プロローグ 世界で一番美しい悪夢
足の匂いで、世界がざわつく!?
まさかの香気ファンタジー、はじまります。
鳴りやまない拍手喝采。
消えることのない歓声。
満天の星空の下、光の粒が降りそそぎ、
私はまるで、この世の祝福すべてをまとったような輝きを宿していた。
白く眩しいドレスは風にたなびき、胸元では、世界最高峰のブランドが唯一無二と認めた宝石が、静かに光を放っていた。
世界中のまなざしが、今この瞬間、私ひとりに注がれている。
その瞬間、私はもう、人間ではなかった。
ただひとつ、夜空に燃える星そのものだった。
「 世界中の視線を、ただ一瞬で奪い去る存在。
その輝きは、あらゆる美の象徴を凌駕し――地上に降り立った“女神”とさえ称される。
世界の歴史が、ついに新たな名を刻むときが来ました。
この世で最も偉大な称号――“グローバル・ミューズ・エテルナ”。
宮下あやかさんです!」
高らかに響くアナウンスに、フラッシュの嵐が応える。
視線は、賞賛は、世界中の憧れは、すべて私ひとりのものだった。
雑誌の表紙、パリのショーウィンドウ、SNSのトップトレンド……
“あやか”という名前は、今や永遠に語り継がれる伝説。
「ありがとう、みんな……私はずっと、夢を見てきたの」
涙をにじませて微笑むと、歓声はさらに高まり、
その音の波が世界を満たしていく。
ステージの袖には、あの頃の私がいる。
誰にも気づかれず、空気のように存在していた“陰”の少女。
でも今は、その姿に確かな光が宿っていた。
“変われた”――そう、私は自分の力で未来を掴んだのだ。
そのときだった。
背筋に、ぞわりと冷たい感触。
「……え?」
目の前の真紅の絨毯が、ぐちゃりと濡れた音を立てる。
足元に広がっていく、黒くぬめった染み。
ドレスの裾に染み込んでいくそれは、夢のきらめきを、確実に穢していく。
舞台前列、華やかなドレスのインフルエンサーたちが顔をしかめ、ヒソヒソと囁き合う。
「うそ、まさかステージから……?」
「この香り、さすがに“演出”じゃないよね……?」
次第に、誰かが言葉にした感想が、波紋のように広がっていく。
「……くさ」
「こんなの嗅がされたくてチケット買ったんじゃないんだけど?」
「あれが“女神”?香りの話なら、皮肉が過ぎる」
凍りついた空気。
さっきまでの拍手喝采は、もうどこにもなかった。
あの瞬間、世界の中心だった私は――今や、嫌悪と嘲笑の的に成り果てていた。
鼻を刺すような悪臭の中で、ただ黙って立ち尽くすことしかできなかった。
幼い頃から夢見てきた、
ようやく掴んだはずの栄光。
なのに、どうして……?
「ねえ……どうして……?みんな、行かないで……」
呟いた声は、どこにも届かず、虚空に溶けて消えていく。
あれ……違う。これは……夢じゃ――
──ガタンッ!
鈍い衝撃とともに、机に額を打ちつけた。
目を開けると、そこはステージでもスポットライトの下でもなく――ただの教室だった。
ぼんやりと顔を上げた私の前で、女子数人がこちらを見て笑っていた。
その手には、カラフルな消臭スプレーの缶。
「スメル・ミューズ、今日もご健在☆」
「その神の香り、マジで天界まで届きそう〜(笑)」
机の隅には、マジックで走り書きされた文字。
――『スメル・ミューズ参上☆』
夢の中では、女神だった私が。
現実じゃ、悪臭担当のマスコットらしい。
これが、私。宮下あやか。
夢の中では、みんなの憧れ――“女神”だった。
でも現実じゃ、「スメル・ミューズ」なんて呼ばれてる。
スメル=臭い、ミューズ=芸術の女神。
意味がわかると、笑えない。
一見すると、ちょっと洒落た海外セレブの名前みたいだから、なおさらタチが悪い。
「きゃはははは……♡」
背後から、ひときわ甲高い笑い声が響く。
声の主は、西野優香。
教室の中心に立つ“本物のカリスマ”。
今日も私は、変わらず彼女の“おもちゃ”だった。
わざとらしく手を挙げながら、ゆっくりと近づいてくる。
「“スメル・ミューズ様”の香り、嗅ぎたい人〜?」
「あれれ? 女神様の香りには“ご利益”があるんじゃなかったっけ?(笑)」
クラスの女子たちに問いかけながらも、その口元には、明らかに悪意を込めた笑み。
“女神様”なんて言葉をわざわざ使って、私を辱めようとしているのだ。
やっぱり、“カリスマ”の悪口センスは、一級品。
優香は鼻をつまみ、わざとらしい声で言う。
「中学のときは、“匂いでモテてる”気取りだったよね? ウケる〜」
その場にいた女子たちが、タイミングを合わせたように笑い出す。
……さっきまでのような勢いじゃない。
どこか、何かを誤魔化すような――薄っぺらい笑いだった。
そう、私の居場所なんて、この教室のどこにもない。
それでも――
胸の奥で、あの夢だけが、なおもしつこく光を放っていた。
消えてくれれば、楽なのに。
現実との落差が、余計に胸をえぐった。
午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
数式も、英単語も、ノートに書くだけで精一杯だった。
優香の視線が時折背中に突き刺さってくる。
でも、私は顔を上げなかった。
チャイムが鳴り終わると、クラスメイトたちは自然とグループごとに笑いながら席を立っていく。
私はいつもどおり、誰よりも早く教室を出た。
下駄箱までの道のりが、無駄に長く感じるのは今日に限ったことじゃない。
すれ違う生徒たちの視線が、どこか靴のあたりに向けられているような気がして、自然と早足になる。
履き古したローファーを足に通した瞬間、ふと鼻をかすめた香り。
あの夢の中でドレスにまとわせていた、花のような芳香じゃない。
これは、私自身の匂い――もう、忘れたはずの“あの香り”。
それはふわりと、いつも以上に強く、途端に立ちのぼった
(……やば、今日、足のケアちゃんとしてなかった)
朝から焦ってて、靴下の替えを入れ忘れていたことを思い出す。
それに加えていつもより西野たちのいじめも酷く、足の蒸れにまで気が回らなかった。
急いで靴を履き直す。匂いなんてしないふりをして。
私が、私自身でいることをなかったことにするように。
⸻
足元の熱を気にしながら、早足で家路をたどる。
夏の夕方。
アスファルトの照り返しと、自分の足音だけが街に響く。
じっとりとした汗が、足裏にまとわりついているのが分かる。
家に着く頃には、夕焼けが街の輪郭を真っ赤に染めていた。
マンションの廊下を歩く足音がやけに響いて、ドアの鍵を開ける手すらも汗ばんでいた。
「……ただいま」
もちろん、返事はない。
両親は共働きで、帰ってくるのはいつも夜遅くだ。
広すぎる家。
電気をつけても空気は冷たくて、ただ広がっているだけの静寂が、どこか虚しい。
私はかかとを鳴らすようにして廊下を歩き、靴を脱ぐのもそこそこに自室のドアを開ける。
自室の扉を閉めた途端、1日の疲れがどっと溢れ、制服も脱がず、靴下すら履いたまま。
鞄をぽいっと投げて、そのままベッドへと身体を預けた。
静かすぎる部屋。自分の呼吸だけが、やけに耳に響く。
目を閉じる。
天井の照明がじんわりと瞼の裏ににじみ、
心も体も、何もかもが、ゆっくりと沈んでいくようだった。
今日もなんとか、生き延びたーー
ただ、そんな実感だけが、ぼんやりと身体の奥に染み込んでいく。
ほんのわずかな時間が流れたころ、
あたりはすっかり暗くなり、カーテンの隙間から夜の気配が静かに覗いていた。
ちょうどそんな頃だった。
「……昔は、もっと自然に笑えてたのに…。」
まどろんだ意識の中で誰に言うでもなくそう呟いた。
一体いつからだろう――私は、こんなにも自然に笑えなくなってしまったのは。
昔の私は、今よりもう少し人気者だった。
少なくとも、こんなふうに惨めな気持ちに押しつぶされることなんて、なかったのに……。
溢れそうな感情を抱えたまま、目を閉じる。
――ふわり。
靴下越しに立ちのぼる、じっとりと汗ばんだ足裏の匂い。
それは、夏の風に溶けるように柔らかく鼻先を撫でていった。
そして、そのときだった。
静まり返った部屋の中で、私はふと、胸の奥がざわつくのを感じた。
空気が、変わった――気がした。
まぶたの裏、何かが淡く“灯った”ような気配。
(……なに、これ)
次の瞬間。
それは確かに、始まった。
目を閉じていたはずなのに、光が差し込んだように視界がじわりと明るくなる。
私は、ゆっくりと目を開けた。
足元の方から、ほんのりと淡い光が漏れている。
ベッドの下に置きっぱなしにしていた、あの古いローファー。
中学の頃、よく履いていた――私の、小さな“栄光”の名残。
そのリボンが、確かに、光っていた。
光はふわりと宙に浮かび、ぼんやりとした風が部屋を流れる。
さっきまでの蒸れた匂いが、少しずつ変化していく。
どこか蒸れていてそれでいて甘く、花のような、かつて嗅いだことのない心地良い香りに変わっていく。
そして――
空間が、かすかに“ひび割れる”ような音を立てた。
次の瞬間、床のすぐ上に黒い“裂け目”がふわりと現れ、
その中心で、銀の月のような瞳が、静かに開いた。
「……やっと、見つけたわ……」
微かな囁きとともに、闇の裂け目がやわらかくほどけていく。
その中から、まるで空気に染み込むように、ふわりと“それ”は現れた。
黒く艶やかな毛並み。しなやかな四肢。月光を宿したような瞳。
どこか猫に似ているけれど、それよりずっと不思議で、神秘的で……可愛らしい。
「うそ……猫? いや……なにこれ……」
ぽかんと呟いた私に、“それ”は羽を揺らして軽く宙に浮かびながら、言った。
「わたしの名前はルナ。香気の使い魔――だけど、そこらの使い魔とは格が違うのよ。魔界でただひとり、“女神の香り”を探す任を託された、特別な伝令を任された上位の使い魔よ」
そう胸を張ったあと、ルナはふと、私の足元を見つめた。
そして――まるで夢でも見ているかのように、うっとりと目を細めながら、小さく呟いた。
「……それにしても、まさか、本当に居たなんて。伝承だけの存在かと思ってたのに……」
その声には、驚きと喜びと、ほんの少しの安堵がにじんでいた。
口調はやけに軽やかなのに、その言葉が放つ響きには、不思議と重みがあった。
「あなたの足から香るその匂い……これは、ただの“蒸れた匂い”なんかじゃない。
“ロスト・メルア”――それは、香りで世界を支配できる存在にだけ贈られる、魔界で最も高貴な称号。
魔界中の誰もが、その香りの前では膝をつくと言われているの」
「でもね、あなたの足元から立ちのぼるそれは……もっと深い。
魔界や人間界、あらゆる次元を形づくる“世界の法則”すら、君の香りに屈するかもしれない。
星々の軌道さえも、運命の流れさえも、香りのままに揺れ動く。
まさか……奇跡や神ですら越えていくような力が、本当に存在していたなんて……」
「……え、うそ……そんなの、あるわけ……でも……。
それって……ほんとに……わたしが、人気者になれるってこと……?」
あまりに唐突な話に、私は思わず身を乗り出していた。
ルナは月のような瞳を細め、くすっと笑う。
「人気者になれる、だなんて――
そんな次元の話じゃないわよ」
ルナは、静かに一歩、あやかの方へと近づいた。
その瞳には、ふざけた調子とは裏腹な、確かな確信が宿っていた。
「――あなたの足にはね、
世界を変えるだけの力があるの」
その言葉が、静かに、でも確かに、胸の奥に届いた。
「……これ、夢じゃないの? いや……でも……」
言葉のあとに、しんとした静寂が落ちる。
信じきれない。
信じちゃいけない。
だって、こんな都合のいいこと……あるわけない。
けれど胸の奥、ほんの小さな場所で、
確かに何かがふわりと浮かび上がってきた。
“もし、これが本当なら。”
その“もし”が、ひどく甘くて、くすぐったくて、
痛いくらいに、心を揺らす。
……ふわり。
靴下越しに立ちのぼる、蒸れた足裏の匂いだけが、
この不可思議な光景の中で
ーー確かに、本物だった。
そして、胸のどこかが静かにざわめいた。
私の物語が、今ここから始まる。
そんな予感が、静かに胸を満たしていった――
プロローグを読んでいただき、本当にありがとうございます。
この作品は、人生で初めての投稿小説になります。
「足の匂いで世界を変える」という、ちょっと突飛なテーマではありますが、
ネタにとどまらず、しっかり“物語”として楽しんでもらえるように――
構成やキャラクターの心の動き、セリフ回し、そして一つひとつの描写や表現にこだわって、丁寧に書き進めました。
また、シリアスな展開と、時折差し込まれるギャグやポップなシーンとのギャップにも力を入れています。
笑ってほしいところはしっかり笑って、刺さる場面ではじんわり響いてくれるような、そんな緩急のある物語を目指しました。
少しでも「面白いかも」と思っていただけたら、本当に嬉しいです。
気になったシーンや、好きなセリフなどがあれば、ぜひ感想を添えていただけると励みになります!
この先も、丁寧に、そして楽しみながら物語を紡いでいけたらと思っています。
どうぞ、よろしくお願いいたします!