第2話 東の森
一、
「ウカさま⁉ 大丈夫ですか!」
フレイが声高に叫んだことで、二人は我に返った。それまでは時が止まったように固まっていた。
「大丈夫……ではないみたい」
ウカは内心では激しく動揺しながらも、妙に冷静な声でつぶやいた。目の前にいるスイラは下を向いたまま呆然としている。それはそうだろう。誰も妖精の霊力が宿ると言われる髪が偽物だとは思わない。
中途半端にずれたカツラの中に乾いた風が吹き抜けていく。
──やっぱり、まとめてくればよかった。
最初に国王に謁見するときは髪を束ねないこと。これは派遣される前に決まり事として読まされた文書の中に書いてあった。たぶん、巫祝としての権威を示すためとかいうくだらない理由だ。
「留めが甘かったのね。アリアに怒られてしまう……」
だから、ウカが最初に案じたのはカツラを作ってくれた従者のことだった。エミ国への道行きの中で、泣きながら切り落とした髪を加工していた姿が眼裏に浮かんだ。
自分はどうなっても構わないが、ここまでついてきてくれた従者に被害が及ぶことは避けたい。
「……あの、この件は内密にしたいのです。今日のこと、誰にも他言しませんから痛み分けという形でどうにかならないでしょうか?」
無理を承知で目の前にいる第二王女に提案してみた。
「え? あ……というか、ごめんなさい! わたし踏んだままだった!」
スイラは我に返ったように、慌てて足をどけた。中途半端に背中に引っかかっていたカツラを手に取って渡してくれる。
「あぁ……こんなにきれいなカツラ見たことない。オーラリーの妖精はみんなこうなの? わたしが読んでいた歴史物語は間違った記載ばかりだった」
今度はウカが驚く番だった。よほど世間知らずなのか、それとも柔軟性があるのか。巫祝に会ったのが初めてだからだろうか。けれど、勘違いしてくれているなら好都合でもある。
「毛先が痛んでない? 今度お会いするときに髪につける香油を持って行くから、それで許してくれる? わたしの髪には全然きかないやつがいっぱいあるの」
スイラの真っ黒な瞳は真剣で、本当にカツラのことを案じている様子だった。友達になりたいと言ってくれた時のはにかんだ笑顔がよみがえる。
「あの……巫祝がみなこうではありません。私がここへ来る道行きで髪を切ったのです。すべては私一人の判断でやったこと。罪に問われることは承知の上です。どうか従者たちは見逃してくれませんか?」
「ウカさま⁉ なにを……」
ウカは再び腰を折ってスイラに頭を差し出した。たまりかねたようにフレイが飛んできて傍らに膝をつく。
「……どういうこと? 罪って? あぁ、わからない……でも、面白い。わたし、まだ知らないことがいっぱいあるのね」
地面を見ていたウカの前に柔らかそうな手が差し伸べられる。
「ねぇ、こっちを向いて」
「……?」
ウカが顔を上げると、目の前にスイラの顔があった。戸惑っているウカの手をとって、ひそめた声で言う。
「よくわからないけど、秘密にする。それでお願いがあるの」
巻き毛が頬にあたる距離感で、スイラはささやく。
「わたしにオーラリーのことを詳しく教えてほしい。講義してくれるならあなたの髪のことは絶対に黙ってる」
ぎゅっと手を握った力加減でスイラが本気なことはなんとなく伝わってきた。ウカにとってはあまりに容易な提案だった。
「わかりました。約束しましょう」
二、
東の森には精霊が住み、水と緑に囲まれたいくつもの神殿に暮らしている。精霊たちは地面にまで届く美しい髪と日に透ける翅を持ち、不思議な力で神々の声を聞く──。
──そんなものはまやかしだ。
ウカは沐浴をすませた身体に簡素な布地をまといながら、昨日読んだ歴史物語の一文を思い返した。
先日、正式にエミ国に派遣されることが決まった。通常であれば月に一度の「祈りの日」に合わせて森の主から直接伝えられるはずだが、ウカのもとには使者が一人訪れただけだった。
『主さまはこの頃体調がすぐれず臥せっておりますゆえ、文書を頂戴しました』
──うそつき。
他の六人の子であれば──特にお気に入りのミラなどであれば絶対に直接伝えられたことだろう。それが、いいか悪いかは置いておいても。
古い歴史物語は従者のイヴが町から仕入れてきた。エミ国へ出発するのは三日後、その前に少しでも文化に触れられれば、という親切心からだ。
ウカに与えられた神殿は主神殿から最も遠い森の端にあった。そんな大変な場所に長年通ってきているイヴは今度の派遣にも前向きだった。
──「同い年の巫祝の中でも一番最初だなんて、期待されている証拠です」
本気で言っているのか、思わず聞き返そうとした。けれどイヴの目があまりに真摯で、ウカは口をつぐんだのだった。
──だけど、いよいよここから出られる……。
考え事をしている間も、長年の習慣で手は自然に動いていた。礼拝用に焚く香をより分けて、ガラス容器へと移していく。それを神殿の決められた場所に置くと火をつけた。
ウカは水時計を確認して、控えの間に入ると結んでいた髪をほどいた。
「ウカさま、おはようございます! すみません、遅くなってしまいました」
扉を叩く音がして、返事をする間もなく飛び込んできたのは従者のアリアだった。ふっくらとした頬が上気していて、走ってきたのだとわかる。
「ぴったりよ。もっとゆっくりでもいいのに」
「いいえ! 今御髪を整えますから、待ってください」
アリアは穏やかな性格だが、ウカの髪の手入れにだけは並々ならぬ熱意を持っている。妖精の巫祝たちは生まれた時から髪を切らない風習があった。
それは神託を聞くための力が髪に宿ると信じられているからだ。歴代の巫祝たちも髪の手入れには余念がなく、各人に専門の髪結い師がついている。
──別にいいのに。
ウカは自らの髪を一筋手に取ると、腕を伸ばして窓から差し込む光に透かした。くせのない従順な髪の毛はするりと手から落ちていく。
「……重い」
「いかがなさいました?」
いつの間にか、アリアが身支度を終えて出てきていた。
「ううん。なんでもないの」
ウカは顔を引き締めて、笑顔をつくった。水が落ちて、鐘がなれば続々と朝の礼拝に訪れる人々に対応しなければならない。
三、
まだ暗い早朝、ウカは三人の従者を連れて東の森を発った。
巫祝が神殿を出るときには厳かな儀式を行うのが通例だったが、できるだけ短く済ませた。見送りに参加したのはオーラリーから毎朝礼拝に来ていた熱心な信徒数人だった。
「ウカさま、本当に俺の馬でいいんですか? ディタは……」
「いいの」
出発前に確認したにも関わらず、フレイは名残惜しそうに神殿を見上げた。ディタとはウカの愛馬の名前である。主神殿から移ってきたときに一緒に連れて来た。白毛のよく懐いた馬だった。
「エミ国の神殿につけば乗ることはないでしょう? 慣れた土地のほうが安心だから」
ウカはディタだけでなく愛用品のほとんどは神殿に残してきた。持ってきたのは長年使っている茶器のセットと主神殿から下賜
「フレイの馬には長旅で疲れさせてしまうけど……」
「いえ。水で清めた石英もたくさんありますし、ゆっくり休んだあとで元気がありあまってるくらいです。ウカさまこそ、お疲れでは?」
石英は水晶の類を示す石だが、神殿の水で清めることで不思議な力を持つ。馬に与えれば長く走っても疲れにくくなり、火に与えれば燃え続ける。太古の昔から東の森で受け継がれてきた技法だった。
ウカは石を水で清めるために二日ほど神殿に籠っていた。フレイはそれを心配してくれているのだ。
「大丈夫。馬車で眠るから」
「ウカさま! もうすぐオーラリーの街道ですから頭を引っ込めてください」
馬車の中からイヴに呼ばれて、ウカは窓から出していた体を戻した。
オーラリーの街道を抜けて、しばらく行くと小さな宿場についた。今日はここで休み、明日の朝にはエミ国の王宮に入ることになる。
「もうお休みになりますか?」
夕刻、部屋にウカを案内したイヴがひそめた声で言った。巫祝がいることは宿屋の主人にも内密にしてある。
「ええ。少し疲れたから、明日の出発までは一人にしてくれる?」
「はい、もちろんです。隣の部屋におりますから何か御用があればすぐに呼んでください」
ウカは部屋のベッドに腰かけて、ぼんやりと暗くなった窓を眺めた。それから肌身離さず持っていた短刀を引き抜いた。手入れを怠ったことはなく、一度も使ったことのない刀身に顔が映っている。
──万が一のときには、これを使うことをためらってはならない……。
生まれた時を同じくする七人の子どもたちは幼い頃より教えられてきた。何をどうするかは自分で考えるように、とも。
──たぶん、こうやって使うことは考えられてないんでしょうけど。
ようやく、この時が来た。
ウカは結んでいた長い髪をほどくと、もう片方の手で掴んで刃を押し当てた。鋭い刀身は当てただけで切れる感触があった。勢いに押されるように力を込めて、刃を引く。持っていた一房はあっという間に手の中に落ちた。
──ああ、こんなに簡単なことだったんだ。
最初に切った銀髪を机の上に置くと、あとは夢中だった。鏡の前で次々と手でつかんだ髪の毛を切り落としていく。
──私には翅なんて生えてないし、美しい髪も……もうない。
その時間は神殿を出る前にやった禊より、よほど儀式めいていた。