君の中の夢の中で
夢が始まってすぐ、君は目を覚ます。
見覚えのない部屋の中。天井はない。空は真っ白。どこかわからない、はるか遠くの方から、輪郭のぼやけたあたたかい光がさんさんと部屋の床や壁を照らしている。
さて、ここはどこだろう?
君はあたりを見渡す。部屋の床には、幾何学模様のついた絨毯が一面に敷かれている。ソファーが一つ、テーブルも一つ、どちらもそれなりに使い込まれている。
小さいけれど、窓もある。すぐ横には机もあるが、本やメモの山がたくさん積まれていてぐちゃぐちゃだ。いつから散らかっているのだろう、下の方には色が変わって黄色くなった紙まで見える。
ためしに君は、そのメモをいくつか読んでみる。
『電気を消した真昼の淡さ』、『切り離されたみたいな公園』、『世界は仮面でできている』、『午前五時半の風景だけをどこかに閉じ込めておきたい』、『布団の中でスイッチを押した僕は画面に立ち上るモノクロの原子雲に怯えて泣いて』、……。
無造作に置かれた本を開いてみる。中身はほとんど白紙だ。時折、ほんの二、三行だけ、鮮明に記録されている部分がある。
引き出しを開けてみる。机の上の惨状とは違って、引き出しの中は様々な書類がきっちりと整理整頓されている。一つ選んで取ってみると、数式が書かれていた。また別の一枚を取れば、英単語がずらりと並んでいる、……。
君はまた部屋を見渡す。見覚えがないものばかりだ。ここは一体どこだろう? でもなんだか、懐かしいような気もする。
君は部屋の一辺にある扉に近づく。洋風の、ごわごわとした彫刻の施された高級そうな扉だ。ドアノブを回してみると、さび付いた可動部がわずかに削れたのち、すうっと開いた。向こう側には、廊下がある。
おそるおそる、廊下に数歩踏み出して、君は後ろ手に扉を閉める。廊下もまた、洋館のように彩られた空間だ。美術館みたい、君はそう思う。君の持つ美術館のイメージが、まるでそのまま具現化したかのような、……。
廊下の左右の壁には、絵がかけられている。
君は近づいて、その絵を間近で見てみる。最初に見た絵は真っ黒に塗られていて、微かに白い、靄のようなものが真ん中に描かれているだけだ。何のことかわからない。君は不思議に思う。タイトルは、何も付いていない。
廊下を横切り、逆側の壁の絵を見てみる。今度の絵はそこそこ明るい色合いだ。しかし輪郭らしい輪郭はなく、ぼやけた肌色が絵全体に塗られていて、真ん中のあたりが一層濃い色で染まっている。これも、タイトルはない。
次の絵を見る。先の二作と比べると、ずいぶんと線がはっきりして見えやすい。これは、庭だろうか? 地面には白くごつごつしたたくさんの石が敷き詰められていて、灰色の塀で隣の家と隔てられている。これにはタイトルが付けられている。『たいよう』。太陽?
君はそれらの絵を見ていて、なんとなく――本当に微妙な感覚ではあるけれども――懐かしいというか、あたたかいというか、そういう気持ちを感じていた。たしかではない、むしろ曖昧で、おぼろげでしかないのに、君はどうもそれらの絵に、奇妙な親近感を感じずにはいられないのだ。
廊下は途中で右に曲がっていて、その先の左右の壁にも絵はたくさんかけられている。ある絵は木々の生い茂った裏山のような風景画、またある絵は朱色のコーティングがされてある道路の絵、またある絵は小さい畑のある大きな家の絵、またある絵は、……。
君は廊下を歩きながら、だんだん、確信に満ちた想いが身に満ちてくるのを実感している。夢の中で、自分が目を覚ました理由を、断言はできずとも、理解しかけている。それは少しずつ膨らんでいく親近感と同様に、君の心を刺激して、歩を進めるのを促している。
それからしばらく時間が経った。頭上から注いでくる光はさっきと変わらない様子で、夕暮れが来るような気配すらない。曲がりくねった廊下を進んでいくとようやく、廊下の突き当たりに扉があるのが見えた。さっき通った扉とは、外見こそ似ているものの、どこか違う。膨らみきった憧憬の念が君にそう思わせているのかもしれない。
扉の前にたどり着いて、君はドアノブをつかみ、回す。さっきと同じだ、でもさび付いてはいない。むしろ、今日昨日にようやくこしらえたといっても良いくらい、新品のような光の具合だ。
扉の向こう側には、アトリエがあった。
椅子とキャンバス、足元にはたくさんの絵具が、これもまた散らかしたまま置いてある。最初の部屋と見た目は似ているが、家具は他に見当たらない。窓もかろうじて風が通る程度のものがあるだけで、……。
部屋に入り、息をつく。そしてここにきた意味を知る。
君はここに絵を描きに来た。
君はもうわかっている。木造の椅子に座って、絵筆とパレットをそれぞれ持って、指先でキャンバスの表面をなぞる。ざらざらとした感触は、まったくない。ただ透き通った水を触るような、撫でるような感触がするだけだ。
君はいくつか床の絵具のチューブを拾うと、色をパレットに少しずつ出して、いつからか床に置いたままの水の入った陶器の中で絵筆を泳がせてから、色を混ぜていく。
君はここに絵を描きに来た。何か一つ、心に残るようなことがあったのだろう。それは君が一番よく知っているだろうし、知っているからこそ今こうして君はそれを絵に残そうとしている。欲しい色を探し求める。何度か混ぜて、ようやく思い通りの色合いになった。
筆先に付いた色の粒子を、そっとキャンバスの表面に当て、滑らせるように筆を動かす。跡がじわりと滲んでいく。その上にまた、わずかに違う、新しい色を静かに塗りつけていく。何度かそれを繰り返すと、キャンバスの色はだんだんと、浮き上がるような錯覚を見せる。
少しずつ、少しずつ……気の遠くなるような時間をかけて作業は進む。それでも君は文句一つ言わず、むしろ嬉々とした気分のまま、目を凝らし腕をしならせて絵を描く。君の描く新しい絵に、命の粒が次々と吹き込まれていく。
ある時は指で色を塗りつけ、またある時は塗りつけた色をかき消すように重ね塗りして、君の記憶の中で移り変わる絵の完成図を固めるように、君はその絵がじわじわと本物の風景に近づいていくのを見届ける。絵はまるで生き物のように、ふらふらと揺れ動いたり、また呼吸するように広がったり、狭まったりして、……。
――君が手を止めた時、ついに絵は完成した。
それはまさに君の頭の中にあるあの風景と同じだ。君がこの美術館へやってきて、何としても残しておきたいと思った、その風景が今、このキャンバスの中にある。
君の頭の中の意識の中の記憶の中の風景が、君の夢の中の美術館の中のアトリエの中に形を残した。上出来だ。君はそう思った。それからそのキャンバスを持って、適当な額縁を見つくろうことにした。
アトリエの奥には、もう一つ部屋がある。そこにはたくさんの素材が、道具が――そして君が、いつか残そうとして残せなかった風景のすべてが積まれている。
君はその部屋に入って――また奇妙なまでに懐かしい心地を味わいながら――、一つサイズの合う額縁を選んで、キャンバスをはめてみる。これで、本当に完成だ。
君はその絵を両手で抱えて、目を輝かせながらアトリエを出る。そうして、今までの君の過去が凛然として並んでいる廊下の壁に、出来上がった絵を押しつけてみて、……。
吸い込まれるような、現実の色。
君はここに絵を飾りに来た。きっと何か、素晴らしいことがあったんだ。あるいは途方もなく、悲しいことがあったんだ。良いことでも、悪いことでも、君がどうしても残しておきたいと、そう思った風景がここにあるんだ。忘れることは簡単だ、けれど覚えることは難しい。すべての思い出を一生覚えておくだなんて、それほど苦しいことはないだろう?
だから君はここに絵を、思い出を飾りに来る。
決して忘れてはいけない、忘れたくない、たとえ何気ない一瞬の時間だろうと、想いが色あせてしまっていようと、君がどうしても守りたいと思った思い出たちが、ここにある。
ここは君の美術館。君だけに、訪れる夢。
そして君だけの、かけがえのない世界。
美術館に夜が訪れる。箱庭の蓋が閉められる。ミニチュア模型のような世界だ、きっと夢とはそんなものだ。一晩経てば忘れてしまう。筆の柔らかさも、色の輝きも。だから、もしも君が、君の意識の根底にあるあの風景を忘れたというなら、今一度、君だけの夢の中で目覚めてみるといい。君だけの、君のための、君の中の夢の中で。そこにあるものは絵画か、オルゴールか、本の山か、……。いずれにせよ、そこにあるものは紛れもなく君の足跡と哀だ。
夢が終わる。今度目が覚めるのは現実か。君が現実に目覚め、夢に眠っている間、君の箱庭はいつかまた、君が君だけの宝物を抱えてやってくるのを待っている。君が次に夢に目覚める朝、箱庭の蓋を開けるその時がまたやってくるまで、君の軌跡は息を潜めてあたたかい暗闇の中で君を待っている。