眼鏡
『ヒナゲシ……!』
子精霊が堂々身の回りに出没するようになったことで、その親精霊たちもまた、ちょくちょく出没するようになった。
瞬間移動出来るのか何なのか、こうして背後に立たれることも多い。その度びくりと身を震わせているんだから、もうちょい離れたところに出没してくれるとか、声をかけるとかしてくれないだろうか。
「……緑のおにーさん、今日は何ですか」
赤いおにーさんは主に雑談で訪れることが多いが、この精霊は違う。勉強に勤しむヒナゲシを全力で邪魔するのだ。
後ろを振り返ると、もはや見慣れた爛々とした目にゲンナリする。知的好奇心が旺盛で、正直言って脳みそ吸い取られる気分になるくらいだ。日々異国の言葉に苦心しているのに、それを無にする勢い。やめてくれよ。
『ヒナゲシ……それは何です?』
「それ? どれ?」
答えながらああこりゃ今日もヤバいな、と思う。重箱の隅を突つくスイッチが入ってる。
頬が桃色に染まっている。私が好きなわけじゃない、興奮に身を震わせているのだ。男の興奮は本当ろくなことがない。
インクをつけるタイプのペンを放り、コキコキと肩を回す。すんなり読める本を読んでいるわけじゃないので、疲れる。
ガッ。
「へ?」
『それ……! その、鼻に掛けてるものですよ!』
「は?」
精霊と言えど成人男性の肉体を有する存在である。大きな筋張った手のひらを肩に乗せ、がっくがっくと揺さぶられれば軽い私の体など、嵐に翻弄されるように揺さぶられる。やめて。お願い。周りの景色揺れてっから。
「え、あー……眼鏡? あれ、この国眼鏡あったよね?」
確か大学院のような学術研究の集まりの中では珍しくも何ともなかった筈である。
『眼鏡? それは眼鏡なのですね?』
「そりゃまぁ、こんな鼻に掛けるものなんて眼鏡以外にありえないんじゃ?」
『素晴らしい……これが異世界の眼鏡!』
「うっわあ!!」
見目麗しい顔が眼前に迫り、悲鳴が出た。
寄越せと言われれば素直に手渡すのに、何で至近距離に近付いて眺めるの。まつ毛の長さとか涼やかな緑の瞳とか高い鼻とかくち、薄い唇が目の前にぃいいいい!!!
身長差があるためか、ヒナゲシが逃げ腰だからか、右腕は腰をホールド。左手は顔の横、黒髪に絡ませ頭を固定。見ようによっては、これってこれって……
『ヒナゲシ、お待たせしまし……ったぁああぁあ────!!???』
扉を開けた翠が大絶叫。
親の寝室を覗いた心地だろうかとか思ったのは現実逃避である。
『まったく、翠はいつまで経っても落ち着きがありませんね』
ふぅー、やれやれ。そんな緑のおにーさんの様子を翠が胡乱げな顔で見ている。実情を先ほど説明したのだが、親の素行に疑問を抱いているらしい。同感だ。
『それにしてもこちらと同じ眼鏡にしては随分素材が違いますね。クリスタルでも金属でもないでしょう?』
「樹脂ね。折れやすいから曲げないで。レンズはガラス。作り方は知らない」
知的欲求を満たしてやれなくて申し訳ないが、名称は知っていても素材の作り方など知る筈がない。その辺はぜひ諦めて下さい。
「それ一個しかないから分解しないで。お願い」
私の視力は左右で差がある。右が良いのでなくても周りに気付かれることはないが、こうして時折眼鏡をかけないとバランス感覚が悪くなるのだ。日本に戻れない以上これだけが頼り。間違っても壊されるわけにはいかん。
『……ふむ』
壊さないで発言に残念な顔をされたのが気になる。そして眼鏡をじっと眺め、何かを考えているのが非常に気にかかる。本当に大丈夫だろうな?
「ちょ、緑のおにーさん暴走しようとか考えてるんじゃ」
『……諦めた方がいいと思う』
「そんな!」
どこか面白そうな顔になりつつある親精霊のその様子に、翠は既に遠い目をしてる。今までどんだけこういう心境を味わってきたのだろう。哀れだ。ってか今現在私が哀れなことになりそうになってるのか。
『ふぅむ……ヒナゲシ』
「な、何?」
『一つ魔法を覚えて下さい』
え?
虚を突かれ、目が点になった。
え、魔法? 何で?
あえて言うまでもなく、今の私はようやく魔法の勉強が実践編に移った若葉マークの初心者魔法使いである。
魔法エネルギーの維持すら覚束ず、ガートンの手を煩わしている状況である。魔法をまともに使うどころの話ではない。
「魔法って……何の?」
『簡単ですよ』
満面の笑み。100点満点の微笑み。の、筈が。
『ヒッ!』
隣に座る翠が真っ青になりながらヒナゲシの腰に食らいついたのが気になる。
『形写しの術ですよ』
「かたうつし?」
『要するに同じ物をもう一つ作る魔法です』
「ああ、コピー」
こちらの印刷技術はまだまだ未発達で、日本で便利に使っていたコピー機は存在しない。しかし魔法は発達しているので、こういう変な技術は存在するらしいのだ。
「まぁ、あれば便利か」
『便利ですよ』
ガートンに習っているのは風を少し起こしてみるとかチャッカマンみたくちっちゃな炎を出してみるとかなので、たまに違った魔法を試してみるのも良いかもしれない。正直ちょこっと飽きていた。したり顔でヒナゲシならやれる出来る一度やってみろと唆す精霊がいたからかもしれない。うん、と頷いていた。
「どうやれば良い? 決まった呪文とかある?」
『特にはありません。物をよく見て、全く同じ物出ろと念じるだけです。ああ、カッコつけたければ何かポーズつけてみても良いんじゃないですかね』
「ポーズねぇ……」
対象物は日頃使っている自分の眼鏡である。色、形、重さ、全てにおいて把握している。魔法エネルギーを物に変えれば化けるのかな。
「えーと」
既に火をイメージしなくても、何かエネルギー的なものを感じ取れるようにはなっている。完全コントロールが出来なくて苦心しているわけだが、瞬間的にそのエネルギーを捕まえることは出来る。その瞬間を狙って……
「そいやあっ!」
両手を突き出し、少しでも魔法エネルギーが体から出て行くように促す。
──眼鏡出ろ!!
体内にあった力が、ふよふよと腕を伝って体の外へ押し出されていく。やけにゆっくりなのは私の魔法力が足りないのか、スキル不足か。
ぽにゃん。
間抜けな音が聴こえた。
目前にあるのは愛用の眼鏡。……だけではなかった。
「ありっ?」
力不足かイメージ不足か。色素の抜け落ちた眼鏡が並んでいた。
「おっかしいなぁ」
ヒナゲシが愛用している眼鏡はごく簡素な作りをしている。フレームは無いし、ツル部分は淡いカラーの入っただけの半透明樹脂。再現性は高いのではないかと思ったが、こうして出てきたものと並べると色が違う。何で?
『ほほう。さすがヒナゲシ、一発で会得しましたね』
ツル部分の色が抜け落ちたコピー眼鏡を手に取った緑のおにーさんが、しげしげと折り畳んだり伸ばしたりレンズ越しの世界を覗き込んでいる。愉しそうだ。
「うん。普段あんだけコントロールし損ねてるのにコピー魔法はあっさりだったね」
びっくり、びっくり。
とりあえず三回くらいは連続で試してみようと考えていたので、拍子抜け。そう言う私を奇妙な顔で翠は見ている。
『え、おかしいでしょ、形写しの魔法だよ? あれって魔法の教科書にも載ってない禁術魔法なんだけど。リスクばか高の魔法の筈だけど』
「翠……?」
『ヒナゲシって実は凄いの?』
「は?」
『というかリスク説明いっさい無かった師匠に戦慄した』
『翠? 口の軽さは身を滅ぼしますよ?』
『……』
ついには眼鏡をかけたご機嫌な親精霊がぼそぼそ呟く子精霊を黙らせた。翠、顔色悪いよ。
何のために私にコピー魔法を覚えさせたかはわかっている。自分の眼鏡を再び掛け直しながら横目で見ると、同じように掛けたまま。……精霊に視力ってあるんでしょうか。瞳孔すらありませんが。
お揃いですね、と新しいオモチャをもらったかの如く喜ぶ親精霊。眼鏡をかけてインテリ化した。
──まぁ、一つ使える魔法覚えられたし、良いか?
安易に思った自分が薄氷を思い切り踏んづけていたと知るのはその夜のこと。
「……………………は?」
『形写しの……まほう?』
いつもの食事時。もはや当たり前になってしまったリーゼシアさんの部屋での晩餐は、私と緑のおにーさんの顔面に人の目を集めた。食い難いよ!
「ヒナゲシ、それは……」
「あ、うん。向こうの世界の眼鏡」
原料と仕組みは知らないス。
恐る恐る問い掛けてくるリーゼシアさんに答えると、ガートン先生(独りでご飯食べてると聞いたので誘いました)が馬鹿な、と口の中でモゴモゴと呟いた。
「形写しの魔法は宮廷魔導師も使えん今や口伝で伝わるだけのもの。ど、どう成功させたんじゃ?」
「え。普通にこう、眼鏡出ろーって」
「嘘じゃろ……」
眩暈を起こしたかのように額に手を当て呻いている。それに対し、水色のおねーさんと赤いおにーさんが詰め寄っている。
『おい、緑の。んな禁術を何っでヒナゲシに教えた?』
『危ないでしょう! 失敗していたらヒナゲシがどうなっていたか!』
「え、どうなってたの?」
慌てている二人を見るに、彼らの言う失敗は私の考える失敗とは違うみたいだ。困惑顔の私を見て、黄色の親精霊がにたっと笑った。
『禁術と言われる魔法の類は失敗がシャレにならん場合が多い。上級魔法の中に指が破裂するものがあるくらいだ。わかんだろ?』
ちょ、このおっさん今怖いこと言った。指の破裂って何。それが許されてるなら禁じられてる魔法って一体。
引きつった顔で緑の親精霊を見ると、ニコッと微笑まれた。神々しい。
『大丈夫。出来たでしょう?』
「うわあああ失敗した時のこと考えてねぇええええ」
ま、まさかとは思うが好きに出来ないのがもどかしくて魔法教えたわけ、この精霊? うっわ、ひでぇ! つかこえぇ! 何この鬼畜っぷり!
サーッと血の気が引く私の側で、俯く翠。親精霊の傍若無人っぷりに消えたい気持ちになっているのかもしれない。
「よく無事で……」
肉椅子にしてるクリスが私の頭に顎を乗せた。よしよしと撫でられるが、心臓はドッドッと早鐘をついている。曲がり間違ったら今日の晩餐に私はいなかったわけで。
「緑のが勧めたからには勝算はあったんだろうが」
寿命が縮んだ、とオースティンは食卓に沈んだが、ヒナゲシは本当に寿命を縮めるところであった。何この綱渡り人生。知らぬところでデッドorアライブ。
ひぃいいい、と室内の体感温度が一気に下がった後で。それでも彼らはこういうのだ。
「あ、後で同じの作ってくれんかのう?」
『緑のだけがヒナゲシとお揃いだなんて狡いしな!』
「俺は黒が良いなー」
『みんなでメガネですぅ~』
あれ? 本気で心配してくれてる?
ちょっと気になった。