悪意は伝染する
雨が降ると人が殺される。奇妙な殺人事件と、その裏に潜む真実。日常と非日常の隙間を漂うホラー短編です。
【注意】この作品には直接的な描写はありませんがホラー的な要素が若干含まれています。また、変にリアルに書いてる部分がありますので、現実と空想の区別を付けられない方には、この作品はオススメ致しません。
──悪意は伝染する。
顕微鏡をのぞき込みながら、そうポツリと口にした男の言葉に、はす向かいの席で同じ様に顕微鏡をのぞき込んでいた女は短く答えていた。
「へぇ」
「興味なかった?」
「あんまり……。むしろ今は条件に適合するサンプルの在り処のほうが大事かな……」
視界に広がるのはミクロの世界。そこは無音の世界、細菌達の世界。シトシトと降り続ける水の音は、人間達の世界。耳には今日も窓をぬらす雨の音が聞こえている。
そろそろ梅雨入りも近いのだろうか。ふと気になって窓の外に視線を向けると、数日に渡って雨を振らせ続けている灰色の雨雲は、今日も空を鉛色に染め上げていた。
「……今朝のニュース、見なかったんだ?」
「ノミさん、相変わらず日焼けしてたね」
「僕、サッパリしかみないからなぁ……」
「朝っぱらから、あのダミ声はきついでしょ……」
「ノミさんの“ドヤ顔”もキツイと思うけど?」
「ラジオの代わりにつけてるだけだからねー」
なんとなくしゃべっているが、お互いに相手の言葉など、ほとんど脳に入ってはいなかった。適当に聞き流して、あいまいに相づちを打ったり、なんとなく答えたりしているだけだ。そのため、内容はあるようにみえても実はなかったりする。単なる独り言の延長のようなものなのだろう。そう、大して意味をもたないやり取りの間なら……。
「五人目、だったね」
その一言に女は何も答えなかった。ピクッっと眉を少しだけ動かして、脳の奥の記憶野から新聞記事を引っ張りだして読み返してみただけだ。
「今月に入っては二人目だったかしら」
「うん。……被害者は全員が女性で、決まって雨の日の夜に襲われてるんだってさ」
最近、雨の日の夜になると、女性が何者かに襲われて殺されていた。それは何処か奇妙な殺人事件として世間を密やかに騒がせているという。もっとも、事件そのものは(えらく物騒ではあったが)内容は撲殺・刺殺・絞殺のいずれかと、さほど珍しい類のものではなかった。
実際のところ、今のように気味の悪い事件として騒がれるようになる前から事件そのものはニュースで何度も報じられていたのだ。
この事件が奇妙な代物だと認知され始めたのは、3人目の被害者が出た辺りからだった。犯行の手口こそばらばらであったが、被害者が女性ばかりであるという点は共通していたし、被害者が襲われた状況に少し似通っている点が見受けられた事もあって、一時期には同一犯による犯行、あるいはシリアルキラーなどによる快楽目的の連続殺人の可能性もあると見られていたのだが……。
「ほんっと、変な事件よね」
不幸中の幸いというべきなのだろう、犯人はそれからすぐに捕まっていた。凶器となった鈍器や刃物などにべったりと指紋が残されていたり、単純に目撃者が居たり、犯行の夜に犯人にだけアリバイがなかったりと、犯行そのものがけっこうずさんで衝動的な内容ばかりであったのが原因だったのだろう。そのため、現場から逃走していた犯人の手がかりも、その場に多数残されており、それらからすぐに身元が割れて犯人が見つかっていたのだ。
そういった事情から、事件の内容の悲惨さのわりには異例のスピード解決にもなっていたのだが、その結末に多くの捜査関係者は首をかしげたらしい。なぜなら……。
「五つの事件と五人の犯人。五つの犯行状況と五人の被害者。そして五つの凶器……。それぞれ時間帯や状況、手口や襲い方は全部ばらばらなのに。……でも、動機はたったひとつ」
──雨が、降っていたから。
そんな訳の分からない理由で殺されてはたまらない。これはある意味においては連続殺人として扱われていた。五人の犯人によるたった一つの共通点以外は類似点に乏しい独立した五つの殺人事件。それは、動機というただ一点においてのみ共通した特徴をもってしまっていた。それ以外には、この五つの殺人事件の間に関連性は見当たらず、薬物や特定宗教、政治思想や信念などといった分かりやすい線もなく、痴情のもつれや恨み辛みといった怨恨の線も薄いということだった。
そんな訳で、五件全ての殺人事件で犯人が既に捕まっているにもかかわらず、今現在も背後関係などを洗う捜査は続けられていたのだが、まだ事件の真相に至る手がかりの発見には至っていないという事だった。
「それで、何か進展でもあったの?」
「ううん。でも、今朝のニュースでさ。面白いこと言ってたんだ」
「なにか分かったって?」
「いや、被害者に共通する特徴があるんじゃないかって」
これまでは犯人の動機のおかしさ……雨を理由にした衝動的な殺人にばかり目がいっていて、殺された被害者に何か共通した点がなかったのかという線はあまり注目されてこなかった。それは盲点という訳ではなく、犯人が口にした動機から被害者側に何か襲われなければならない理由があった訳ではないというのが分かってきていたからなのだろう。
「茶髪の人を狙ったんじゃないかってさ」
そんな指摘に女は嫌そうな表情を浮かべていた。
「やめてよね」
「君はきれいな黒い髪なんだし、問題ないんじゃない?」
「問題あるわよ」
来週、美容院にいったときに染めようかなって思ってたのに。そう口にした女に、男はわずかに眉を動かして反応を見せていた。
「……染めるの?」
「季節的に黒のロングって“重い”じゃない」
かといって短くするのも嫌だから、せめて見た目だけでも重さが軽減できるようにと、軽く脱色しようかと行きつけのお店の美容師と話をしていたらしい。髪を傷めない程度に軽く脱色して、全体を軽めのブラウン系にしようとしていた矢先の出来事であったのだろう。
「でも、茶髪だから狙われたって何か変よね」
「最初は単なる偶然だったんだろうね。でも、次も同じならあえて同じ特徴の子を選んだか、あるいは単なる不幸な偶然と言えない事もない、かもしれない。……でも、その次も同じだっていうのなら、これはもうほぼ確実に偶然とは言えないんだろうと思う」
「……必然の一致ってヤツ?」
「そうなるね」
偶然はせいぜい二回まで。三回同じ事が起きているのなら、それは必然だったということだ。つまり、今回の事件のような場合には、何かしら理由があっての一致を疑わなければおかしいということになるのだろう。四回目、五回目も同じとなれば必然以外の何ものでもなかったのだ。
そういった点があえて報道されていなかった理由は不明であったが、何かしら捜査上の理由なり、犯人を尋問などする際の隠し玉として情報が秘匿されていた可能性もあったのだろう。もっとも、その点が今朝公開されている時点で、この情報は公開すべきと判断されたということなのかもしれないのだが……。そこまで考えた時、女には情報公開のタイミングの奇妙な遅さが、何か不自然なモノに感じられていたが、それを聞かれた男は軽く苦笑すると肩をすくめて見せていた。
「これを隠しておくメリットをデメリットがこえたってことだろうね」
「どういう意味?」
「この情報は、いわゆる模倣犯……。マネして人殺しに走る馬鹿と“本物”を見分けるための鍵の一つ。本物の特徴を隠しておく必要があったんだ」
これまでは。でも、それを隠しておくことで被害者が増え続けるのなら、さっさと報道ベースに乗せてしまって周知させたほうが良い。そういった判断が働いた事を意味していた。
「以上のことから、今現在の僕たちに分かっているのは、この街に雨が降ったらソレを理由にして誰かが殺されるってことと……」
「その奇妙な殺人事件の被害者になるのは決まって女であって、茶髪でもあるってこと?」
「たぶんね」
それが必然の一致であるのなら、逆説的には黒髪のままであれば殺されなくて済む事になる。
「染めるのやめたら?」
「……そうね」
フウとタメ息をついて。唇の端をキュッと持ち上げる。
「ずいぶんと髪を染めた女に恨みがあるみたいだけど、犯人の狙いって何なんだと思う?」
「わからない。そもそも真犯人なんてモノが本当に居るのかどうかすら……」
それでも分かることもあった。それは、きっと今日も被害者が出るのだろうということだ。そして、その被害者はほぼ間違いなく髪を脱色した女であり、そんな女を殺した犯人は「なぜ殺したのか」と警察で聞かれたら、きっとこう答えるのだ。「……雨が、降っていたから」と。
それはきっと、これまでの犯人たちと同じように。そして、これからの犯人達もきっと……。そこまで考えた時、男は自分の考えに苦笑するしかなかった。
「……なぜ笑ってるの?」
「いや、自分の考えが面白くってね」
どうやら僕は、この連続殺人はこれからも起き続けると考えているらしい。そう自分で感じている理由は、はっきりと言葉にするのは難しいにせよ、自分の中で何かを“理解”し“確信”してしまっている部分があるということなのかもしれなかった。
「そういえば話の途中だったね」
「話?」
「今朝さ。ニュースを見ていたんだ」
スタスタと硬い床の上を歩きながら、男は窓の側に歩み寄ると、そこで扉の鍵をあけて。カラカラと金属が鳴る音を立てながらサッシ窓を横にスライドさせて窓をあけると、それまで耳の奥を静かに、しつこくたたき続けていた雨の音がはっきりと聞こえるようになってた。それと同時に窓から湿度の高い空気も入ってきていたため、女は露骨に顔をしかめて見せていた。
「窓、閉めてよ。髪が湿気ちゃうわ」
「雨は、嫌い?」
開けっ放しの窓の枠に腰を乗せるようにして背を預けると、男は女に向き直って尋ねる。
「好きじゃない。湿度がうっとうしいし、髪も重くなるから」
「そうか」
背後を振り向くようにして視線を外に向けながら。
「僕はけっこう好きなんだ。とくに、雨音が良い。……リラクゼーション効果があるっていうか、聞いていて落ち着いてくる気がする。浜辺の音、雨の音、川の音。たまに滝の音も。……不思議と水の音ばっかりだね」
人の体は六割以上が水分で出来ているのだから水の音に親和性が高いのは必然なのかもしれないけど。そう評して見せる男の背後では雨がシトシトと音を立て続けていた。
「真犯人に心当たりがある。……そう僕が言ったら、君は信じてくれる?」
そんな男の挑発的な言葉に、女は少しだけ苦笑を浮かべて答えていた。
「ズバットのノミさんに連絡したら取材に来てくれるわね」
「公表する気はないんだけどね」
単なる暇人の邪推なんだろうし。そう言い訳がましく口にする男の口元には笑みがあって。
「でも、アナタは、その“妄想”に何かしら“確証”を得ている」
「……わかる?」
「長い付き合いだもの」
そう答えて、チシャ猫のようにニンマリと笑い返しながら。
「……それで?」
「犯人?」
「うん。教えて?」
「どれだけとっぴで変な発想でも?」
「普通の答えじゃないのを導き出したんだろうってのは分かってるから」
そこまで察してくれているのなら、どんなおかしな発想による推測だろうと話しても大丈夫なのだろう。それを確認できたら……。さて、この発想、思いつき、ひらめきをどういった言葉にして伝えればいいのだろう。男はコツコツとつま先で床をたたきながら考えこむと、たっぷり十数秒経過した後になって、ようやく口を開いていた。
「……“悪意”って分かる?」
「あくい?」
「負の感情っぽいヤツ。その中でも特別質の悪い代物。……強毒性の細菌みたいな」
窓枠に両手をついて、肩をいからせるような姿勢で腕に体重を預けながら。
「それが真犯人?」
「たぶんね」
「毒性の高い細菌の仕業って意味?」
「そういった性質をもつ“存在”って意味だよ」
もっと別の分かりやすい言葉を使えば意味も通りやすいのだろうが、その“悪意”は強毒性の細菌に近い性質をもっていて、その言葉で表現するのがイメージとしては最も分かりやすいと思ったから。そんな男の説明に女はどこか引きつった顔で首をかしげていた。
「……今ひとつ要領を得ないわね」
「じゃあ、具体例からいこうか。……君は人から強い悪意を向けられたことは?」
「あるわよ」
「まあ、君は美人だからね」
「ありがとう」
謙遜しないあたりが、いかにも君らしい。そんな男の言葉に女は苦笑を深くする。
「君は、その悪意を直接ぶつけられた?」
「ええ。学生の頃に校舎裏とかに連れて行かれて、ちょっとカワイイからって思い上がるなだの、勉強しか能のないガリ勉のクセして生意気なんだよって、言いがかりをつけられたわ」
顔も良くて成績もよくてスタイルまで良かったのだ。しかも比較的に小柄な方で黒髪のロングヘアが良く似合う和風な美人タイプ。……さぞ嫉妬の目を向けられたことだろう。そんな男の評価に女はくすぐったそうに苦笑を浮かべて見せていた。
「そんな風に褒められると、なんだか気持ち悪いわね」
「そう?」
「ええ。でも、アナタの目に私がどう写ってるのかを計る良いデータにはなってくれたけど」
いちおうお礼は言っておく。その言葉に男は肩をすくめて「どうもいたしまして」と苦笑を返していたのだけれど。
「それがどうかしたの?」
「いや、その時のことを思い出して欲しいんだけどね」
「……思い出したくないわ」
「まあ、まあ。ちょっとだけでいいから」
「……ええ」
「その君をひがんでいたり、ねたんでいた女の子たちなんだけど、直接ぶつかりあってた子の他にも、影で君の悪口をコソコソ言っているような、陰険で陰湿な陰口組もいたんじゃない?」
「いたわよ。……でも、そんなのにまで真面目にとりあってたら疲れるだけだから、ずっと無視してたけど」
「なるほどね。それじゃあ、その子達全員のことを見渡すようにして考えみて欲しいんだけど」
少しだけ間をあけて。
「その子達って、増殖してなかった?」
その言葉の意味はすぐには伝わらなかった。
「あの人たちがアメーバかプラナリアみたいに分裂してくれるような、かわいげのある面白い生き物だったなら、もしかするとモテナイ君なんて言葉は、この世界には存在しなかったかもしれないわね」
「言い方が悪かったか」
そういう意味じゃないと、そぶりで見せながら。
「君の事をねたんだり、ひがんだり、さげすんだり、憎んだり。そういった質の悪い感情を発する個体……。この場合だと、君に最初に因縁をつけてきた子とか、君の悪口を周囲に向かって発信し始めた子になるのかな。その子はともかくとして、その周囲に居た他の子は、最初から君のことを悪く思っていた訳じゃないと思うんだ」
いきなり全員から嫌われるはずがないのだから、始まりになった『そういった行動をとるようになった個体』は居たはず。その指摘に女はわずかに考えこむようにしてうなづいていた。
「その最初の悪意の発信源になった子から、周囲の子達は、何かしら影響を受けてなかった? 感化されたり、影響されたりして。……その子と似たような負の感情の波動を……。同じような悪意を君に向けてくるようにならなかったかな? さらに言えば、最初の発信元になった子達の悪意の強さは、そのことで増大していったんじゃないかなって思うんだけど」
その言葉でようやく男の言いたかった言葉の本当の意味が分ったのかもしれない。
「つまり、質の悪い伝染性の病原体に感染したように、感染者が一人から二人、二人から四人といった風に増えていって、それが次第にグループを形成する様になって、他の感染者を生み出さなかったかって?」
「うん、多分、そうなってたんじゃないかなって愚考する訳だけれど」
それは確かに細菌による感染モデルに類似していた。
「そこまでひどい感染爆発は起こしてなかったと思ったけど……。でも、多少なりとも、その傾向は見られたわね」
そこまで話して、なぜ男が最初に悪意を細菌に例えていたのかを理解したのかもしれない。
「ああ、分かった。その子達は、悪意という名の病原体に感染したって言いたいのね?」
「うん。この場合の悪意の正体は『君に対する嫉妬からくる反発』だけどね」
──さっきも言ったろ。悪意は伝染するんだ。
うっすらと笑いながら。そして。
「話を最初に戻そう。今回の連続殺人の真犯人の可能性が高いと考えられる“悪意”。その正体は特殊な条件下でのみ発動される『衝動的な殺意』。……そんな極め付きに質の悪い、強毒性な細菌に似た性質をもつ代物だと考えられる」
その指摘に、女はあきれた風に答えていた。
「言いたい事は分ってる気がすると思うんだけど。……もしかして、犯人を検査したら面白い細菌が見つかるかもって、さっきから言ってたの?」
「どれだけ探しても、そういった細菌はみつからないよ」
一応程度にリアルな意味での細菌の仕業と言っているのかと確認してみた女に、男はさすがにそこまでトチ狂った事を言ってる訳じゃないと否定してみせていた。もっとも『つまらないことに』と、最後に付け加えた辺りに男の本音が見え隠れしていたのだが。
「でも、考えようによっては、そっちのほうが厄介なのかもしれない」
「どういうこと?」
「僕が悪意を細菌に例えたのは、感染に似た広がり方を見せるからって理由だけじゃないんだ」
細菌は目に見えない。少なくとも肉眼では視認できない。今の時代なら顕微鏡のおかげで細菌も見ることが出来るようになっているが、昔はそれらは“悪魔”の所業とされていたのだ。当然、そういった時代には防疫の心得なども未発達で、人々は病原体を前に成す術なく倒れていった。悪意は、そういった性質や側面も併せ持っているから。だから悪意は細菌に似ている。そんな男の言葉を女は黙って聞いていた。
「この目に見えない悪意という代物の一番厄介な所は、目に見えない部分に巣食って宿主に多大な影響を与えながら、周囲の人間にも感染して広がっていく傾向があるって所なんだと思う」
「目に見えない部分……」
「心だよ」
頭を人差し指で示しながら。
「……心って頭にあったのね」
「はい、そこ。揚げ足をとって話の腰を折らない。……でも、心臓なんかよりは、まだ“ありえそう”な場所だろ?」
「アナタも魂や心なんて代物は、単なる錯覚によるもの……。反射行動と電気信号をやりとりする脳内回路によって構築されたプログラム的構造によって実在していると錯覚しているに過ぎないって考えているクチ?」
「それじゃあ余りにロマンがなさすぎる。それに……」
心が実在しないとなると、僕の理論は根本を失ってしまって崩壊してしまうだろう? だから心はちゃんと実在していてくれないと困るんだ。そうニッコリ笑ってみせる男に女は両手を上げて降参といったしぐさを見せていた。
「この心に巣くう悪意ってヤツの厄介な所は、それに感染していることが他人はおろか本人にすら分からないってことだね」
「まあ、精神の変質ってヤツには、本人はなかなか自覚症状はないんだろうけど……」
そこまで考えた時、女はふと何かに気がついたらしい。
「悪意があるのなら、善意もあるのよね?」
「もちろん。どれだけヤラセ臭くても、二十四時間テレビとかで頑張ってる姿とか見たり、感動するようなエピソードを聞いたり、百キロマラソンとか頑張ってる姿とかをテレビとかで、ああやって見せられたりすると、不思議と心が洗われる気がするだろ? まあ、お手軽にスポーツとかで自国のチームが頑張ってくれてる姿を見るのもいいと思うけど」
そこまで口にした時に、男はため息混じりに言葉を続けていた。
「でも、その後のニュース番組とかで中和されてるから、実際にはあまり意味がないのかな。……ああやって、世の中に犯人の“悪意”を電波に乗せてまき散らかす手伝いをしているってことを、連中はきっと認識すらしていないんだろうけど」
模倣犯、シンクロニシティ。その現象の言い方はいろいろあるのだろうが、特定の犯罪が大きく報道されるとき、その犯罪が個人の手によって再現が可能である場合に限って、類似した犯罪の呼び水となりやすい性質をもっていた。
例えるなら、どこかの街で食品に異物(針などだ)が混入されて、それがニュースで報道されれば別の地域でも類似した犯罪が頻発したりといった具合に。その他にも、どこかの街で衝動的な刺殺事件や刃物による傷害事件が起きたとしつこくテレビなどで報道されれば、別の町でも同じような事件がおきたりするものなのだ。……酷い時には幼い子どもが被害者となる暴走車両による危険運転による致死殺害事件なども類似犯が続発しやすいケースなのである。
その主な原因は最初の犯人の抱え込んでしまった異常なレベルに肥大化した“悪意”に感染された事による行為であり、その主な感染経路は詳しい犯行状況や犯人の思惑、当日の行動や犯罪の手口、準備の内容に至るまで事細かく、それこそ『こうやったら良いんですよ』とばかりに、しつこいくらいに丁寧に解説してくれるテレビ番組によるものだと男は考えていた。
「……こう考えたら、テレビばっかり見てると頭が悪くなるぞって言葉は、案外本当の事なのかもしれないな」
その言葉に苦笑を浮かべながら。
「そうやって、悪意も善意も両方同時に患うのね」
「そりゃあね。この世には、純粋な悪が存在しえないのと同時に純粋な善も存在しえない。心にくらいつく不可視の細菌ってヤツにも良いのもあれば悪いのもあるよ。それが世界の原則ってヤツの一つなんだと思うんだけどね……」
でも、と。視線を外に向けながら。言葉をポツリと口にする。
「今回は、ちょっと違うのかもしれない」
シトシト振り続ける雨の音を聞きながら。
「何ら確証のない妄想レベルの考えにすぎないけど、僕は人間とは他者から照射される悪意や善意の波動のようなモノに影響を受けて心の在り方を自在に変質・変容させる生き物なんだと考えている。いわゆる、善意や悪意への感染ってやつだ」
だからこそ、人は自らの心に縛られながらも、それと同時に自らを変えていくことが出来るようになっている。良きにつけ、悪きにつけ、人は変わっていくのだ。そういった生き物であるがゆえに。そして、そうなっているからこそ……。
──人は“他者”を愛することが出来る。
それが理解できるからこそ、恐ろしくも感じていたのかもしれない。男は、自分のことを見つめてくる女から視線を逸らしながら、小さく、ポツリと口にしていた。
「……今回の悪意は……。あまりにも濃い」
それの照射を。洗礼を浴びてしまうと、誰かを殺さずには居られなくなるほどに。それくらい酷い影響を与える悪意の強さが際立っている。そう自嘲して見せていた。
そんな時のことだった。窓の外からサイレンの音が響いてくる。それは地元自治体が夕方になると鳴らすようになった夕刻の知らせであり、さりげなく『雨の日なので、茶髪の女性はさっさと帰宅して家でおとなしくしているように』という警告の意味を併せ持つ“お知らせ”にもなっていた。
「わかった」
そんなサイレンの音を遠くに聞きながら、女は一つため息をつくと男に笑いかけて見せていた。
「約束するわ。私、髪、染めない。このままにしておく。……それで良いんでしょ?」
自分のことを心配してくれている。それを察する程度には付き合いの長い二人だった。
「そうしてくれると心底ありがたい」
「でも、そんなに、この黒髪が好きなの?」
そう自慢の黒髪を一房持って、薄く苦笑を浮かべながら。改めてそう聞かれてしまうと、そういった質問にはなかなかに答えにくいものなのかもしれない。
「そりゃあ、まあ……。艶も凄いし、すごく奇麗だと思うし、似合ってるんじゃないかと……」
「アナタが黒髪フェチだってことはよく分ったわ」
「そ、そんなつもりで言ってる訳じゃ!」
「わかってるわよ。……うん。ごめんね。心配してくれてるんでしょ」
ちゃんと分かってるわよ。いろいろと。そう表情で語られては、もう何も言えないということなのだろう。わずかに頬を赤くして黙りこむと、男はガリガリと頭をかいてみせていた。
「たのむよ、ホントに。……本気で心配してるんだから」
「うん、分かってる」
照れる男に、ニッコリとほほえみながら。
「今日、どこか寄って行かない?」
「さりげなく、アナタのおごりでって聞こえた気がするんだけど?」
「仕事を延々と邪魔されたおわびってことで……駄目?」
「……まあ、君の仕事を邪魔しちゃった自覚はあるからね」
いいよ、どこに行く? いつものお店で良いんじゃない? そう? うん。
そんないつものやりとりをしながら手早く手分けして部屋を片付けながら、二人で帰ろうとしていたのだが……。
「あっ、あそこ。窓、あけっぱなしになってる」
「……しまった。さっき開けたままだった」
いよいよ部屋の電気を消して扉を施錠しようとしていたタイミングになって、部屋の一番奥にある窓……さっきまで二人が居た所のサッシ窓が開きっぱなしになっていることに気がついていた。そうなれば、施錠する前に誰かが閉めに行かなければならないのだが。
「開けた人が閉める」
「だよね」
「私は最初から、閉めなさいよって言ってたんだしね」
「そういや、そうだったね」
「てことで。はい」
目の前に差し出されるのは部屋の鍵。どうやら最後の施錠まで任せるということらしい。そんな訳で、男は苦笑しながら足早に窓を閉めに行った。そして。カラカラ、ピシャっと扉を閉めると、振り返って笑ってみせる。
「これでよろしゅうございますか?」
「ヨロシイ」
背後を振り返るようにして、そう答えた女が、すぐに視線を外して。男の目から隠すようにして背を向けると、手にしたコンパクトで手早く化粧を直していたりするのを視界に収めながら。
──トクン。
明暗差というのだろうか。天気の悪さと時間の遅さ、もともとの日当たりの悪さなどの複合した条件のせいもあって、ひどく薄暗い部屋から照明のついている廊下は随分と明るく見えていた。
──なぜ……。
そんな視界に写る女の黒髪は、十分な艶によるものか表面反射光によって強く光を反射していて、白く輝く天使の輪が出来あがっていた。そして、もともとの髪質などによるものなのだろう。その頭頂部は薄い“茶色”に浮かび上がって見えていて。耳に届く雨の音は、なぜだか妙に大きくなってきていた。
──違う。これは雨の音じゃない!
窓を閉めたはずなのに。音はほとんど聞こえていないはずなのに。それなのに……なぜ、こんなにザアザアと鳴り響く音が聞こえているのか。自らの耳をとっさに片手で抑えても音は小さくならず、男には直感で今の状態が理解できていた。……これはきっと血管を流れる血の音だ。だが、問題の本質は、そんな事ではなかったのだろう。この異常な血の流れる音の原因は……。この症状は。この状態は。そして自分の体に何が起こっているのか……。
『発症』
脳裏に浮かび上がる二文字。それは“伝染”による“感染”の後に必然として起こるはずの出来事だったのだろう。ほほえみと供に手にした顕微鏡の重みを確かめながら、男は唐突に“それ”を理解していたのだった。
この物語はフィクションです。実際の人物・団体・事件とは一切関係ありません。