涙
触れて。抱いて。あたためて。
村で生活していた頃、ヒナゲシは孤独であった。
運悪く、ヒナコという神から愛されたとしか思えない少女が側にいたため、周囲の関心は軒並みヒナコが奪っていたのだ。
従姉妹という同族であり、同い年、同性、近所、などなど一緒にされざるを得ない機会が山ほどあった。その際、どうしても片割れに目がいく。華があり、反応も快く、親交を深めたいと願うのは、いつだってヒナコの方。
ヒナゲシ自身に難があり、嫌われるならまだ諦めがついたかもしれない。だけれども、嫌われるほどの関心すら抱かれなかったのだ。その事実は片方の少女をとてもとても苦しめた。見て欲しいのに、見てもらえない。誰かに認識される自信を与えられず、亡霊のように生きて。
教師も好きな人も、親でさえ。ヒナコの後ろにいるヒナゲシの存在に気付かない。どこまでもどこまでも空気。
それ故、人との交流など無いに等しく、余白の時間はゲームプレイにあてられた。ゲームのプレイヤーになれば、イコール主役。そこにヒナコの影はなく、とても生き生きと敵を倒したり、ギルドの依頼を請けたり、友情も恋愛も思いのままに叶えられた。
精霊やエルフという人外に協力され、魔法を使えるようになったこともある。他種族の人間であっても、勇者だから認めてもらえ、友情まで育むことが出来たわけだ。
火の精霊。水の精霊。土の精霊。そういった自然の神秘が形になった者たちは、宙に浮き、空を跳ね、自然を自在に操る。見目も麗しく、抜群のプロポーションで勇者を勝利へと導くのだ。
──と、思っていたのだが。
『あーっ! 黄の、てめぇっ! 俺の手から奪うなよ、欲しけりゃ自分で手に取れよっ! なぁヒナゲシ!』
『あ? 赤の、てめぇこそ何様だ? 俺様に楯突こうなんざ百年早えんだよ! だよなヒナゲシ』
『そう言うお前が何様だよ。赤のもほら、ここにまだたくさんあるから落ち着きなよ。ねぇヒナゲシ?』
『うう~、喧嘩はダメですよぅっ。ヒナゲシぃいいいぃ』
ちっちゃいチマチマしたのが、人間を巻き込みながら揉めている。主にヒナゲシを。
個々の椅子では収束がつかず、やむなくソファーに移動。赤のと黄のがすぐに怒鳴り合いを始めるので、自分が間に入ろうとしたら、即座にそれを読んだ緑のと水色が両脇を固める。おかげで赤のと黄色のが遠慮なく喧嘩を始め、やや離れた場所から緑のと水色のが苦言を呈す。ちょ、君ら全員私に同意を求めるな!
やむなくチョコの大袋を進呈する羽目になった。二度と調達出来ない最終手段であったが、ヒナゲシは子供の引率などしたことがない。わきゃわきゃ騒ぐ口を黙らせるにはこれしかなかった。さらばだ、メイド・イン・ジャパン。きっともう二度と会えまい。
「ヒナゲシの住んでいた国の茶葉は変わってますのね。薄い緑でとても綺麗……」
冷めていて申し訳ないが、水筒に残る緑茶に口をつけたリーゼシアさんはその色と香りにうっとりしている。お茶が好きなのかな。
「これは冷めちゃってますが、茶葉を持ってきているので、あっつあつの日本茶をごちそうしますよ」
「まあ、ヒナゲシ! わたくしのために?」
それはもちろん、他ならぬリーゼシアの希望なのだから。
部屋にティファールのポットを置いてあって良かった。部屋で茶の準備が出来るからこそ、茶葉まで入れていた。緑茶ほうじ茶玄米茶、何でもござれだ。残念ながら紅茶コーヒーの類いまでは用意してなかったが、それは致し方ない。
「まあ、まあ。嬉しい……ヒナゲシがわたくしのために? わたくしのためだけ? あああとっても嬉しいわ。お茶会がとっても楽しみだわ。うふっ、こんなに心が浮き立つのは久し振りね!」
どうして自分のやることに、異世界の彼女がこんなに喜んでくれるのかがわからない。昨日会ったばかりだし、ヒナゲシはまだリーゼシアに何かしてやれたことなどないのだから。
「そのうち我慢できなくなったオースティン様が戻って参りますわ。クリス様も。その時にお茶をごちそうしていただけませんか?」
「別に構わないけど……オースティン?」
「ええ、金の髪を持つオースティン様。銀の髪を持つクリス様。お二方がこの国でのヒナゲシの後見人ですわ」
「ええーっ、そうなんだ!」
ひょっとしたら、先ほどの契約ってのはそれだったのか!
なるほどなるほど、勇者としてやっていくにも十三の小娘ならば後ろ盾の一つや二つ、要るだろうって配慮か。うわあ、本当にありがたい召喚だったのかも。オースティンとクリスは国の偉いさんとか上位貴族とか、そういう立ち位置? 部屋も庶民的とは言えない装飾であるし。てことは、やっぱりリーゼシアさんもお貴族様かと思われる。
「うわーうわー、それじゃあオースティンとクリス、あ、様付けた方がいいのかな? ちゃんとよろしく言っておいた方がいいよね? あ、リーゼシアさんも? 一晩経ってからで今更感ハンパないけど、これからよろしく!」
膝の上に水色のがゴロンしてるから立てないが、丁寧に頭を下げる。赤の他人に、過ぎる親切をしてくれていたのだ。ヒナゲシは、ここで必ず彼女たちに報いなければならない。
「ヒナゲシ! 頭を下げる必要なんて!」
勢いよく首を振り、傍らに跪くリーゼシアさんは何故だか瞳を揺らしていた。不安? 焦燥? 見抜けるほど人生経験は積んでなかったが。どこか、ヒナゲシの瞳に通じるものがあった。
──だから、惹かれ合うの? だから、側にいたいと思うの?
私たちが求めているものは、同じなのだろうか?
「リーゼシアさん。私、村にはもう居場所がないんです」
重ね合わせた指は、細く、労働に向かない繊細なもの。温かさはなく、冷たい。まるでとても冷たい水に浸かっていたように。
「ううん、最初から無かったのかも。ヒナゲシが居る必要なんか無くって、同い年のヒナコが居ればそれで良かったの」
「……はい」
「何を言ってもダメでした。ヒナコは明るくてよく笑ってて、屈託がなくて。みんなみんなヒナコが好きになる」
「……ええ」
「でも、私は私以外にはなれない」
きゅ、と指が強く絡む。
見上げてくる瞳にあるのは、激しく燃え盛る想い。チラチラと火の粉すら見える気がする。
同じだ、とリーゼシアさんの答える声が聴こえた。指を通して。そう、リーゼシアさんもヒナゲシと同じなのだ。たぶん。きっと。
「……リーゼシアさん。この異世界に来て初めて、“ヒナゲシ”は人として生きることが出来てます」
「ヒナ、ゲシ」
「ここにはリーゼシアさんが居たから。オースティンやクリスが居たから」
「ヒナゲシ!」
下睫毛の上に、ぷっくりと温かな雫が乗った。
出会ったばかりの私が、ヒナゲシが、耐え切れず零したものと同じ──涙。
昨晩とは逆に、ヒナゲシがリーゼシアを胸に抱いて。
「ヒナゲシ……ヒナゲシ!」
「一晩中抱きしめてくれて嬉しかったです。みんなみんなヒナコに視線を奪われる中、私を懐に入れてくれる人なんか居なかった。好きになっても、好感どころか感情を返してくれる人すら居なかった」
「あ、ああ……あああああ!」
泣き崩れたリーゼシアを抱きしめ、ヒナゲシは考えた。
私も、昨夜自分を抱きしめてくれたリーゼシアさんみたくなれるだろうか。膝抱っこしてくれるクリスみたくなれるだろうか。食べ物を差し出してくれるオースティンみたくなれるだろうかと。
誰だって、自分を認識して欲しい。嘘偽りのない“自分”という人格を見て欲しい。尚且つ、触れて、温めてくれたら──自分は今生きていると心が震え、満たされるに違いないから。
『ヒナゲシ』
『これ、使って』
『あと、これも』
『ほれ』
「……ありがとう」
次々と精霊たちから渡される布は、ヒナゲシの手に渡ってリーゼシアの涙が拭われる。人との繋がりとは、きっとこのようなものなのだろう。
生まれて初めて人の涙を拭いながら、もっとこの人たちと繋がりたい、あたため合いたい。そうヒナゲシは思った。