第3話 smell of dark spring 〜青春は足元から香り立つ〜
香り立つ想い、すれ違う心。
「……もう、ほんとに、調子に乗りすぎなんだから……」
そう言いながら、私はルナのニヤニヤ顔をにらみつけた。
けど――その視線には容赦がなかった。
“さあ、聞かせてもらうわよ?”っていう、あの目。
私は深く、深くため息をついた。
「……わかったわよ。言えばいいんでしょ、言えば!」
顔がじわじわ熱くなる。
なんで、こんなこと話さなきゃいけないのよ……。
「大体……全部、あいつのせいなんだから……」
言いながら、胸の奥がチクンと痛む。
「“あいつ”ってのは……西野優香。
クラスの人気者で、なんでもできて、先生にもウケが良くて……そういう子よ。
でも裏では、ああいうあだ名をクラスに広めて……」
唇を噛んで、言葉が少しだけ詰まる。
「“スメル・ミューズ”。
あれ、あいつが言い出したの。
“スメル”って、あえて臭いって意味の英語を使って、
“ミューズ”ってつけることで、皮肉交じりのおしゃれ感を出して――
皆が笑ったのよ。“センスある〜”って。最低でしょ?」
自嘲気味に笑いながらも、拳をきゅっと握った。
「……今考えても、なんであんなのがウケたのか、わかんない。
でも……ひとたび火がついたら、止められなかった。
気づけば、私のこと、みんなそう呼ぶようになってて……」
少し俯いた視線の先、自分の足先が目に入る。
その瞬間、またあの匂いが、記憶の奥からじわりと蘇った気がした――。
私がすべてを語り終えると、ルナは「ふぅん」と小さく息を吐いて――
案の定、ニヤニヤと笑いながら、まぶたをすこし細めた。
「そっかそっか〜。まさか“スメル・ミューズ”に、そんな深〜い由来があったなんてね〜」
いかにも楽しげな口ぶりで、わざとらしさ全開の相槌。
「……その顔、絶対わざとでしょ」
私はジト目でにらみながら、半ば呆れ、半ば怒りでつぶやいた。
「どうせあんた……最初から、私の記憶、全部覗いてたんでしょ?」
「ん〜? まあ、ちょこっとね?」
ルナは悪びれもせずにしっぽをふにゃりと揺らす。
「だったらなんで……わざわざ私に説明させたのよ」
声のトーンが少し震えたのは、怒りよりも、羞恥のせいだ。
「もしかして……恥ずかしがる顔、見たかっただけ?」
そう言うと、ルナは、いたずらを大成功させた子どものように笑った。
「……バレた?」
そのあっけらかんとした一言に、私はもう一度クッションを投げたくなる衝動に駆られたのだった――
⸻
「まったく、あんたってやつは……」
私はクッションを抱えたまま、じろりとルナを睨む。
「西野やクラスの連中と、大差ないからね? 人のコンプレックスほじくり返して、面白がるとこなんて、そっくり!」
からかうようにそう言いながらも、声にとげはなかった。
むしろ……少しだけ、笑っていたかもしれない。
こんなふうに誰かと軽口を叩いて、肩の力を抜けたのなんて、いつ以来だろう。
ルナは楽しそうに「ひど〜い」と笑ってしっぽを揺らしていた。
――でも、その笑いは、西野たちの“それ”とはまるで違っていた。
あの子たちの笑いは、心の底から人を見下していた。
品のない、冷たい笑い。
教室の空気をぴりつかせる、あの独特の息苦しさ。
……けれど。
あのとき、西野が見せた笑顔――
思い返してみると、ほんの少しだけ、なにかを誤魔化すような、
そんな寂しさがにじんでいた気も……した。
いや、ないない。それはない。
西野優香に限って、そんな“弱さ”なんてあるわけがない。
だいたい、いじめられてたのは、私のほうなんだから。
私は心の中でそう吐き捨てるように呟き、ふいと視線を逸らした。
ルナは首を傾げながら、さらりと訊ねてきた。
「ところでその“スメルミューズ”ってあだ名――たしか、中学校の頃につけられたものだったわよね?
何か“きっかけ”でもあったの? 由来までは読み取れたけど、細かい経緯まではちょっと難しくてさ」
その言葉に、私はピクリと眉をひそめる。
(……やっぱり、“由来”知ってたんじゃない)
胸の内で小さくつぶやいたあと、私は息をひとつ吐いた。
「……きっかけは、そうね……」
目を伏せながら、ふと視線を落とす。
クッションをぎゅっと抱きしめたまま、私は少しだけ、遠い記憶へと意識を沈めた。
思い出すのは、まだ私が“普通の女の子”だった頃。
放課後、くだらない話をして笑い合った、あの教室。
隣には、いつもあの子がいた。
――西野優香。
私はスマホを手に取り、無意識のうちに写真フォルダを開く。
そこに保存されていた、懐かしい一枚――
放課後の空の下、並んで笑って写る、私と西野のツーショット。
画面越しの笑顔は、まるで昨日のことのように眩しくて。
あの頃の私たちは、毎日一緒にいて。
くだらない話をして、笑って、放課後には当たり前のように寄り道して――
全てがキラキラと、眩しく輝いていた。
まさか、そんな日々の終わりが来るなんて。
お互いを憎み合うようになるなんて、思いもしなかったのに。
制服の胸元に小さくピースを添えて、笑う私と、その隣で照れくさそうに微笑む西野。
そんな懐かしい思い出の1枚がいつもよりも眩しく写った。
あの頃の私と西野は今とはまるで別人みたいだなぁ。
***
思い返せば、中学2年のころ。
私は特に目立とうとしてたわけじゃない。
けれど、昼休みに机を囲む人だかり、
廊下ですれ違えば「また今度遊ぼうね」と声をかけられ、
体育祭や文化祭では、いつのまにかリーダー役を任されていた。
「宮下あやか」といえば、学校中みんなが名前を知っていて、
何かにつけて私のまわりには笑い声が集まっていた。
たとえば、私が何気なく「今度、○○に行きたいな」って言ったことが、
いつのまにか「行こう行こう!」って計画になってて――
気づけば、リーダーにされてる。
……ほんと、なんで私なのよ、って思ってたけど。
でも、その輪の中に優香がいるだけで、全部ちょっと楽しかった。
そんな日々が、当たり前だった――。
……いや、別に調子に乗ってたわけじゃないからね?
なんで私がそんなポジションにいたのか私が1番知りたいくらい!
そして、そんな私のすぐ隣には――
「……優香」
小さくて、声が控えめで、
でもどこかおしゃれで、いつも気遣いができる子だった。
西野優香は、そんなふうに、いつも私の後ろをちょこちょことついてきていた。
最初は無口で、教室の隅にいるような子だったのに、
いつの間にか少しずつ笑顔が増えて、服のセンスも垢抜けて――
クラスでも「綺麗な子」として話題に上がるようになっていった。
それでも、いつも謙虚な姿勢を崩さず、
周りに何を言われても笑顔でさらりと流せる、優しい子だった。
そんな彼女のことが、私はとても誇らしかった。
優香が誰かに褒められると、どこか自分のことのように嬉しくなって――
まるで一緒に成長してるみたいで、なんだかくすぐったかった。
思えば、私たち――けっこうなんでも“おそろい”にしてたっけ。
筆箱とか、髪留めとか。本人は「たまたま」とか言ってたけど、絶対わざとだよね。
交換日記もしてたし、西野のちょっとした悩みも、誰より早く聞かされてた。
「これ、あやかにしか話せないからね」って、何度も言われた。
優香にとって、私は“特別な人”だったのかもしれない。
そして、私にとっても。
あの子は、他の誰より――大切な存在だった。
その日も、私と優香は――いつも通り、一緒にいた。
学校からの帰り道、なんとなく流れで優香の家に寄った。
うちと同じ住宅街の中なのに、
角を二つ曲がっただけで空気が少し変わった気がした。
西野の家は、白い外壁に、黒のアイアンフェンスが映えるちょっと洋風の一軒家で、
玄関へ続く小道の両脇には、季節ごとの花が丁寧に植えられていて、色とりどりに揺れていた。
「この家、お嬢様が住んでそう」なんて思ったこともあるけど、
本人はその雰囲気にまるで無頓着で、
いつもふわっとした笑顔で「ただの古い家だよ」って言ってた。
優香の家に着くと、いつものように「おじゃましまーす」と軽く声をかけて靴を脱ぎ、
廊下を進んで、そのまま2階の部屋へ。
「どうぞ」
優香に促されてドアを開けると、静かで落ち着いた空気がふわりと流れ込んできた。
整えられたベッドに、淡い色のカーテン。
背の高い本棚や、丸い鏡のついたドレッサー――
どこを見てもきちんと手入れされていて、品のいい家具がしっくりと馴染んでいた。
その空間に、ふわっと香るラベンダーの匂い。
いつの間にか呼吸が深くなって、張りつめていた気持ちがすっとほどけていく。
「ああ、やっぱ優香んち、落ち着くなぁ……」
そんな独り言が、つい口からこぼれてしまうくらいに心地の良い空間だった。
制服のままベッドに座って、どうでもいい話をぽつぽつ交わしてたら、
いつの間にか、心がゆるんでくるのがわかった。
あのときの静けさとか、ゆるい空気とか――
今でもなんとなく、胸の奥に残ってる。
⸻
「……あやか」
優香がぽそっと私の名前を呼んで、
次の瞬間、遠慮がちに胸元に顔をうずめてきた。
ちょ、なに……と思いながらも、私はちょっとだけ肩をすくめて――
でも、なんだかんだでそのまま受け入れてた。
制服の布越しに伝わる、体温とか、微妙な鼓動とか、
妙にリアルでくすぐったいのに……なんか、ちょっと安心した。
「……あやかはね、私の憧れなんだよ」
耳元でそうささやかれて、思わず顔が赤くなる。
「……憧れって、私なんかのどこがよ……」
戸惑いながら問い返すと、優香がふいに鼻をくんくんとさせた。
そして、おそるおそるといった様子で、そっと首筋のあたりに顔を近づけ――
「……ん、やっぱり、あやかの匂い……落ち着く」
「ちょ、な、なにしてんのよ!? ちょっと、やめなさいってば!」
あやかが慌てて身を引こうとすると、優香は「えへへ」と笑って、少しだけ抱きしめる力を強めた。
「だって、好きなんだもん」
「あんたってやつは本当に……
まあ、好きにしなさい」
ふん、と鼻を鳴らすけど、頬がゆるんでしまう――そんな顔で、私は優香を抱きしめ返した。
こんな時間が、ずっと続いてくれたらいいのにーー
この子の細い体を抱きしめながら、私はそんな勝手な願いを、思わずにはいられなかったんだ。
思えばどうして、あのときの私は、
あの笑顔を、もっとちゃんと見てあげなかったんだろう――
今になってほんの少しだけ後悔している。
抱きしめたり、笑い合ったり。
少し静かになった部屋で、ふたりだけの空気がゆっくりと落ち着いていって――
「じゃあ、そろそろ帰るね」
そんな言葉を残して、私は優香の家をあとにした。
ドアが閉まった瞬間、ちょっとだけ“寂しい”って思ったのは、たぶん、お互い様。
帰り道、優香のぬくもりをほんのりと感じながら、心地よい余韻に包まれて家に着いた。
靴を脱いでふとひと息ついたそのタイミングで、
――ほんの少しだけ、気になることを思い出した。
優香は「いい匂い」って言ってくれたけど――ほんとかな?
……もしかして、臭かったりして?
小さくつぶやきながら、洗面所の鏡の前に立って、制服のブレザーを脱ぐ。
ワイシャツ姿のまま、スンスンと鼻を鳴らしそっと脇のあたりを嗅いでみる――
「……なんか、ちょっと強めかも……?」
自分じゃあんまり分からないけど、どこかモヤっとする。
「もう中学2年生だし、こういうとこもちゃんとしなきゃな……」
ぽつりとつぶやいたその足で、私は近所のドラッグストアに向かった。
♢
その日はルンルンとした気分でお風呂に入って、ゆっくり湯船に浸かった。
全身を丁寧に洗って、タオルで水滴をぬぐってからあらかじめ準備していたものを手に取る。
髪にオイルをなじませて、首筋や腕、脚にはたっぷりとボディミルクを塗り込んでいく。
香りは、甘いフルーツ系。どこか大人びた、でも女の子らしい匂い。
「ふふっ……実は、さっきの買い物で買ってきたやつなんだよね」
誰に言うでもなく、ひとりごちる。
髪を手にとってくんくんとする。甘くてフルーティな香り。
体からも、ふわっと美味しそうな匂いが立ちのぼる。
「えへへ……これで優香に、もっと“いい匂い”って言ってもらえるかも」
つい、そんなことを呟いてしまった自分に気づいて、慌てて心の中で言い訳する。
――別に、優香のためじゃないし。ちゃんと、ひとりのレディとしてのケアなんだから!
♢
あやかは次の日から匂い対策を徹底した。
そうはいっても、やってるのはせいぜい汗を拭いたあとにスプレーと、
軽めのコロンをひと吹きするくらい。
それだけの、ごくごく普通の“女の子の身だしなみ”のつもりだった。
1人の女の子として、匂いにちゃんと気を使うーーそれが主な動機だった
だけど、それ以上に。
優香に“いい匂い”って言ってもらえるのを、何よりも楽しみしてたんだ。
まさか、それが――
クラスでの自分の“立ち位置”を揺るがすことになるなんて。
優香との関係に、亀裂を入れてしまうなんて……
そのときの私は、これっぽっちも思っていなかった。
優香はきっと、
「あやかはあやかのままの香りを漂わせてくれる」って――
そんなふうに信じてたんだと思う。
そんな、ささやかな優香の願いすらも、私は意図せずに打ち砕いてしまったんだと思う。
……それに気づくのは、もっとずっと後になってからだったーー。
あの日の放課後から、すべては始まっていた。
ここからは、宮下あやか視点の過去編。
2人の“すれ違いの物語”が静かに香り立つ。