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第一話 始まりの日

四月の柔らかな陽光が、校舎の影を長く引き延ばす放課後。

授業終了を告げるチャイムの余韻が消え、この私立氷紋学園高校の敷地内には、部活動に励む生徒たちの掛け声や、楽器を調律する断続的な音が春の風に乗って溶け出していた。

賑やかな現校舎を離れ、渡り廊下の先にあるひっそりとした旧校舎。その二階の突き当たり、長い年月を経て木肌が飴色に深まった重いドアに、今にも剥がれ落ちそうな『文芸部』の看板が掲げられた一室がある。

埃の舞う静謐な空気に満ちているはずのその部屋から、静寂を切り裂くような、興奮に弾んだ声が漏れ聞こえてきた。


「ねぇ神奈、これ見てよ。ついにここまできたよ……!」


窓の外、山の端に沈もうとする西日が部屋の奥まで差し込み、ルナの輪郭をオレンジ色の後光のように縁取っている。

自称・美少女配信者の水無ルナが、使い古されたパイプ椅子から転げ落ちんばかりに身を乗り出し、食い入るように液晶画面を指差した。その勢いで、丁寧に整えられた彼のボブカットがふわりと揺れる。女子制服のスカートから伸びる脚は、ぶっちゃけ隣に座っている私 長月神奈(女子、17歳、平均スペック)よりも細くて形が良い。悔しいけれど、これが我が相棒の「正装」だ。


「わかった、わかったから。そんなに揺らすとモニターの端子が逝くって」


私は呆れ半分で彼が指し示す数字を覗き込んだ。


【現在のチャンネル登録者数:1,051人】


「……おー、千人超えたね。おめでとう。やっと『ルナてぃっくぞーん』も、収益化申請できるじゃん」

「『おー』じゃないよ! もっとこう、感動とか、全米が泣くレベルのリアクションとかないわけ!? 苦節半年だよ!?」


ルナが拳を握りしめて力説する。

たしかに、道のりは険しかった。当初は「文芸部らしく朗読や書評動画を」なんて息巻いていたが、再生数は驚異の「3」。うち2回は私とルナによるセルフチェックだった。

その後、ルナの「僕、実はこっちの方が似合うと思うんだよね」というカミングアウトから始まった女装企画が、なぜかバズを起こし怒涛の快進撃が始まったのだ。……といっても、ユーチューバーとしてようやくスタートラインに立ったに過ぎない。


「で、記念すべき収益化一発目の企画はどうするの? 10万人を目指すなら、ここが正念場だよ」


私がキーボードを叩きながら尋ねると、ルナは不敵な笑みを浮かべた。その表情は、どんなに可愛く着飾っていても「悪い男子高校生」そのものだ。


「ふふーん、決まってるよ。これぞネット動画の王道――『収益化記念! 二人で話題の心霊スポット行ってみた』だよ!」

「……は?」


思わず、キーボードを叩いていた指が止まった。西日の差し込む部室に、ルナの自信満々な声だけが響く。


「いやいや、ちょっと待って。うちは『男の娘バラエティ』でしょ? なんで急にそんなガチなやつに振るのよ。せめて『デカ盛りスイーツ完食』とか、もっとこう、平和でビジュアル映えするやつがあるじゃない」

「甘いよ神奈! 甘すぎるよ、その考えはコンビニの練乳パンより甘い! ギャップだよ、ギャップ。可愛い女の子(僕)が、おどろおどろしい廃墟で涙目になりながら彷徨う……これこそが視聴者の嗜虐心を煽り、数字を爆発させる黄金の方程式なんだから!」

「……それ、単に自分が怖がりたいだけじゃないの?」

「まさか! 僕はあくまで、僕を応援してくれる『ルナ民』のみんなに最高のエンタメを届けたいだけだよ。……あ、でも、もし本当に何か出たら、神奈が先に前を歩いてね? 約束だよ?」


ルナは上目遣いで私の袖を掴んできた。計算高い確信犯の顔だ。こいつ、自分が一番「撮れ高」になる角度を理解してやがる……。


「わかった、わかったから。その代わり、編集は全部ルナがやりなよ? 私は心霊映像のコマ送りなんて絶対に御免だからね」

「やったぁ! 交渉成立! じゃあさっそく、機材チェック始めようか」


ルナは現金なもので、すぐに私の袖を離すと、配信用のLEDライトをいそいそと準備し始めた。

登録者10万人への第一歩が、まさか幽霊頼みになるとは。先が思いやられるけれど、この「ルナてぃっく」な相棒に振り回されるのは、今に始まったことじゃない。

私はため息をつきながらも、カメラの予備バッテリーを充電器に差し込んだ。


「……で? どこ行くか決まってるの?」


私がそう尋ねると、ルナはスマホのブックマークから一つのサイトを開き、ニンマリとした不敵な笑顔を浮かべて、誇らしげに私の前へと掲げてみせた。


「じゃーん! これなんかどう? ここから電車で一時間くらいの山の麓にある『旧・星屑小学校』。雰囲気バツグンでしょ?」

「廃校舎ねぇ……。でもさ、勝手に入って大丈夫なの? せっかく収益化に漕ぎ着けたのに、一発目から住居侵入で炎上したりしたら、取れ高どころの話じゃないよ」


私が至極真っ当なリスクを提示すると、ルナは真顔でスマホを眺めながら、画面を素早くタップし始めた。


「まぁ、そんなことは神奈に言われなくてもわかってるって。一応、自治体の管理状況は調べてあるし、撮影許可の申請先も特定済み。明日にでも役所に電話してみるつもりだよ」


私は大きなため息を吐きながら、冷ややかな視線を向けた。


「……まぁ、それなら良いんだけど。あんた、そういうところだけは本当に抜かりないわね」

「褒め言葉として受け取っておくよ! だって、僕たちの『ルナてぃっくぞーん』は、清く正しく、かつ攻めた配信がモットーなんだから」


そう言って胸を張るルナだが、女子制服の胸元は相変わらず控えめだ。私はそんな相棒の無駄な情熱に呆れつつ、カバンを肩にかけ直した。


翌日の放課後。ルナから「許可取れた! 今日の夕方から撮影OKだって!」という鼻息の荒いメッセージが届いた。

どうやら、件の廃校舎は現在、地域のNPO法人が管理しており、映像制作の学生やクリエイターには比較的寛容に貸し出しているらしい。「文芸部の活動報告の一環」という建前が功を奏したようだ。


「……で、なんで私はこんな重い三脚を持たされてるわけ?」


最寄り駅からバスに揺られること二十分。さらにそこから、整備されているのか怪しい山道を歩きながら、私は恨み言を漏らした。


「それはもちろん、僕が今日の『メインコンテンツ』だからだよ! ほら、神奈、もうすぐ見えてくるはず……」


ルナは、動きやすさを重視したのか、いつものプリーツスカートではなく、ショートパンツに厚手のタイツという「アウトドア仕様」の女装スタイルだ。それでも、透き通るような肌と整った顔立ちは、木漏れ日の中でも異様に映える。

山道のカーブを曲がると、そこにそれはあった。

錆びついた鉄門。ひび割れたアスファルトを突き破るように生い茂る雑草。そして、夕闇に沈みかけた木造二階建ての校舎。窓ガラスのいくつかは割れ、奥の暗闇がこちらをじっと覗き込んでいるような錯覚に陥る。


「うわ……マジで出るやつじゃん、これ」


私が思わず足を止めると、ルナが「ひっ」と短い悲鳴を上げて、私の背中に隠れた。


「ちょ、ちょっと神奈! 急に立ち止まらないでよ! 怖いじゃん!」

「言い出しっぺはどこのどいつよ。ほら、行くよ。暗くなる前に外観のカットを撮っちゃわないと」


私は覚悟を決めて、重い三脚を担ぎ直した。

門をくぐると、空気の温度が一段下がったような気がした。カサカサと枯れ葉が舞う音さえ、誰かの囁き声に聞こえてくる。


「ねぇ、神奈。今の音、聞いた……?」

「風でしょ」

「じゃあ、さっきの二階の窓に動いた影は……?」

「気のせいでしょ。はい、カメラ回すよ。ほら、ルナ、仕事して」


私はデジタル一眼レフを三脚に据え、マイクの感度を調整した。

ルナは、震える手で前髪を整えると、深呼吸を一つ。そして、スイッチを切り替えるように、完璧な「ルナ様」の笑顔を作った。


「――はい、皆さんこんばんは! 収益化記念、ルナてぃっくぞーん特別編! 今夜はなんと……本物の廃校舎に来ちゃいましたぁ……!」


ルナの声が、静まり返った校庭に不自然に響き渡る。

カメラのモニター越しに見る彼は、確かに可憐で、どこか儚げだ。けれど、その背後にある廃校舎の闇は、ルナの明るい声さえも飲み込んでしまうほどに深く、冷たい。


「……神奈。これ、本当に最後まで撮れるかな」


カットの声と同時に、ルナが素のトーンで漏らした。


「どうせ何も出ないわよ。……たぶんね」

「『たぶん』って言わないでよー!」


二人の掛け合いだけが、沈黙の廃校に響く唯一の生命の鼓動だった。

山の麓ということで、空の半分はすでに巨大な山影に隠れ、窓ガラスが割れところどころ剥がれかけた外壁を照らす赤い夕陽が、どろりと不気味な雰囲気を醸し出している。

私はゴクリと唾を飲み込むと、ハンディカムのモニターを開いて被写体であるへレンズを向けた。モニターの中のルナは、不安げな表情を浮かべながら、これから進む昇降口の方へと目を向けている。


「じゃあ、暗くなっちゃう前に撮り終えるわよ。さん、にー、いち……ハイ!」


その途端、ルナはカメラに視線を向ける。


「ここは十五年前に廃校となった星屑小学校の昇降口です。……見てください、この散らばったままの靴箱。まるで、ある日突然、子供たちが消えてしまったみたいで……うぅ、怖いよぉ、神奈ぁ……」


カメラの前で潤んだ瞳を向けてくるルナ。

正直、めちゃくちゃ良い画が撮れている。普段は生意気な男子高校生のくせに、この場所の空気に本気で当てられているのか、その怯えっぷりは演技を越えてリアリティの塊だ。


「……はい、カット! お疲れ様。外観と昇降口、一階の廊下まで撮れたよ。あと二、三箇所回ったら撤収しよっか」

「ま、まだ撮るの!? もう十分じゃない!? 」


半べそをかきながら私の袖にしがみついてくるルナを、私はなかば引きずるようにして理科室へと連行した。

結局、一時間ほどかけて校舎内を探索したが、霊障らしきものは何一つ起こらなかった。古い校舎が風に軋む音や、ネズミか何かが天井裏を走る物音に、そのたびルナが「ひぃっ!」と飛び上がり、私の背中にダイブしてくるだけ。


「……うん、撮れ高としては最高。幽霊は出なかったけど、ルナのヘタレっぷりが一級品だわ」

「ヘ、ヘタレって言わないで! 慎重って言ってよ! ……でも、本当に出なくてよかったぁ……」


ルナは胸をなでおろし、ようやく「営業用」ではない、安堵の混じった素の少年の顔に戻った。

私たちは機材を片付け、NPO法人の管理事務所に鍵を返却すると、すっかり夜の帳が下りた山道を駅へと向かい始めた。


「ねぇ、神奈。なんだか、来る時より暗くない? 街灯、こんなに少なかったっけ……」

「山道なんてこんなもんでしょ。……って、あれ?」


手元のスマホの地図を見ようとして、私は足を止めた。

圏外だ。

それどころか、さっきまで歩いていたはずの舗装された道が見当たらない。足元にあるのは、湿った土と膝まである雑草ばかり。


「……迷った?」

「まさか、一本道だったはずよ……。でも、なんか変ね」


焦りが伝染したのか、ルナの顔が再び青ざめる。

私たちは必死に周囲を探索したが、夜の山は無慈悲だった。方向感覚は狂い、ようやく「駅」の看板を見つけた時には、すでに時計の針は最終電車の時刻を三十分も過ぎていた。

辿り着いた駅舎は、無人駅だった。

古びた木造のベンチが二つあるだけの、ガランとした空間。街灯が一つ、チカチカと断続的に瞬いている。


「……最終、行っちゃったね」

「最悪……。タクシーも呼べないし、ここで一晩明かすしかないわよ」


私は力なくベンチに腰を下ろした。

ルナは私の隣に小さくなって座り、女子制服のカーディガンをぎゅっと合わせた。山の夜気は、春先とはいえ酷く冷える。


「ごめんね、神奈。僕が心霊スポットなんて言い出したから……」

「いいわよ、もう。その代わり、この状況も回しとこうかな。『収益化一発目から遭難しかけた件』って動画にすれば、今度こそ10万再生いくかもね」


私が冗談めかしてカメラを取り出そうとした、その時だった。

――コォォォォ……。

遠くから、重厚な金属音が響いてきた。

地響きを伴う、列車が線路を走る音だ。


「えっ……? でも、さっき最終が行ったって……」

「貨物列車かなにかじゃない?」


私たちは顔を見合わせ、ホームへと駆け出した。

暗闇の向こうから、眩いほどのヘッドライトが二筋、こちらへ向かってくる。

しかし、その光は現代の電車のような鋭いLEDではなく、どこか温かみのある、けれど心臓をざわつかせるような鈍いオレンジ色だった。

キィィィィィ……ッ!

けたたましいブレーキ音を立ててホームに滑り込んできたのは、見たこともないほど古い、真っ黒な列車だった。


「……神奈。これ、乗っても大丈夫なやつ、かな……?」


ルナの震える声が隣で聞こえる。

時刻表にはない列車。窓の中には何人かの乗客の姿が見える。そして列車の扉は、まるで私たちを待ち構えていたかのように、私たちの前で静かに開かれた。


「……乗るしかないでしょ。ここにいたら凍え死ぬわ。それに……」


私はハンディカムをしっかり握り直した。


「これ、最高の『ルナてぃっく』な展開だと思わない?」


私の言葉に、ルナは一瞬だけ呆れたような顔をしたが、すぐに覚悟を決めたように私の手を握り返してきた。


「……もう! 収益化一発目で異世界行きなんて、コスパ悪すぎだよ!」


文句を言いながらも、私たちはその「ないはずの列車」へと足を踏み入れた。扉が閉まる音と共に、駅舎のチカチカとした街灯が遠ざかっていく。

車内はどこかレトロな雰囲気が漂っていた。車両の前方と後方には向かい合わせのベンチシートがあり、真ん中の部分には四人がけのボックス席が配置されている。


「こんな配置、珍しいわね。まるで昔の電車みたい」


ルナは緊張を紛らわせるように、呑気にそんなことを呟いた。


「……っていうかさ、この電車どこに向かっているのかしら。一応、上り方向に走っているから方向は間違っていないと思うんだけど……。次の駅で降りて、タクシーでも捕まえるしかないわね」


そう思いながら車内に目を向けると、乗客の全員が微動だにせず、深く目をつぶって眠っているように見える。あまりに静かで、まるで時間が止まっているかのようだ。私は小さくため息を吐き、ルナの手を引いた。


「先頭車両に車掌さんがいるはずだから、行ってみましょう。状況を聞かないと」


私がそう言うと、ルナは私の腕にがっしりとしがみつきながら、小さく頷いた。いくら身体の性が男とはいえ、この可憐な容姿と怯えた仕草を見ていると、彼が男の子であることさえ忘れてしまいそうになる。それがかえって、私を「しっかりしなきゃ」という冷静な気分にさせてくれた。

私はルナにしがみつかれたまま、連結部を渡って先頭車両の方へと歩を進めた。たどり着いたのは、重厚な木製のドアに黒い目隠しが下ろされた、異様な雰囲気の車掌室だ。


「すみませーん。ちょっとお聞きしたいんですが……」


声をかけながらドアをノックするが、中からの反応はない。ルナと私は顔を見合わせて首を傾げた。私は再び、今度は少し強めにドアを叩いてみる。コンコン、という音が不自然に車内に響き渡るが、やはり返事はなかった。


「おっかしいなぁ……」


そしてドアノブを回してみたが、がっちりと鍵がかけられており、びくともしない。まるで中には誰もいないか、あるいは「拒絶」されているかのようだ。


「ねぇ、神奈。乗ってからもう三十分は走っているよね。ここら辺の路線って、こんなに駅間が長かったっけ? さっきから一度も停車しなくて、おかしくない……?」


ルナの震える声に、私は冷や汗が背中を伝うのを感じた。

確かにそうだ。この路線は各駅停車しかないはずで、本来なら数分おきに小さな駅を通過するはずだ。だが、窓の外はただ重苦しい闇が流れるばかりで、駅のホームの明かりすら一度も見ていない。


「……とりあえず、一度席に座りましょう。カメラは回したままにしておくから、ルナ、あんたは実況を続けて」

「こんな時にまで撮影なんて鬼なの!? でも……確かにこんな絵、滅多に撮れないし、頑張る……っ」


ルナは涙目になりながらも、配信者としての矜持を振り絞り、無理やり口角を上げてカメラを睨みつけた。西日に照らされていた放課後の部室とは対照的な、青白い車内灯が彼の顔を不気味に照らし出す。


「はい……。皆さんは『きさらぎ駅』を知っていますか? 二〇〇四年一月にネット掲示板に投稿された有名な都市伝説ですが、私たちは今、まさにそんな……異界を走る電車に乗車してしまったのかもしれません。正直言って、めちゃくちゃ怖いです……」


そう言ってルナは、今にも決壊しそうなほど涙を溜めた瞳をレンズに向けた。震える声で語るその姿は、バラエティ路線の『ルナてぃっくぞーん』始まって以来の、あまりにもガチすぎる「恐怖映像」だ。


「この電車に乗ってからすでに三十分は経っているのですが、未だ一度も停車していません。外は真っ暗で、街の明かりも、駅のホームも見えないんです。私たちは一体どこに向かっているのでしょうか……? そして、この映像を……無事に皆さんにお届けできるのでしょうか……ひっく」


ルナの目からついに涙が溢れ、実況に嗚咽が混じったその瞬間――。

キィィィィィィィィィィィィッ!

耳を突き刺すような、けたたましい金属の悲鳴が車内に響き渡った。急激な減速に、私たちは転びそうになるのを必死にこらえて座席の背もたれにすがりつく。


「えっ?! 止まった……?」


ずっと走り続けることがこの列車のことわりであるかのような錯覚に陥っていた私は、呆然と呟いた。

完全に停止した車両の窓の外に目を向けると、そこには先ほどまでの虚無の闇とは打って変わったような、文明の象徴たる眩い街の明かりが広がっていた。


「神奈、街だよ! 戻ってきたんだ! 早く降りよう!」


地獄から天国を見つけたかのような叫びを上げて、ルナが真っ先に扉へと駆け出す。私も慌てて重い機材を脇に抱え、彼の細い背中を追ってホームへと飛び出した。

二人が地面に足をついた刹那、背後で「プシューッ」という冷たい吐息のような音を立ててドアが閉まる。列車は私たちが安堵の溜息を吐く暇さえ与えず、生き物のような滑らかさで、再び夜の闇の奥へと走り去ってしまった。


「……はぁ、はぁ……。助かった、んだよね? 私たち」


私は肩で息をしながら、走り去る列車の尾灯を見送った。

静まり返ったホーム。見慣れたはずのオレンジ色の街灯が、今は何よりも頼もしく思える。


「……あれ? 神奈、ここ……」


隣でへたり込んでいたルナが、震える指でホームの看板を指差した。そこに書かれているのは見たこともない文字。もちろん読めるはずもない。


「嘘でしょ……」


慌ててスマホを取り出すが、画面には電波の代わりに、見たこともない奇妙な記号が並んでいる。

ふとホーム脇のベンチに八歳ほどの男の子が座っているのが見えた。私は思わず駆け寄り声をかけた。


「ねぇ、君。ここ何ていうとこか知らないかな?」

「うーん、わかんない。お姉ちゃん達迷子なの?」


その子にそう言われて、私は苦笑いを浮かべるしか無かった。


「うーん、そうみたい」

「それなら、街の方にお店あるからそこで聞いてみたら?」

「うん、そうする。ありがとう」


そう言って私たちはホームを出て駅舎の外へと踏み出した。

街の明かりは見えている。しかしその様相は明らかに私たちの知る街並みではないのだ。道を行き交う人々の服装、建物の形状、道には人は歩いているものの自動車の姿は一台も捉えられない。


「ルナ、カメラ……。まだ回してる?」


先ほどルナにカメラを手渡したのを思い出してそう問いかけた。


「……うん。でも、これ、映しちゃいけないものが映ってる気がするよ」


ルナが差し出してきたハンディカムのモニター。そこには、街を歩く「顔のない影」たちが、一斉に足を止め、このホームを見上げている様子が映し出されていた。


「……帰ってきたんじゃない。私たちが、この得体の知れないとこにやってきたんだわ」


逃げ場のない異世界で、相棒の震える手を握りしめる。しかし、ここで立ち止まっていても状況が好転するわけもない。私は意を決して、古びた暖簾が掲げられた飲食店と思われる建物のドアを開いた。

その瞬間、店内の空気が一変し、刺すような視線が一斉に私たちに向けられるのを感じた。客たちは皆、影のような薄暗さを纏っている。だが、すぐに彼らは視線を外した。そこに言葉にできない妙な違和感を覚えながらも、私はルナの手を引いたまま、脂ぎったカウンターの奥へと足を進めた。


「すみませーん……」


私は厨房に立つ、店主と思われる男性に声をかけた。


「……」


その男はしばらく黙々と手を動かしていたが、やがて「チッ」と短く、しかしはっきりと聞こえる音で舌打ちをした。ようやく向けられた顔は、ひどく無愛想で冷淡だ。


「何だ!?」


店の主にしてはあまりにもぶっきらぼうな反応だが、今は接客態度を気にする余裕なんてない。


「あの……間違って電車でここに降りてしまったのですが、この後いつ頃、電車は来ますか?」

「今日はもう来ねぇよ。さっきのが最終だったからな」


店主は一度も目を合わせようとせず、吐き捨てるように答えた。


「じゃ、じゃあ、タクシーに乗れる場所とか知りませんか?」

「タクシー? 知らねえな。そんなもんここにはねぇよ」


そこまで聞いて、私はこの場に充満する異様な雰囲気に耐えきれなくなった。


「ありがとうございます。お邪魔しました」


言い残すなり、逃げるように店を飛び出した。


「ううっ、怖かったよぉ……。お店を出る時、みんなまた僕たちのことを見ていたよぉ……」


ルナは涙でぐしゃぐしゃになった顔を私の腕に埋めてきた。私は彼の背中をトントンとなだめながら、真っ黒な空を見上げて途方に暮れた。


「――何だって、こんな所にお前らみたいなのがいるんだ?」


背後から低く、濁った声が聞こえてきた。心臓が跳ね上がり、反射的に振り向くと、そこには作業着姿の男が立っていた。


「お前ら、こんな所にいないでとっとと帰りな……って、もう電車はないのか」

「はい……。あの、私たち、どうすれば……」

「……つっても、俺もここを離れられねぇからな。連れて行ってやることはできねぇ」


男は少し考える仕草を見せ、重苦しい溜息を吐いた。


「この道を真っ直ぐ行った所に、古い神社がある。そこに向かえ」


それだけ言うと、男は私たちの問いかけを待たずに、無機質な人混みの中へと消えていった。


「ルナ、なんかわかんないけど……あの人の言った場所に行ってみよう。ここにいるよりはマシなはず」

「う、うん……」


ルナは震える手でカメラを確認し、私の手を握りしめた。私たちは、街の異質な静寂を切り裂くように、男が指し示した暗がりの先へと歩き出した。

街を抜けると、街灯の光すら届かない深い杉林に囲まれた石段が現れた。ルナの持つライトが、夜の闇を細く切り裂く。石段の脇には、苔むした地蔵がずらりと並び、そのすべてが、なぜか「私たちの方を向いて」配置されているように見えた。


「ねぇ神奈……地蔵の顔、見て……」

「見ちゃダメ。前だけ見て」


私がルナを促す。だが、カメラのモニターには、地蔵たちが一歩ずつ、音もなく石段を登ってくる影が映り込んでいた。

ようやく辿り着いた山門を潜り抜けると、境内の奥に大きな本堂が見えた。近づいていくと本堂の軒下には、巨大な数珠がぶら下がり、風もないのにカラリ、カラリと乾いた音を立てている。


「すみません! どなたかいらっしゃいませんか!」


私の叫び声に、本堂の奥から一人の老神主が姿を現した。その目は先ほどまでの住人たちとは違った優しげな光があり、これまでの住人たちのような拒絶の気配はない。


「……ほう。お前さんがた、どうしてここに?」

「は、はい……ええっと……色々ありまして」

「何か事情がありそうだな。こっちに来なさい」


老神主はそう言うと、私たちを本堂の中へと招き入れた。そして私たちは、これまでに起こった不可解な出来事や街中での様子を彼に話した。


「なるほど……。それはお前さんたちが、ここの住人ではないことがわかったからじゃ」

「それって、どういう……」

「この世界にはいくつも『穴』があいていてな、その穴にたまたま入り込んでしまったんじゃ。その穴の先はお前さんらのいた場所だったり、全く違う場所だったりもする」


ルナの頬を一筋の汗が流れ落ちる。彼は前のめりになりながら問いかけた。


「それじゃあ、僕たちはどうしたら……。どうしたら元の場所に帰れるんですか?」

「うむ、お前さんがたが乗ってきた電車に乗れればいいんじゃが、終電は過ぎておるでな。それじゃあ……」


とその時だった。

――ドンドンドン!


「邪魔するぞ、神主!」


玄関の扉を叩く音と共に、数人の足音がドタドタと近寄ってくるのが聞こえる。


「まずいな。お前さんがた、その中に入るんじゃ。そこで動かないように、息も潜めていなさい」


私たちは急いで神主が指し示した祭壇の裏へと身を隠した。間もなく、部屋の障子戸が勢いよく開かれた。


「どうしました。こんな時間に大勢で」


神主の落ち着いた声が聞こえる。私は隙間からそっと表の様子を伺うと、そこにはあの飲食店で声をかけた店主の姿があった。


「なぁ、ここに女が二人来なかったか?」

「いえ、ここには誰も……」


神主がそう答えると、男は不機嫌そうに顔を顰めた。


「まがいもんが来た。良くねぇことが起こっぞ。困っぺ」

「そうですね。見かけたらすぐに連絡しますよ」


神主が言うと、男たちは踵を返し、入ってきた障子戸の方へと向き直った。


「まがいものを見た連中には連絡しておく。後でお祓いしてくれ」

「ええ、わかりました。準備しておきます」


男たちはまたバタバタと部屋を出ていった。


「もう大丈夫ですよ」


その言葉に、私たちは祭壇の裏からゆっくりと這い出してきた。


「えっと、今のはどうして私たちを……。それに『まがいもの』って……」

「ここではあなた方のように迷い込んできた者たちを『まがいもの』と呼ぶ人が多いのです。まがいものは縁起が悪いとして恐怖の対象とするケースが多く、そのため見かけても見えないふりをするのです。ただ、あなたがしたように声をかけてしまっては、もう無視しようもない」

「そうなんですか……。知らずに悪いことをしてしまったんですね」


私はそう言って、小さくため息をついた。


「迷い込んだ人は、普通はほとんどこちらの住人には見えないのです。見えても、ぼやけてうっすらという感じで……。ですが」


神主の含みのある物言いに、私はその訳を聞いてみる。


「私たちは、何か違うんですか?」

「ええ、はっきりくっきり。これほど鮮明に見える人は初めて見ました。よほど強い力があるのでしょうな。こちらの住人にとって、強いモノに憑かれてしまったと思われても無理はありません。おっと、気を悪くしないでください」

「そっか……。向こうの人にとって、私たちは幽霊みたいな存在なんだ」

「ええっと……。僕が幽霊なら、除霊でも何でもいいので元の世界に帰れないですか?」

「ええ。あなたに悪い意志はないようなので、何とかなるでしょう」


そう言って、神主は私たちを神社の外へと連れ出した。目の前には、夜空の星灯りが水面に反射して輝く、美しく澄んだ泉があった。


「それでは、ここで身体を清めてください」

「「え゛っ!?」」


私たちは同時に声を上げた。


「は、裸……ですか?」


私は恐る恐る神主に問いかけた。


「はぁ、別にどちらでもいいですよ」


ルナと私は顔を見合わせ、意を決して頷いた。この気温の中濡れた服を着続けるのは命に関わる。それに裸の方が身を清められるに違いない。そんな思いから着ていたものを全て脱ぐと、静かに泉へと足を踏み入れた。


(つ、冷たい……!)


突き刺すような冷水が、一瞬で体温を奪っていくのを感じる。ルナの白い肌が月光に照らされ、どこか現実離れした美しさを放っていた。


「それじゃ、清めの祝詞を唱えます」


神主の唱える声が静かな森に響く。しばらくして泉から出ると、再び本堂へと戻ってきた。服を着直しても、身体の震えは止まらない。

そこで床に座った私たちに神主は御神酒を振りかけ、鐘が鳴らされる――。

――ゴォォォォォォン……。

重厚な余韻と共に、私の意識は急激に遠のいていくのを感じる。


「神主さん…… ありがとう……ございます」


薄れゆく意識の中で私はそんな言葉をこぼした。




「……な、神奈! 起きてよ神奈!」


激しく肩を揺さぶられ、私は重い瞼を持ち上げた。視界に飛び込んできたのは、真っ青な空と既に高いところにある太陽、そして半べそをかきながら私を見下ろすルナの顔だった。


「ルナ……? ここは?」

「駅だよ。廃校舎最寄りの…… 気がついたらホームのベンチに座って寝てたんだよ。

ねぇ、覚えているよね!? あの変な街と、神主さんと、冷たすぎる泉!」


ルナの言葉に、私は弾かれたように上半身を起こした。


「夢じゃ……なかったの?」

「わかんない! でも、僕も神奈と同じ夢を見るなんてありえないでしょ」


私は震える手で、カバンの中のハンディカムを手に取った。液晶を開き、再生ボタンを押す。

画面に映し出されたのは、激しいノイズの嵐、その後に見たこともない駅のホームと黒い小さな影。そんな影がゆらめく街並み。そして――。

月明かりの下、泉の中で震えるルナの横顔と、その背後にうっすらと浮かび上がる老神主の姿。


「……撮れてる。これ、マジで爆バズりするわよ」


私は自分の肩を触ってみた。服は乾いているはずなのに、体の芯にはまだあの泉の冷たさが残っているような気がした。そして、微かに漂う御神酒の香り。


「ルナ、これ……すぐに編集してアップしよう。収益化一発目の動画として、これ以上のインパクトはないわよ」

「当たり前でしょ! あんなに怖い思いしたんだから、100万再生くらいしてくれないと割に合わないよ!」


ルナはいつもの小生意気な笑顔を取り戻すと、手鏡を覗き込んで入念に前髪の束を整え始めた。

昨夜の出来事が、どこまでが現実の地続きで、どこからが「穴」の向こう側の出来事だったのか、今となっては確かめる術もない。けれど、カメラのメモリーカードに刻まれたその記録は、間違いなく私たちの新しい日常が幕を開けたことを告げていた。


「よし、タイトルは決まりだね。『【閲覧注意】収益化一発目に異世界迷い込んで除霊されてみた』!」

「不謹慎ね……。でも、最高にイカしているわ。それで行きましょう」


目の前には昨日は気づかなかった芽吹いたばかりの瑞々しい若葉が、春の光を浴びて輝いている。

昨日感じたあの底知れない恐怖は、もう二人の中にはない。あるのはただ、誰も見たことのない景色を世界中に届けてやろうという、少しばかり向こう見ずな高揚感だけだった。

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