とある思想者の談
ヒナゲシがこの世界に現れたことで、変わりゆく──
そこは暗い地下の一室。
ジメジメと湿度が高く、空気も悪く、換気も出来ていないここは、どこか地下牢を思わせる。
さほど掃除の手も入っていないのか、埃も積もっていて、小一時間居ただけで体が蝕まれそうだ。
だが、仕方ない。自分たちの為すべきことは人に知られてはならないのだから。それでも続けなければならない。我ら同胞のために。
──待っていてくれ。今しばらく。後しばらくで。
人目につかないよう隠れ続けてどのくらいになろうか?
昼は太陽の下、人当たりの良い仮面を被り続け、夜はこうして地下に引きこもる。明らかな睡眠不足と栄養不足で目は血走り、顔色は悪くなっていた。だがこれも、全ては同胞たちのため。我らが想いの全てをこれに託さなければならない──!
「リスト? リステイン? おい、大丈夫か?」
昨夜はついに一睡も出来なかった。期限が近付いているのだ。食事を摂る時間すら惜しい。
そんな生活をここ三日ほどしていたからだろう。日中の日差しが耐え難く、鍛えた体がゆらりと揺れてしまったようだ。腕をとった同僚が、心配げに顔を覗き込んでいた。
──やめてくれ。
その純粋に自分を心配してくれる好意が耐え難く、仕事中にも関わらず集中力を欠いた自分に情けなどかけないで欲しかった。
きっとこんなことは同僚も家族も騙していることになり、許されないことなのだろう。だが、どうしても。例え国家に反逆罪と問い詰められようが、俺には成さなければならぬことがある。
「ここのところ、辛そうだ。リスト、俺に話せない悩みを抱えているのか?」
「……そんなことはない」
「なら何故こちらを見ない!」
後ろめたいからだ。
そうハッキリ言えたらどれだけ楽だろう。だが、駄目なのだ。この目の前の優しい同僚は、きっと俺のこの国に対する要望や願望を知れば幻滅するだろうから。
痛いほどの視線を感じつつも、目を伏せ言葉を濁した。
きっと自分の同胞たちも、同じように耐え難い時を過ごしているのだろう。ああわかるとも、辛いよな、悲しいよな。理解して欲しい友人や家族に明かせない俺たちの心根──疚しいことなど何一つないというのに。
俺たちはただこの国をもっと豊かにしたいだけだ。物理的にだけでなく、心も。そのためにはこの思想は途絶えさせてはならない。
そうして俺は今夜も地下室へと足を運ぶ。ちゃんとした部屋を借りられれば良いが、家族に知られてはならないし(万が一のことを考え、迷惑はかけたくないからな)、やむなくこうした劣悪な環境に身を置いている。
だが、構わない。目的を為せるならば、どんな埃だらけの部屋でも贅沢を言う気はない。同胞の中には、家族の目が厳しく、涙ぐみながら謝罪する奴もいるのだから。
ガタがきている机に張り付き、昨夜の続きを行う。資料がないためあまり正確には書けないが、致し方ない。
「くっ! 目がそろそろ限界、か……」
腕もとうに限界を迎えている。
だが、あと少し、これを仕上げれば、俺は──!
「終わっ、た……」
日の出を眺めながら、達成感を味わう。
そう、これだけのことをやり遂げたのだ。いや、最後にまだやらなくてはならぬことがある。急がねば……。
よたよたと体力の奪われた体で、日の下へと駆け出す。目指すは、大学院と魔法院の中間に建つ建物。そこに駆け込みゴールテープを切って、初めて俺の努力は報われるのだ。
「っは、はぁ、はぁ……っ」
剣の腕は立つと自慢に思っていたが、井の中の蛙だったようだ。太陽の下、自分より遥かに若い小僧が同胞にバトンを渡すべく、しっかりとした歩みで一歩一歩を踏みしめていた。騎士の俺より大学院の人間が何故体力が有り余っているのだ。
「おや、リストさん。その様子では締め切りに間に合ったようですね」
「ああ。俺が倒れるわけにはいかぬ」
「あなたが穴を開けて下さっても、僕がカバーできましたけどね」
くすっと笑ったその手には、規定より多い枚数の紙。
「馬鹿を言うな、今回の特集は首輪だぞ。誰がこんな大事なテーマを他人に譲るか!」
俺が赤い皮の首輪に懸ける想いを知るまい。どれだけのこだわりがあると思ってるんだ? まかり間違って柄物や紐で済ますなんて寄稿する奴がいたら俺が叩かねばならないだろう!
「ふっ、相変わらず首輪は赤に無地ですか。頑固なのは結構ですが、新しいものを取り入れる柔軟さも肝要だと考えますよ」
「何を馬鹿な!」
喧々諤々と崇高なる論議を交わしていると、もう既に同胞たちがボロボロになりながら担当の人間に原稿を渡す列が出来ていた。
「ええ~っと、リステインさんですね。規定分の入稿、と。はい、確かに承りましたよ」
最終チェックを終えた俺は同じくチェック終了に安堵の笑みを浮かべている仲間たちの元へ行く。
「よぉ、今回は早いな」
「おっ、リストもようやくか。ま、あんまりギリギリだと冊子化担当者も泣くからな。今回は新人の参加も多いし……」
そこへ悲鳴が響き渡り、俺たちは微笑む。
「規定違反か?」
「いや、指定のペンじゃなかったんだろう。俺も一回やった」
「紙のサイズが違ったんじゃないか? 初回参加者はよくやるだろう」
ははは確かに、と笑い合う俺たちは歴戦の勇者だ。ありとあらゆる想定外のトラブルを経験してきたからこそ、今この時も落ち着いて構えてられる。
「しかし今回はいつものテーマより一層マニアックでしたね」
「首輪かァ~、俺はあんまりこだわんねぇな」
「ばっか、そこもこだわってこそだろ!」
「えー、一番大事なのは身につけてる猫ちゃんだろ!」
数々の嗜好を持った者が集まるので、同じ会の同胞でもこういう言い争いがままある。譲れないことは誰しもあるが、そこは同じものを求める同胞である。
「でも、やっぱり今一番首輪も猫耳もつけたいのは~……」
「ヒナゲシちゃんっ!!!」
見事重なり合った言葉に、噴き出す俺たち。
きっと原稿の幾つかはヒナゲシ嬢が猫耳猫尻尾をつけた絵だったり、物語だったりするのだろう。俺は短文に絵をつけたが、他のメンバーの描いた絵も文も楽しみだ。
「今年の流行りはやはり黒猫だな」
「ああ、今回の『猫耳のきもち』表紙は大絵師ミロ様がヒナゲシちゃんを描かれるらしい」
「何っ……だと!?」
「ミロ様のあの繊細なタッチでヒナゲシちゃんを紙の上で再現するのか……? た、楽しみ過ぐるだろそれ!」
「うわぁーっ、もう俺仕事できねぇ!」
そうか、今号の表紙はあの黒猫ちゃんなのか。ふっ……実に愉しみだ。
猫耳猫尻尾を愛する会の活動は、ここのところ活発である。
元々薄い冊子を発行していたが、それが今号で大増ページ、しかも表紙はヒナゲシが決定した。
常ならば地下にこもり部屋から出ず家族すら避けて入稿に走っていた面子は、今ようやく日の下に現れようとしていた。
黒い艶やかな髪に黒猫を見たという同胞が増えたことと、その彼女の手触りや味を確かめたツワモノが現れたからだ。
オーレン・リッター。熱い想いが迸り、入稿期限三日前には原稿を終わらせたというベストアスリートだ。
変態だその嗜好、と呼ばわれながら、あるいはそう呼ばれることに怯えながら、俺たちはこの想いを温めてきた。けれどきっとヒナゲシが現れたことで、新時代の幕開けが訪れたのだ。
「『犬尻尾のきもち』には負けてられないな……」
「ああ!」
会員数100を超え、優秀な人材が集う大学院や魔法院にもファンが増えた時。
彼らが知る由もない印刷技術がこの世にもたらされるのは、あともう少し──……
──人も、物も、技術も。