件憑き(くだんつき)と牛テールスープ(その5)※全7部
◇◇7周目◇◇
「二度も言わなくていい。それじゃあ……、えっ、何!? どうしたの!? なんで泣いているの!?」
僕の目には大粒の涙。
「……みんな、みんな死んで……珠子姉さんを助けるために」
ツツツと僕の頬を涙が流れ、皮膚がつっぱる。
「死ぬのは珠子という女の人だけよ。ほら、これで涙を……」
彼女がハンカチを取り出した時に、僕は気づいた。
”ここに居ると佐藤にまた会って、そして一緒にアイツと戦うことになる”
僕は、そこから全力で逃げ出した。
もう、誰も失いたくなかった。
◇◇◇◇
それから、僕は家に続く林道を逸れ、林の中でうずくまっていた。
ここから家は目と鼻の先、木々の隙間から見えるは『酒処 七王子』の灯り。
だけど、家には帰れない。
赤好兄さんに会ってしまうと、今度は兄弟みんなで戦うことになる。
そして、アイツに殺される。
結局、1周目が一番マシだった。
犠牲になるのは珠子姉さんだけ。
僕の家族も友達も、そして僕自身も死なずに済んだ。
そうだ……それが運命なんだ……運命を受け入れるしかないんだ。
このまま、明日の昼までじっとしていよう、そうだ……それがいい。
たかだか、人間がひとり死ぬだけじゃないか。
僕はひとりうずくまり目を閉じた。
暗い闇の中、珠子姉さんの顔を浮かぶ。
いつも笑っていて、僕の心を読む能力に気づいてくれて、それを受け入れてくれた女。
ちょっと荒唐無稽で、素っ頓狂で、それでも魅力的で。
いつも前向きで挑戦的で、どんな困難な”あやかし”のリクエストにも自信たっぷりに美味しい料理を作ってくれる。
そんな珠子姉さんが居なくくなる。
あの笑顔を二度と見る事が出来なくなる。
あの笑顔に見つめられながら、おいしい手料理が食べれなくなる。
そんなの嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! イヤだイヤだ!
失いたくない、無くしたくない、守りたい!
たとえ僕が命を落とす事になっても! 僕の全てを捧げてでも!
僕は目をカッと見開き、顔を上げる。
「どうしたの? 橙依くん。こんなところにうずくまっちゃって」
そこには、珠子姉さんの顔があった。
「……どうして、珠子姉さんがここに?」
「そりゃ、憶えのある”あやかし”の気配がずーっとお店の前にあって、それが千々に乱れていちゃ気になるってものよ。さっ、お家に帰りましょ」
そう言って、珠子姉さんが僕の手を取る。
「……帰りたくない。今は誰とも会いたくないんだ。特に赤好兄さんには」
「赤好さんなら部屋に篭っているわ。あの気配はエロ本でも買って帰ったに違いないわね。しばらくは出てこないと思うし、今日は他の方もお客さんもいないから大丈夫よ」
そう言って珠子姉さんは僕の手を引っ張っり家に連れ込む、強引。
「ほら、1階には誰もいないでしょ、今日は橙依くんの貸切。何に泣いていたかはわからないけど、こんな時は美味しい物を食べると気が晴れるかもよ。何かリクエストはある?」
僕は自分の頬に残る涙の跡に気付き、それを拭く。
『何かリクエストを』珠子姉さんはそう言うけど、アイツを前に料理なんて役に立たない。
死の運命に対しては、みんな無力だ……ううん、無力だった。
だけど……珠子姉さんは今まで何度も”あやかし”たちの無茶振りを料理で解決してきた。
だったら……もしかしたら……
「……珠子姉さん。僕、『死の運命を変える料理』が食べたい」
そんなの無理に決まっている。
「いいわよ! ちょっと待っててね!」
だけど、珠子姉さんはいつもと変わらない笑顔で、そう言ったんだ。
◇◇◇◇
「おまたせー、赤ワインと牛テールスープよ」
珠子姉さんが運んできたのは、深みのある赤のお酒と、平たくて浅めのスープ皿にデデーンと牛テールが骨ごと自己主張しているスープ。
コクのある肉の匂いの中に、甘味を帯びた葱の香りが食欲をそそる。
ぐぎゅるるるぅー
腹の虫が鳴った。
そう言えば、お昼は抜いてしまったし、それから何も食べてない、腹ペコ。
「そして、じゃーん! 学校でもおなじみのSpork! 骨周りの肉を取りつつスープも食べれる優れもの! これでおいしくいただいてね」
僕は珠子姉さんから先割れスプーンを受け取る。
これってスポークって言うんだ、初耳。
では、これで……
サクッ、カチン
骨のまわりに付いていた丸い肉は、スポークの先でサクッと小気味よく切れ、皿に当たってカチンと音を立てる。
そして僕はスポークに肉を載せ、スープと一緒に口に運ぶ。
キュッ、ホロッ、ジュワッ
口の中に含まれた旨みたっぷりのスープが喉の抵抗など無くしたように流れ落ち、そして肉だけが舌の上でホロリと崩れ、その中からさらに肉の旨みでいっぱいの濃厚なスープがあふれ出す。
「おいしい……」
牛テールの細胞の隅々までもが、旨みたっぷりのスープであふれ、噛むごとにそれが喉を鳴らす。
だけど、それなのに脂っこさや臭みなどは全く感じず、澄んだ清涼感が口を満たす。
「さっ、次は赤ワインを飲んで、そしてまたお肉を食べるといいわよ」
珠子姉さんに勧められるがまま、赤ワインを飲む。
スッとそれを口にすると、酸味の中から柑橘を思わせる香りと、スパイシーな苦みが広がる。
肉の味に負けない力強い味。
だけど、飲料後はさわやかで、またスープを飲むと、その味は再びくっきりと舌の上で美味の絵画を描写。
「このシリウス・ボルドーの赤は、フルボディ系の強いコクがあるワインなんだけど、肉料理にとっても合うの。赤ワインと肉は鉄板の組み合わせだけど、それが正しいって思わせてくれるでしょ。あとコスパもいい」
”コスパもいい”の所で珠子姉さんはにんまりと笑う。
”美味しい”心からそう思う。
力が湧いてくる。
頭痛も少し和らぐ。
力が出てくる食事を表現した”滋味”という言葉があるけど、この料理は違う。
”食べている”、”生きている”、”生命が僕の中に落ちていく”、そう思える味。
「……とってもおいしい。やっぱり珠子姉さんの料理は最高。だけど……」
僕にはわからない、これがどう『死の運命を変える料理』なのかが。
「ねえ、橙依くん、ルイ・パスツールって知ってる?」
「……学校でちょっと聞いた事がある。偉人だっけ」
社会の授業だったか、生物の授業だったか、僕の記憶の片隅にその名前が存在。
「パスツールはね、コッホと並んで細菌学の祖とも言われていてね、物が腐る原因が外から侵入してくる細菌やカビといった微生物の仕業だって突き止めたの」
「……へぇ、それとこの料理に関係があるの?」
「ええ、パスツールが腐敗の原因を探るきっかけとなったのが、ワイン業者からの『ブドウの絞り汁がワインにならず腐る原因を突き止めて欲しい』という依頼で、実験に使ったのが肉のスープなの。これと同じね」
そう言って、珠子姉さんはワインと牛テールスープを指す。
「……パスツールとこの料理との関係は理解したけど、それと『死の運命を変える料理』とどう繋がるのさ?」
「パスツールはね、病気の原因が微生物だって突き止めただけではなく、それを無毒化する低温殺菌法もあみだしたの。ちなみに英語では彼の名をとって低温殺菌法って名付けられているわ。さらにさらに、無毒化、弱毒化した細菌を使ったワクチンによる予防接種まで発明したんだから! スゴーイ! ありがとう! パスツールさん!」
珠子おねえちゃんはパスツールという偉人の素晴らしさを必死にアピールしてくるけど、僕にはその凄さがよくわからなかった。
やっぱり『死の運命を変える料理』なんて無茶振りだったかな。
「ねえ、橙依くん知ってる? 『7歳までは神のうち』って言葉を」
「……知らない」
「そっか、”あやかし”だもんね。『7歳までは神のうち』ってのはね、昔はね、人間の幼い命はとても儚くて、病気などで命を落としてしまって死亡率が高かったの。だから『幼い子供の命は神様の手のうちにあって、人知のおよばない領域ですよ』って意味なの」
「……死亡率が高いってどれくらい?」
「江戸時代だと、4人にひとりとか、3人にひとりは亡くなっていたわ。それ以前はもっと悪かったでしょうね」
「そんなに!?」
「ええ……悲しいことにね。だから『7歳までは神のうち』の言葉の裏には、幼児の死を悼む両親にその責任を和らげる意味合いもあったのかもしれないわね」
ほんの少し、しんみりとした顔で珠子姉さんは言う。
ああ、こんな表情も出来るんだ。
いつもとは違う表情に、僕の心が揺れる。
この顔が明日で見られなくなる。
そんなの嫌だ!
もっと違う表情が見たい、僕の隣で、笑っている顔も、怒っている顔も、喜んでいる顔も!
だけど……運命には……
「そこで登場! パスツール! パスツールの偉業はワクチンの開発にあり! パスツールの研究成果から学んだ研究者が次々と病原菌とそのワクチンを開発! 日本脳炎だろうが、百日せきだろうが、狂犬病だろうが、破傷風だろうが、肺炎球菌だろうが、結核だろうが、麻疹風疹水疱瘡におたふくかぜ! なんでもござれのバーゲンセール!」
ででん、と机を叩きながら、珠子姉さんの高説が始まった。
「その結果! 現在の日本や先進国では乳幼児死亡率は1%以下! 神様がなんぼのもんじゃい! かわいい我が子の命は人類の叡智でみんなで守る! 悲しい運命の神様なんて糞喰らえ! ついに人類は神の手から乳幼児の命を取り戻したのよ!」
ぐっと手を握り締め、まっすぐな瞳で珠子姉さんは虚空を見つめる。
あの憂いのある表情はどこへ行ったのか、やっぱりいつものお調子者でちょっと好戦的な珠子姉さんだ。
「とまあ、こんなわけで、この料理はね『人類の運命を変えた』と言っても過言じゃないのよ」
「……そっか。ありがとう、ちょっと元気が出た」
結局、これは逃れられない予言の”死”から運命を変える料理じゃなかった。
だけど、僕の諦めかけてた”守りたい”、その決意を再び甦らせてくれるには十分な料理だった。
しかも、とってもおいしい。
カチャ、カチャ、ズッ、ズー
ゴキュゴキュゴクン
僕は残っていた牛テールスープを全力で食べ、一気にワインを飲み干す。
プハァー
ちょっと下品かもしれないけど、本能の赴くままに飲み食いするのはとっても楽しい。
マナーの神様なんて糞喰らえだ。
あれ? 神様……
…
……
………
アイツは”死”だ。
だけど、アイツの心を読んだ覚の言葉の中にあったのは、『ちくしょう! 人間ってやつは!』って台詞。
「ねえ、珠子姉さん。うちって神様いなかったけ?」
「いるわよ『貧乏神改め、ボロは着てても心は錦』の神様が」
そう言って、珠子姉さんは天井近くの一角を指差す。
それは、ある冬の日にこの店に出来た神棚。
”あやかし”の僕らにとって、対極とも言える存在の社。
だけど、今の僕にとっては、それが希望。
パンパン
僕はその神棚の前で柏手を打ち、呼びかける。
「……お願い、出て来て」
ポンっと音がして、初老の少しみすぼらしい男が現れる。
「なんや坊、儂になにか用か?」
「ちょっと頼みがある。助けて欲しい」
僕の言葉の前に、その『貧乏神改め、ボロは着てても心は錦』の神様は『ん』と手を出す。
「……なにこれ?」
「なにって、捧げもんや。神に何かを頼む時は捧げものをするのが礼儀やで」
「……わかった、何が望み」
「そんなん、自分で考えんや。この『ボロは着てても心は錦』にふさわしい捧げもんやったら、頼みを聞くで」
くそっ、この元貧神の業突張りめ。
僕はこんなおつかいイベントみたいなのをやってる暇も余裕も無いのに。
何かなかったかと僕は自分の異空間格納庫の中を必死に捜索。
あれ……そう言えば、最初に珠子姉さんが何か……。
「うぃーっく、お嬢ちゃん、今、帰ったぜ」
「それだ!」




