魔法瓶
恐怖から始まる森林浴であったが、着いてみれば特にファンタジー色のない、実に穏やかな時間が流れていた。
耳に入ってくるのは、木々のざわめきや鳥の鳴き声のみ。人の手が入っていない自然というのは、きっとこういうものなのだろう。
「ヒナゲシ、湖だ」
「うっわ……」
必要以上に大きな音のしない森の中を少し歩くと、木々に守られるように波一つない水面が現れた。
あまりに透明度が高く、空の色と生い茂る葉がそっくりそのまま映り込んでいる。日常と隔絶されたその景色に、目が奪われた。
ひょっとしたら、この場所はとても神聖なのだろうか? ユニコーンのような人嫌いの生き物が棲んでいて、国王のようなごく限られた人間しか立ち入れない場所かもしれない。だってこんなに綺麗なんだもの。
どきどきと乙女のようなことを考えていると、無造作に結った髪を背中に流したオースティンが、靴を脱ぎ、足を浸した。
「…………」
「気持ち良いぞー、ヒナゲシ。わはははは」
ですよね。そんな乙女展開ないっすよね。国王様の保養所か何かですよね。
一頻り水場で遊んだ後、持ち込んだ水筒やお弁当を取り出す。村ではロンリーだったため、用意は物凄く楽しんでしまった。重箱ならぬバスケットの山である。
『ヒナゲシとお弁当作ったですよぅ~』
えへへへへと笑う青子とリーゼシアさん、そして私の三人の力作である。もちろんこちらの料理など作れる筈も無いので、サンドイッチがメイン。あと何かわからない肉で唐揚げ、じゃがいもっぽいのがあったのでポテト。デザート用に適当に実らしきものを切り分けてきた。
「美味い」
「ありがとー。はい、お茶」
こちらの世界に持ち込んだ水筒で全員分の茶を注ぐ。実はこのステンレスボトルでも、一悶着があった。
出かけ前のことである。
外でも温かいお茶が飲みたくて、この異世界産の水筒を持ち出した。
だがよく考えてみて欲しい。同行者は精霊含めた十人超えである。足りるだろうか? 足りるわけがないのだ。
元々村で孤立していたヒナゲシである。あくまで自分のための自分の水筒なので、容量は350mlしかない。これでは全員行き渡らないし、お代わりも出来ない。
ううーん、と。ステンレスボトルを前に、唸っていた。
そこへ閑職宮廷魔導師のガートンがやってきたのである。
既に親しい間柄なので、何となく訊かれて何となく答えた。するとふむ、と一つ頷いたおじいちゃん先生は、つるりとステンレスボトルを撫でた。
一撫で。二撫で。ほい完了。
──は? へ? な、何が?
困惑しても仕方ないだろう。ガートンは何か難しい呪文を唱えたわけでもなく、杖を出したわけでもなく、単に水筒をつるりと撫でただけなのだから。
ところがどっこい。この閑職魔導師は、たったこれだけの動作で水筒をトンデモ水筒にしてくれた。
──容量無制限の水筒ってナニ。
いくら入れても入れても溢れない魔法瓶。
冗談でなく魔法の瓶に生まれ変わってしまった。
唖然としていたが、ガートンは飄々としていて「魔法じゃよ」の一言で済ましてしまい、わけがわからないまま重量まで変わらない謎の水筒を携え、森林浴に繰り出したのだった。
魔法って魔法って、一体どこまで出来るの? この水筒怪し過ぎるんですけど。
手の中にある見慣れた水筒を見つめたが、何がどう変わったようには見えない。中がブラックホールに変わっただけである。
しかしよくよく考えてみればたくさん作った筈の弁当も手荷物になっていたように見えず、湖で遊び呆けていた間に突如水際に出現していたのだ。
魔法の知識としてRPGが土壌になっているので、マジックポイントがどうの、と言われた方がまだ理解出来る。が、どうもこちらの世界でゲームの理屈が通じないのだ。
魔法エネルギーとやらといい、魔法瓶を容量無限にしてしまったことといい、つくづく謎の力である。
「ガートン先生」
「何じゃ?」
「ポケットにビスケットを入れて叩くと、ビスケットは無限に増えますか」
途端に周囲から生温かい視線が向けられた。
「……ヒナゲシ。魔法はな、万能じゃないんじゃ。いや、ヒナゲシはまだ子どもじゃからな、魔法に夢を持つのはわかるが」
──理不尽だ。
魔法瓶が魔法瓶になりました。