双魂の英雄
プロローグ「変化はいつも突然に」
1
代り映えしない日常ほど退屈なものはない。平凡な毎日は人の心を腐らせ、変化を求める冒険心を奪っていく。―その結果として残るのは、空虚な生活を是とする怠慢。
劇的である必要はない。ただ少し、ほんの少しの変化でいい。それだけで見える世界はがらりと姿を変え、鮮烈なほどに胸を焦がしていくだろう。
そして、そうした変化は自ら飛び込んでくるものではなく、能動的に物事にかかわろうとするものにだけ訪れる、一筋の光明のようなもので。
「そう、だからこそ俺は積極的に他人事に首を突っ込む!」
そこまで長々と演説を垂れていた少年は、いっそ清々しいほどに力強く、くだらない妄言で結論を結び、鼻息も荒く拳を天に突き上げた。
少し長めの黒髪に無駄に意志の強そうな黒瞳、身長は170センチ前後で、十代の前半を過ぎた見た目としては平凡の域を出ない。特に良くも悪くもない顔貌に紺色のブレザーとスラックスに赤いネクタイの学生服が妙にしっくりくる少年だ。
「隼、また何か変なこと考えてるでしょ。平凡に生きて平凡に笑って暮らす、人並みの幸せって、奇抜な人生よりずっとずっと大切だと思うよ?」
なおもポージングを続ける少年―秋月隼に、横合いから呆れたような声がかけられる。
陽の光を浴びて艶めくミディアムの茶髪、焦げ茶の瞳はくりくりと丸く、たれ目がちな目元の印象も相まって少女を幼く見せる。色白で小柄な体を包むのは、隼と同じ高校の制服。女の子らしい赤色のリボンタイとチェックのプリーツスカートだ。
少女の名は乙葉紡―十年以上の付き合いになる隼の幼馴染である。
「いやだってさ、考えてもみろって。何も面白みのない人生より、経験に変わる出来事にぶつかっていくほうがよっぽど有意義な人生だって思わないか?」
「……本音は?」
「スリルが欲しいっす」
「……はあ」
一瞬、またかと言わんばかりに白けた目をした紡だが、もう何回目になるかもわからない会話を根気強く続ける辺り、さすがは幼馴染といったところだろう。しかし、自らの世界に没入しつつある隼がその気遣いに気づくことはなく、そんな彼の様子に紡は深いため息をついた。
現在、二人が歩いているのは、自宅と高校の中間にあたる商店街。夕刻も近く、書き入れ時のアーケードは買い食いをする学生や買い物客でごった返し、各店舗からの威勢のいい声が頭上を飛び交う賑々しさの飽和状態だ。
ただし、人々の間には一定の距離があり、皆が皆マスクで口元を覆っている。異様なはずのその光景は、今では誰もが見慣れ違和感なく受け入れている、異常が日常となった世界である。
「コロナもだいぶ落ち着いてきたけど、まだまだ収束しそうにないね。はあ、いつになったら自由が戻ってくるのかな」
「俺は思うんだ。きっとこれは世界の裏で暗躍する謎の組織による大規模テロだってさ」
「はいはい中二病おつ。それより今日の夕飯なんだけど」
「華麗にスルー⁉」
もはや聞き飽きたと言わんばかりに話を受け流し、紡は何事もなっかたかのように先を歩く。そのドライな対応にショックを受けながらも慌てて後を追う隼は、ふと商店街の一角に見慣れた姿を見つけて足を止めた。
「ん? あそこにいるの、うちのクラスの紀ノ國じゃないか?」
「あ、ほんとだ。何してるんだろ」
「挙動不審だな」
「挙動不審だね」
怪訝そうに眉を寄せる二人、その視線の先にいたのは亜麻色の三つ編みの少女。一見すると典型的な優等生にしか見えないが、建物と建物の薄暗い隙間を覗き周囲を警戒する様子は不審人物以外の何物でもない。
遠目にその不審な行動を眺める二人は、どちらからともなく顔を見合わせて揃って首を傾げた。
「気になる」
「気になるね。あ、入っていっちゃた」
その場に立ち止まり観察を続ける二人、その目の前で周囲を伺っていた少女が動いた。彼女の普段を知る隼達が見たことのない素早さで身を翻すと、少女はひとり路地裏へと姿を消したのだ。
ぼんやりとその動きを眺めていた紡が呟くのと、隼がその姿を追って走り出すのはほとんど同時だった。あんな暗がりに一体何の用が? ―そんな疑問を抱きながら駆け出した隼の背中に、紡が慌てて声をかける。
「あ、ちょっと隼! 何か事情があるんだろうからそっとしときなよ!」
「女の子ひとりであんな暗がりに入っていくのみたらそうも言ってられないだろ」
「危ないかもしれないじゃん!」
「だったらなおさらほっとけないって。紡は先に帰っててくれ、俺も無事を確認したら帰るから!」
「そうやってすぐに厄介ごと持ち込むくせに。どうなっても知らないからね!」
いつも困らせてばかりの紡には悪いが、この性分ばかりはどうしようもない。怒ったような、それでいて心配そうな声音で引き止めようとする幼馴染の制止の声を振り切り、隼は少女の後を追って路地裏へと駆け出した。
2
心地よい春風の吹き抜けるアーケードも、ひとつ裏に入ればがらりと雰囲気が変わる。
散乱するごみに薄汚れた建物の外壁、室外機からは低い駆動音とともに生暖かい風が吐き出され、見慣れた町から異世界にでも迷い込んだような不気味さがある。心なし気が重く感じながらも、隼は少女の後を追う。
「なんだってこんな場所に」
周囲を警戒しながらも、薄暗い路地を歩く隼の足取りは確か。ここまで己の意志を貫ければお節介と好奇心もひとつの才能と言えるかもしれない。
路地は曲がりくねってこそいるものの、分岐のない一本道。必然、すぐにその終着点へと辿り着き、追跡していた背中にも追いつく。
こんなところで何を? ―少女に似つかわしくないその場の雰囲気、何より目的の判然としない行動に隼は首を傾げた。周囲は建物の外壁に囲まれて見通しが悪く、待ち人らしき人影も女子高生が訪れる理由も一切が見当たらない。
―怪しい。
抱いていた疑問が疑念へと変わり始め、とうとう隼は少女に声をかけるべく一歩を踏み出した。と、その時だった。少女の右腕から淡く青白い光が瞬き、少女を中心に辺りを照らし出したのである。
さらに、少女の鈴のように澄んだ声が続く。
「反転せよ、我、理を抜け界を渡るものなり」
「うお⁉ な、なんだありゃ⁉」
詠唱。物語の一幕のように紡がれたその言霊は、世界に奇跡と変革をもたらす神秘の法。幻想に触れた世界はそのありようを変え、目の前で起こる埒外の現象に隼は愕然とする。
しかし、隼の驚愕はそこで終わらない。少女の詠唱に呼応するように燐光が舞い踊り、少女の眼前に形作り始めたからだ。
それは波間に揺蕩う月のように不確かな青い扉、あるいは門のような形状をしている。当然、隼にはそれが何なのか理解が及ばないが、人知を超えた力だとゆうことだけはわかった。
もはや驚きは畏怖へと変わり、半ば放心状態で成り行きを見つめることしかできない隼の視線の先で、少女が扉の先へと身を投じた。
「……は⁉ 何やってんだあいつ⁉」
その行動は想像の外、目の前でクラスメイトの消失を見届けた隼は、焦りに突き動かされ扉へと近づき、直後に起きた出来事にその不用意な行動を後悔することになる。
「うお⁉」
扉に近づいた隼の胸元で少女が発していたものと同様の光が瞬き、驚きに目を瞠る隼の全身を包み込む。次いで、扉の向こう側から腕が伸びてきて、隼をその先へと引きずりこもうと腕を掴んできたのだ。
「んぐぎぎぎ、ま、負ける、か……よほぉ⁉」
わけが分からない。引きずり込まれればおそらく終わり。
そんな言葉が頭を過り、死に物狂いで抵抗する。が、扉から生えた腕の膂力は凄まじく、とうとう力負けした隼は為す術もなく引きずりこまれ―。
秋月隼の存在はこの瞬間、世界から消失したのだった。