0.金
アドルフ・カルシュ。齢21の若き国王であり、先代が急逝したために国王教育の途中で国の頂点に立たざるを得なくなった青年。彼を気の毒と評するか期待の星と崇めるかは、この国を二分にした。
彼の父親である先王は慈悲深く優秀な人物であり、より国の安定化を図るため、隣国の資源が豊富なレベジェフ国との外交を目的に、息子のアドルフと年頃のレベジェフ国の王女イリーナの婚姻を取り付けた。つかず離れずの薄氷のような外交を行っていた二国間の関係性は、この二人の婚約によって親睦を深めるまでに変化し、カルシュ国は他国よりもレベジェフ国からの資源を手に入れることに成功させた。一方レベジェフ国は豊富な資源の活用法をカルシュ国から輸入し、そしてそれを自国の雇用先の拡大として活かし、人口増加による弊害の解決を見出すことができていた。
しかし、この婚姻は先王の死によってカルシュ国内を混乱に陥れるには十分な要素となった。
先王の一人息子であるアドルフが20になったとき、二つ年下のレベジェフ国のイリーナがカルシュ国に嫁ぐ約束は先王が死んでもなお生きたままではあったが、アドルフが19の時に急逝したために自動的にアドルフが次期国王となり、嫁いですぐにイリーナは時期王妃として君臨することが約束されてしまった。
これに反発をしたのが、カルシュ国に長年宰相として仕えてきたグートマン侯爵家だった。19のアドルフは国王教育が未達であり、王として頂点に君臨するにはまだ早いという評価を下した。そして同じような評価を他国から嫁ぐイリーナにも言い渡す。先王からの直接の戴冠を受けるまでに、イリーナには特別にカルシュ国の王妃教育を受けさせる予定があったのだ。
グートマン家は、婚姻を白紙にしてカルシュ国の基盤を固めることをアドルフに進言した。
しかしそれに強く反抗したのは、アドルフではなく彼の母親、当時の王妃だった。
先王妃はレベジェフ国との婚姻の効果を先王以上に期待しており、婚姻を破棄させることなどもってのほか、宰相へ強く糾弾した。
これにより、カルシュ国は宰相派と先王妃派として二つの派閥が出来上がり、この国を二分化させてしまった。
結果として、アドルフが20になる前にレベジェフ国のイリーナを迎え入れることで双方は合意をした。しかし、若干の先王妃派よりの結果となったこの合意は、あくまで二分化の苛烈化を抑えるためだけの結果となり、アドルフとイリーナの結婚後も二分化は残ったまま、イリーナはよそ者としてカルシュ国に足を踏み入れることになった。
そんなイリーナに優しくするのは、もちろん先王妃だった。彼女のためにあらゆるものを用意し王妃教育も自ら先王妃が手掛けるほどだった。
彼女の真摯な王妃教育を継続させたのは、イリーナの出身国より受けていた基礎的で完璧な王妃教育そのものだった。アドルフとは異なり、完璧な基盤を持ち合わせていたイリーナを先王妃はさらに強く支持し、アドルフとの仲の仲介を何度も担った。
結婚式での面会が初対面だったアドルフとイリーナが、先王妃の計らいで仲良くなることはそこまで難しくなく、イリーナも彼を支えることを使命としていた。アドルフもまた、イリーナの優秀さを母親から聞き、彼女を信頼するに時間はかからなかった。
結婚式と同時にアドルフの戴冠式を迎えたカルシュ国は、表向きは新しき太陽を歓迎するムードであったが、やはり面白くなかったのはグートマン侯爵だった。
彼には、ある思惑があった。グートマン侯爵家にはアドルフより5つ下の美しい娘がいた。先王の急逝を経て、国内の基盤を固めるために自分の娘をアドルフの妃にして、王室と侯爵家のつながりを確固たるものにしようという考えだった。
しかし、それはレベジェフ国の資源に目がくらんだ先王妃によって阻まれ、彼は唇をかみしめながら宰相として仕えることになる。
だがグートマン侯爵家は何十年とカルシュ国王室に仕えてきた優秀な家系であり、現侯爵が自身の思惑を簡単にあきらめるほどの儚い誇りを持っているはすがなかった。
その結果が、水面下に存在するカルシュ国の2大派閥であり、現在イリーナの目の前で繰り広げられる光景の根本的な原因なのだ。
「長いお勤め、大変ご苦労様でございました」
腰を曲げ、完璧な動作で礼をするイリーナの長い銀髪が揺れる。彼女の後ろに控えた3人の侍女も同じように礼をした。
頭を下げたイリーナの目の前には、たったいま白馬から降り、身支度を軽く整えたアドルフとアドルフの腕と自身のそれを絡ませて歩いてくる桃色のドレスを身にまとった年若い女性がいた。
アドルフの表情は、頭を下げているイリーナにはわからない。だが、困っているとも喜んでいるとも思えない表情で歩いているのだろう、とイリーナは考える。
「もうさむーい、ここ!」
なぜなら、アドルフに向って声をかけたイリーナの声を無視するように、気温の感想をひとりでに話す桃色の彼女の声がイリーナにも聞こえたからだ。
彼女の名前はメラニー。グートマン侯爵家の令嬢であり、侯爵がアドルフの婚約者候補に推薦した女性である。
しかし、今となっては地位は王妃であるイリーナのほうが上。本来であればイリーナの言葉を無視し遮るなど礼儀としては最悪の行為であるが、それを現国王と現王妃が罰しないのは、アドルフとメラニーの関係が理由だった。
「メラニー、寒いのならば先に城内へ入っていてくれ。後で向かう」
「はぁい、アディ」
国王の愛称を王妃の前で呼ぶ図太さには関心者ね、とイリーナは一人心の中でごちる。
二人は幼馴染として幼少期から共に過ごし、アドルフにとってメラニーは実の妹のような存在だった。さらにメラニーの実家グートマン侯爵家の血縁には教皇庁の関係者もいる。メラニーは王立学園で教皇庁について学び、王室と対等に接することのできる教皇庁の人間として、アドルフの隣に立つことを許されているのだ。
政教分離を掲げているカルシュ国ではあるが、実際は教皇庁との関係を悪化させることは傾国の原因にしかならないために、アドルフも先王もまた教皇庁には強く出ることはできず、それをイリーナも十二分に理解していた。
だからといって、愛称呼びが許されるわけではないが、とイリーナは思う。
「ただいま戻った。君は変わりないか」
メラニーがイリーナの後ろに控える侍女たちよりも多い付き人を引き連れて、勝手に城内に入っていくのを横目に、イリーナは目のまえで自分の安否を確認するアドルフを見つめる。
彼はまだ未熟だ。口調だけ先王のものを真似ていても、カルシュ国の国王教育を終える前に国王として即位してしまった彼の頭を占めるのは、人間関係ではなくこの国の統治や政治、外交。王妃と元婚約者候補の教皇庁の人間の関係性なんて、きっと彼には気に留める余裕などないだろう。
「はい、陛下。わたくしはずっとこの城で陛下のご無事をお祈りしておりました」
「そうか。後ほど今回の遠征について話をしたい」
「承知いたしました。…陛下の湯浴みの準備を」
軽く頭を下げ、控えていた侍女の一人に命じる。イリーナの命令に素早く反応し、城内へと消えていった侍女を確認し、イリーナはもう一度アドルフを見つめる。
黄金色に輝くアドルフの髪が、白亜の城の冷気に晒されながらふわりと揺れる。乾いた空気が彼の短い髪の彩度をさらに高める。髪の中で見え隠れする新緑のような瞳は、遠征前よりも強さを取り入れたようで心なしかたくましく感じさせた。
少しじっくり見つめすぎただろうか、イリーナの視線にアドルフが少しきまずそうに視線をそらした。
「イリーナよ、何か、私に言いたいことがあるのか」
「はい、陛下のお美しいお姿に見とれておりました」
「…そうか、ありがとう。イリーナもその、ああ、変わらず美しいままだ」
イリーナの流れるような賛辞にまだ慣れることができないアドルフは、寒さか照れか、顔を赤らめて礼を言い、イリーナへ賛辞を贈った。
イリーナにとって賛辞を贈ることは何よりも簡単なことだった。それも王妃教育のたまものだ。しかし、アドルフはまだこれになれることはない。アドルフの教育において優先されたのはこういったものではなかったからだ。
イリーナの完璧な腕の動作で、自然と二人は腕を組み、白亜の城の中へ入る。イリーナはすぐ横に金色の髪がちらつくことが気になった。
夕焼けがこの土地の雪を染めたような彼の髪色を、イリーナは存外嫌いになることはできなかった。