︎︎第1話 魔界からの使い魔?!〜ロスト・メルアとふわふわな魔獣〜
この出会い、芳香につきーー
ルナはふわりと宙に浮かびながら、すっとあやかの目の前に降り立った。
その距離――ほんの数十センチ。
見上げるようにして、私はその姿を改めて見つめる。
「……あんた、いったい……何者なの?」
思わず呟いたその声は、知らず息を呑んだ私自身の震えを含んでいた。
全身を覆うのは、夜空のように艶めく漆黒の毛並みだった。
その一筋一筋が、夜そのものを濃縮したような重みある黒で、わずかに光を弾くたび、静かな気品を放っていた。
しなやかに伸びた四肢、やわらかく流れるような体のライン――
その佇まいは、どこか猫を思わせるシルエットだった。
一挙手一投足に、しなやかな優雅さと軽やかな気配をまとっていて、
まるで“夜”そのものが形を取ったような、静かな存在感がそこにあった。
細く長い尾が、リズムを刻むように空気を撫でる。
その先端はほんのりと鉤状に曲がり、どこか悪魔を思わせる妖しさを宿している。
その尾がしなやかに空気を撫でた、その余韻に導かれるように、肩甲骨のあたりから闇が静かにほどけ出す。
――コウモリにも似た漆黒の翼が、そっと花開いた。
それは、悪魔の“羽ばたき”と呼ぶにはあまりにも静かで、あまりにも美しかった。
羽膜は、空に浮かぶ薄いヴェールのようで、その中には天の星々が囁くように瞬いていた。
まるで、小さな星雲が閉じ込められているかのような――そんな、現実とは思えないほど荘厳な光景だった。
そして――その瞳。
銀の月光を凝縮したような大きな瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。
その奥には、縦に細長い獣のような瞳孔がゆらめいていて――目が合った瞬間、ぞくりと背筋が震える。
異質で、神秘的で、どこか畏れすら感じさせる視線だった。
……けれど、次の瞬間だった。
ルナがふいにのびをし、前脚をぐいっと伸ばして――盛大なあくびをひとつこぼした。
「ふあぁ〜……それにしても、まさかこんな逸材がほんとにいるなんてねぇ〜……」
長い舌が覗き、ちょこんと覗いた牙が、小さな光を返す。
尻尾がぱたぱたとソファを叩き、背中をふにゃりと丸めた姿は、さっきまでの荘厳な幻影とはまるで別物で――思わず、笑ってしまいそうになるほどだった。
魔界に生きる神の使いか、あるいは伝説の獣か――そんな第一印象は、あっけなく裏切られた。
そこにいたのは、気品と謎をまといながらも、どこか“ぬいぐるみのような柔らかさ”を感じさせる、不思議な生き物だった。
私は思わず息をのんだ。
この存在が異世界から来た何かである以前に
――ただもう、圧倒的に可愛かった。
あまりの可愛さに、胸の奥から何かが爆ぜた。
「……え、ちょっ、なにこの子、やば、無理……」
語彙が溶ける。思考がとける。感情だけが暴走する。
「きゃ……きゃわわわ……♡」
次の瞬間、私は床を滑るようにして駆け寄り、
理性のブレーキごとすっ飛ばして、ルナをぎゅっと抱きしめていた。
「なにこのふわふわ……あったか……しっぽぱたぱたしてるぅ……!!」
柔らかい毛並みに頬をすり寄せながら、私はもはや原型を失った日本語でうっとりと唸る。
「こっ、こんな可愛い生き物が存在していいの……?」
一方で抱きしめられたルナはというと、少し困ったように耳を伏せて、ぱたぱたとしっぽを振りながら声を上げるも、その想いが届くことはなかった。
「……ちょ、ちょっと! わたしは神聖な使い魔なんだけど!? む、無礼が過ぎるわよ!」
「なんて愛らしい生き物……やっぱり可愛いは世界を救うんだね……!!」
涙ぐんだ声でそっと呟いた。
この出会いがどれだけ非現実でも、目の前の存在だけは……信じたくなるくらい眩しかった。
「んぎゅっ……んぎゅぎゅっ……!!」
その胸の中で、ふにゃりと丸まった小さな体が、じたばたと暴れ、必死に何かを訴えていた。
けれど、私の耳には、もう何も入ってこなかった。
「だから……!!!世界を救うのはアンタだっていうの……!!!!」
 ̄ ̄ ̄ ̄
「……ふぅ〜〜、ほんと、疲れるわ……」
小さくため息をついたルナは、しっぽで顔をぺしりと拭うと、どこか呆れ半分、諦め半分の表情で私を見上げた。
「……まあ、可愛いのは否定しないけど。限度ってもんがあるでしょ、常識的に考えて……」
ふと目が合うと、私は気まずそうに視線を逸らす。
嬉しさでテンションが上がりすぎていたことは、さすがに自覚していた。
「ご、ごめん……ちょっと……うれしくて、つい……。その、なんか……変だったよね……?」
「まあ、いいわ。……やっぱり私って、めちゃくちゃ可愛いし? 見惚れちゃうのも、無理ないわよね〜⤴︎」
ルナが少し自慢げにつぶやく。
その自信満々な態度にちょっと呆れつつも、いつの間にか砕けた口調が自然で……
そんな距離の近さが、なぜか嬉しくもあった。
ルナはふっと鼻で笑い、ソファの上にぴょこんと座り直すと、羽をたたみながら真顔になった。
「……じゃあ、改めて説明するわね。あんたの“力”が、どれほどとんでもないものかってこと」
少し息を整えるように間を置いて、ルナが語りはじめる。
「“ロスト・メルア”――それは、かつて魔界を香りで支配した存在に与えられた、最も高貴なる称号よ」
「その香りは、ただ魅了するとか、いい匂いってだけじゃないの。
空気そのものを染め上げ、感情も意識も、ときに運命すらねじ曲げる。――そんな、世界の“法則”に干渉する香りよ」
「ちょっと待って……それって、本当に私の足から出てるってことよね?」
「もちろんよ。そうでもなきゃ、私がわざわざ人間界に出向く理由がどこにあるってのよ」
「いや、でも……さすがに、それは――信じられないっていうか……」
私の言葉に、ルナはふっと目を細めて続けた。
「“ロスト・メルア”――その香りを宿した者は、もう長らく現れなかった。だからこそ、“失われた香気”と呼ばれるようになったの」
ルナはそこで一拍、言葉を区切る。
「けれど――」
その瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「――あんたの足元から香るそれは、
伝説として語り継がれた“ロスト・メルア”すら凌ぐかもしれない。
時代を超えて現れた、比類なき香気。
……まさか、ここまでとは思ってなかったけどね」
声色に、どこか呆れと感嘆が混じっている。
「ただ空気を染めるだけじゃない。
人の意志を撓め、感情をねじ曲げ、選ばれた者の運命すら狂わせる――
それは、“香り”という形をした、一種の支配。
触れずにして世界に干渉する力よ。もはや、魔法より理不尽な存在。」
ルナの声はひどく静かで、それがかえって現実感を引き裂いてくる。
「……そんなとんでもない代物がね――
よりにもよって、“あんたの足”から漂ってるってわけ。
まさか誰が想像できたかしら。
ロスト・メルアすらも超える、“禁忌”の力が――
平凡で、ちょっと内気な女子高生の、靴の奥底に眠っていたなんてね」
ルナは、まるでそれが滑稽でたまらないとでも言うように、くすっと笑った。
ルナの語りが止むと、部屋の空気がすっと静まった。
私はふと、足元へと視線を落とす。
さっきまで“自分の足から特別な香りがする”という話で動揺していたはずなのに――
今は、それよりずっと気になることがある。
「……ロスト・メルア」
ぽつりと、その名をもう一度口にする。
「なんか……“失われた女神”みたいな響きだね……」
ほんの思いつきで呟いたはずなのに、
その言葉が、自分の奥の奥に触れてくるのを感じた。
それがただの称号だなんて思えなかった。
まるで、本当に“誰か”が、そこにいたような――そんな、感触。
「……ちょっと、悲しい名前かも」
「え? どこが? めちゃくちゃ名誉な称号よ?」
ルナはきょとんとした顔で、しっぽをぱたぱたと揺らしている。
彼女にとって“ロスト・メルア”は、誇りと栄光の象徴でしかない。
でも私は――
その言葉の奥に、誰にも語られなかった“誰かの記憶”を、ふと感じた気がした。
その“誰か”が、かつてここにいて、
香りと共に、何かを託して消えていったような……。
私の感じた孤独や、世界から忘れられていたようなあの感覚は、
もしかしたら、どこかで“その存在”と、繋がっているのかもしれない。
けれどそれは、今言葉にするようなことじゃなかった。
「――ま、いっか」
私は小さく笑って話を切った。
ルナもそれ以上は何も言わず、ひょいと身を翻し、別の話題へと移っていった。
だけど胸の奥には、まだ残っていた。
“ロスト・メルア”。
それは、ただの伝説じゃない。
その名は、やがて私の心の深い場所で、静かに目を覚ますことになる。