承
◆
屋上に着いてみると、そこには人っ子一人いない。
なぜなら、学校の屋上といえば風が強く、日差しは直にあたり初夏を過ぎたこの時期ではいるだけで苦痛でしかないからだ。
冬は冬で寒すぎるし。
だから、というわけでここを待ち合わせ場所にしたのだが。
さて、水野姉はどこに行ったかな。
今日は雲ひとつない快晴なので屋上は十二分に蒸し暑い。
早く用事を済ませたいておきたい。
「おーーい。水野のねえちゃーーーん」
反応なしっと。
これじゃあ、俺はただの変態さんだ。
「おーーーーーーい」
どこにいやがるんだよ、ったく。
幽霊の気配なんて感じ取れないし、待ち合わせ場所にいないのならばこちらからアプローチを仕掛けるのは至難の業だ。
このままじゃ水野をただ泣かせるだけになっちまう。
そんなのは嫌だ。
「おーーーーーーーーーーーーーーーい!!!」
「ふわぁぁ」
俺の必死の呼びかけになんとも間の抜けた声が返ってきた。
いや、それは俺に向けられた返事なのか単なる欠伸なのか判然とはしないが。
「そこかよ」
俺は屋上よりもさらに高い場所にある貯水タンクが置かれているところを見上げる。
よく見ると教室で視た彼女が寝ていた。
寝ていた!!?
こんな状況で!?
梯子を登り彼女のそばに寄り確認すると、綺麗な寝顔だった。
日本人形というには少し雅に欠けるが十分に美しかった。
妹とは違って、腰まではあるだろうその黒髪はさらさらとしていて、手入れの苦労が窺える。
肌は髪とは対象に真白い。
水野もそうだったから遺伝だろうか。
しばらくの間、寝顔に見惚れていると水野姉は覚醒し始めた。
「ふわぁ~。ん~ん」
「早く起きてください。こっちには時間がないんですから」
慣れない敬語で話しかけたが、その甲斐あってか彼女はこちら認識したようだ。
「あっ」
途端に恥ずかしそうな顔をなされた。
なら、最初から寝ないでほしい。
そもそも幽霊が寝ることができる事実自体が俺には驚きだ。
「ちょっと、女の子の寝顔とか見ないでよ。男子としてどうなの?それ」
顔を背けながらそれでも不満を投げかけてくる。
「いや、男の子に寝顔とか見せるなよ。つーかこんなとこでこんな時に寝てんじゃねーよ」
「だって眠かったんだから仕様がないでしょ。待つのは苦手なのよ」
うーむ。
なんとなく、俺は水野姉のことを頭良くて、常識人みたいな印象を受けたのだが見た目だけでは分からないな。
「それで、あなたはなぜ私のことが視えているの?ほかの人には視えてないようなのだけど」
寝顔の件はもうどうでもいいのかそんな質問をしてくる。
「俺は生れた時からアンタみたいな所謂、幽霊ってやつをたくさん視てきているからな。こういうのは慣れているん……ですよ」
「敬語は別にいいわよ。私って死んでるんだし」
それが敬語を使わなくていい理由には絶対ならないだろうが、ここは甘えさせてもらおう。
「それで、俺はアンタに訊きたいことがあって今こうしているんだが」
さて、何から訊いたものか。
何分話が込み入っていそうなので、これ以上話が面倒にならないように慎重にいきたいがどうしたものか。
俺がそうやって悩んでいると、あちらが口を開いた。
「その前に、自己紹介をしましょう。なにはともあれ、これから短い付き合いになるにしても長い付き合いになるにしても、あなたとは仲良くしておきたいものだわ」
翠の友達だしね、と薄く笑いながらもそう言う。
「私は翠の姉でシズカと言います。蝉も鳴かない静かな夏と書いて静夏あるいはお風呂好きの少女と同じ名前。水野静夏、よ。よろしくね」
言ってからこちらに手を差し出してくる。
握手なのだろうか。
「俺はクサキソウジ。植物の草と立ち木の樹で草樹。そして漢文で出てくる……えーーっと」
「道家の思想家で『荘子』のことかしら」
「…………たぶんそれです。草樹荘子です。よろしくお願いします」
自分の名前を教えるのに人の理解力に頼ってしまって、非常にしまりが悪いがとりあえずはこちらも手を差し出し互いに握り合う。
その時に、妙に柔らかくて綺麗な手を離すのが若干、惜しく思ったのは内緒だ。
「さて、自己紹介も終わったし情報交換といきたいけれど、どうやら荘子くんは訊きたいことをあまり整理できていないようだから私から質問してもいいかしら」
「まぁ、はい。そうしましょうか。水野さん」
「だから敬語はいいって。あと下の名前で呼んで頂戴。妹とこんがらがるでしょ」
「……はい、静夏さん」
うーん。
どうも、静夏さんがさっきの見事な寝顔を晒していた人と同一人物とは思えないほど大人な雰囲気を出してくるから、使い慣れない敬語も自然と出てしまう。
というか、自分が幽霊になっているというのに妙に落ち着いている。
これも年上の貫禄というものなのか。
「じゃあ質問させてもらうけれど、荘子くん。あなたってどれくらいのレベルで私のことが視えているのかしら」
「えっと、普通の人と遜色ないくらいには視えて……いるよ」
また敬語を使ってしまうところだった。
「でも区別はつくのよね。私に対してあのようにコンタクトを図るというのだから」
あのような、というのは今朝のHRでの不自然な背伸びのことだろう。
「では、二つ目の質問。あなたのような『能力』を持つ人はあなた以外にもいるの?」
「いる……と思う。俺自身が会ったことがあるのは精々、二人くらいだ。滅多にいないと思っていいと思う」
「例えば、テレビなんかに出ている霊能師みたいなのがいるけれど、そういう人達だったりする?」
「いや。ああいうのは三人に二人くらいは偽物だな。寺の住職なんかは職業柄、後天的に幽霊を感じ取れるようになるらしいけど、どうだろ。多分、本物は表舞台に出たりしないし、その『能力』を利用して稼ぐ人はそれこそ稀、らしい」
俺が今まで会った二人の『本物』はそうだったし、そういうものだと教えられている。
「ま、感じ取れる人は相当数いるが、俺みたいに視える人はごく一部と考えていい」
「そう。なら、私は結構運が良いってことね。幽霊になってから運が良いっていうのもなんだか痛し痒しみたいなところがあるけれど」
静夏さんはそう言いながら残念そうな顔をするが、どこかで落とし所を見つけたのかすぐに元の凛とした表情に戻す。
「大体、分かったわ。これで私の質問タイムは終了よ」
「え、もういいのか」
「ええ。生きてた頃の疑問が解けて未練がなくなったわ」
「そんなどうでもいい理由で幽霊に化ける奴がいるかよ」
「冗談よ。でも、興味本位のいわば雑談くらいのことしか気にならないわ。今のところは」
「随分とお気楽なんだな」
「人間も幽霊もなるようにしかならないということよ。諦めが肝心ってね」
なかなかにさっぱりした性格してるな。
そういうとこは妹の翠にも通じるところがあるが、しかし。
ホントなのか?
諦めている人間に果たして未練は残るのだろうか。
幽霊は未練があるこそ存在する。
存在しないけど存在する。
そういうものだ。
だけど、この人はそこが欠けている。
俺が今まで視て、会って、話して、協力してきた幽霊とはどこか違う。
一言で言えば、異常だ。
「アンタみたいな幽霊は初めてだ」
「あら、意外に多いと思うけれどね。私みたいな幽霊は」
「ふーん」
絶対にいるわけがない。っていうかいてほしくない。
自分が幽霊であることをここまで受け入れている奴がそこら中に居てたまるか。
幽霊ってのはさっさと成仏しなくちゃいけないんだよ。
それが、世界の摂理なんだから。
「…………………」
一先ずこのことはさて置くとしよう。
まずは状況の把握、そして整理だ。
「じゃ今度は俺の質問タイムということで」
「どうぞ」
さてと、こっから何を訊けばいいのか。
成り行きで後攻になったものの全然、頭の中整理できてなんかいない。
もう手あたりしだいでいくか。
「まずは、そうだな……死んだ時間を教えてくれないか」
「?知ってどうするの」
「後で話す」
「そ。えっと……確か昨日の午後八時くらいじゃあなかったかしら」
「なんでアンタが死んだことを水野は知らないんだ?」
「さぁ」
「アンタの体はどこにある」
「おそらく、私の通う学校の寮」
「なんで、アンタは水野にとり憑いていたんだ」
「失礼なことを言わないでくれない?とり憑いてなんかいないわよ。ただ妹の学校生活がどんなものか知りたかっただけ」
心外だと、言わんばかりに不満な顔をする。
それもそうだよな。
誰が好き好んで大事な家族にとり憑くというのだ。
「失礼なことを言っているのは分かっている。だけど一般的にはアンタのような幽霊が普通の人間の側に居るってだけでとり憑くことになるんだよ。そして、とり憑かれた人間は徐々に精力を奪われ、疲弊する」
「……え?」
「それから、その状態が長時間続けば人間は過労死になり、見事幽霊の仲間入りってわけだ」
実例は多いわけではないが少ないわけでもない。
「そんな……そんなことって……。うそ」
今まで余裕そうにしていた彼女が一転して動揺する。
こんな人でも狼狽えたりするんだな。
これはこれで意外。
「そうだよ。アンタは無意識に自分の妹を――――
――――――殺そうとしてたんだぜ」
◆
「ふぅー。なんとか学校、抜け出せたな」
「なんのために早退したのよ」
静夏さんが不可解そうに訊いてくる。
「アンタの死体を拝みに行くのさ」
今は昼休みが終わった五時限目だ。
体育をしている生徒達が俺に不躾な目を向けてくるのが分かる。
「あんな、自分の体に私を憑依させてまですることなの?放課後でも良かったんじゃない?」
憑依というのは俺の体の主導権を静夏さんに預けたのだ。
なんのためにそんなことをしたのかというと、保健医を騙すためである。
先ほど、屋上で静夏さんに話した通り幽霊は生身の人間には有害なのである。
命に関わるほどに。
だけど、俺はある程度までは耐性がある。
だから、今朝の水野みたい疲弊せずに静夏さんと行動しているわけだが。
そんな俺でも憑依は流石にきつい。
幽霊による人間の疲労度は両者の物理的距離に反比例する。
つまりは幽霊が人間に近付けば近付くほどに疲労度が増すということだ。
そして、憑依はその物理的距離は0に限りなく近い。
疲労度は相当なものになる。
常人ならば1時間意識が持つかどうか分からないくらいである。
俺はそれを利用して、仮病であって仮病ではない症状をつくりだし、見事に早退を勝ち取った。
まぁ、帰り支度のために教室に戻った時に水野に死ぬほど心配されたが、これから俺がやることを思えばそこはかとない罪悪感があった。
「私が憑依したころに比べれば、今のあなたって別人みたいにけろっとしているけれど、そんなに回復は早いものなの?」
「そうだな。幽霊によって生じた疲労だからな、原因がなくなれば自然と無くなるさ。そこに個人差はない。現に水野はアンタが離れた途端、いつもの調子に戻ってたぜ」
「そう。それは良かった……」
安心したようにホッと息をつく、静夏さんは今までとは違う優しい顔つきをした。
雰囲気からクールな印象を受けるが、別に人間味に欠けているわけではないんだな。
「荘子くんが意外そうな顔をしているわ。そんなに私って家族愛がないように見える?」
「いや別に。そこらへんは水野に聞いていた通りだなって思って」
「へぇ。あの子、荘子くんとそんな話してるんだ。結構、懐いてるのね」
「そんなこともないと思うけど。ま、そんな話をしていたからこそ俺はすぐにアンタのことを水野の姉ちゃんだと思い至ったわけだけど」
とかそんな話をしながら、最寄りの駅へと歩を進める。
静夏さんは浮遊しながら、土地勘がないので俺の後ろを憑いていく。
本当なら今は授業を受けている時間帯なので、見慣れた商店街もいつも違うように見えてくる。
これから、そのまま隣町まで行こうとしていたけれど流石に制服は目立つよな……。
一度家に戻るとなると、早退した意味があまり無くなってしまう。
念のために、同じ学校の生徒と鉢合わせしないための早退でもあったのだから、それをみすみす捨てるような真似はしたくない。
どうしたものか。
「なぁ、静夏さん。アンタの学校って今の時間帯には普通に授業してるのか?」
「いえ。もう私たちの学校では夏休みに入っているわよ」
「なに?!」
これは完全に誤算だ。
授業中ならば女子高に潜りこみやすいと思っていたのに!!
考え方がもはや変態のそれではあるが、しかし実際問題どうだ。
夏休みということは部活などで不特定多数の生徒が校内をうろうろしていることになる。
その中に他校の制服を着た、しかも男子がいたら即刻通報間違いなしだ。
ヤギ牧場に狼がいるみたいに目立ってしまうこと請け合いだ。
これは、もう夜まで待つしかないのかもしれない。
「見つかることを恐れているのだったら、私に妙案があるけれど……どうする?」
「是非、訊かせてくれ」
「あとでね」
なぜだか、イタズラっぽく笑う静夏さん。
そんな姿もなんだか様になっていて思わず目を逸らしてしまう。
「ああ、そうだそうだ。荘子くんに訊きたいことがあったんだ」
「まだ、あったのか。今度はどんな……」
「翠ちゃんのことって好き?」
俺の台詞を遮って放たれたのはそんなどこか牧歌的な、幽霊のこととはどう考えても関係がないことだった。
っていうか今訊くこと?それ。
「いきなり何言い出すんだよ。幽霊のことはもういいのかよ」
「なによ。ただの雑談じゃない。駅まではまだ時間かかりそうだし」
確かにあと五、六分ってところか。
この商店街を抜ければそれで到着である。
ちなみに普通の人には俺が一人でぶつぶつぶつぶつと独り言を呟いているように見えていることだろう。
「その質問には答えなければダメか?絶対に」
「答えなければならないわよ。絶対に」
とても愉快そうだが。
「だって気になるじゃない。あの子、誰とでも仲良くなるけれど色恋の話なんて全く出てこないんだから」
知ったことか。
「告白はされてるみたいだけど、付き合ってる様子なんて皆無だし……」
確かにここ三カ月足らずで水野が手紙のようなものを持ってため息したり、携帯電話を見てはため息したりと悩んだり困ったりしている様子は幾度となく目についた。
そうだよな、あいつってモテるんだよな。
そんなやつとこれから一年間隣の席というのも優越感を感じないわけではないな。
今はそれどころでもないけれど。
「そんなことよりも他に今考えるべきことがあるんじゃないのか?」
「ないわ。私は今のうちに妹の人間関係を把握しなければならないの。あの子のためにやるべきことはたくさんあるのよ」
そのわりには死んでいるが。
でも、妹を親愛し心配するその姿は姉っぽかった。
姉妹って感じがする。
俺はどうだろうか。
俺の妹――草樹更に対してその程度の愛情は持っていただろうか。
あいつは死ぬ前から騒がしい奴だったし、疎ましく思ったり、鬱陶しく思ったこともあった。
だけど、あいつが死んで幽霊になってくれていることに俺は安心している。
いけないことに。
「うらやましいな」
「え?」
考え事をしているうちについ、心中を口に出してしまった。
不可解な顔をされたではないか。
「いや、まーえっと。そんな風に身内のことを心配できて。そんな風に身内に心配されてさ。水野もそんなアンタだからこそ大好きなんだな」
迷った挙句に思ったことを素直に述べた。
それに対して静夏さんは、
「荘子くんの家族のことって訊いてもいいかしら」
戸惑いがちに尋ねてくる。
俺の特異な体質を思ってのことだろう。
「両親はほとんど干渉してこないよ。それが一番お互いにとって救いになることを知っているから。あと俺にもアンタと同じように妹がいたよ」
「いたって」
「死んだんだよ。俺が高校の合格発表を見に行った日に交通事故で」
「そんな……」
「別に同情する必要はない。やっぱアイツも未練あったみたいでさ、幽霊になって日々俺の体乗っ取ろうとかしてくるから困ったもんだ」
妹の死については高校の奴らはほとんど知らない。
知っているのは精々、担任の教師くらい。
友達だって水野にだって話していない一年半前の話。
さっき言ったように同情されたくないのもあるし、変に相手に意識させたくなかった。
俺は不幸な奴なんかじゃ、ない。
「じゃあ、荘子くんの妹は幽霊としてあなたと一緒に暮らしているってことなのね」
「まぁ、そういうことになるな。だから妹が死んでもあんまり悲しくないっていうか、実感してないんだよ。妹の死ってやつを」
「ねぇ荘子くん」
「なに」
駅がもうじき見えてきたというのに青空に雨雲がかかるかのように暗い表情の静夏さん。
彼女は俺の方を見ようとはしない。
どこか申し訳のさそうな感じだった。
そんな彼女を見て居たくなくって俺もまた目線を静夏さんから煌びやかな店内へと逸らす。
「名前教えて、妹さんの」
「なんで」
思わず彼女を見遣る。
「忘れないように胸に刻みこむから。会ったこともないあなたの妹を――不慮の事故で亡くなった生きたくても生きれなかった女の子の名前を胸に刻み込みたいから」
同じ幽霊として。
声音が痛切だった。
圧倒された。
今にも泣き出しそうなのだ。
そんな彼女を視て、俺は悪いことをしている気分になって胸が苦しくなる。
アンタが気に病む必要なんかないのに。
「草木更だ。それが、俺の妹の名前で。名前だ」
駅に着いた。
これから女子高へと潜りこまなければならないが、それどころではない。
俺はどうすれば女の子を笑顔にできるのだろうか。
そればかりを考えて、何も浮かばず考えるのをやめた。
◆