…………。
「ありがとう」
この日を境に俺は『妹』という嘘から解き放たれ『生きる』という想いに。
――――とり憑かれたのだった。
◆