つらら女とイチゴミルク(中編)
「ルイベってなんだい? 切れ味抜群の珠子さん」
「あっ、わたくし知っています。北海道名物ですよね」
「はい、ルイベとはアイヌ語で融けた・食べ物を意味しまして、鮭やマスを冷凍保存したものです。そのまま刺身で食べれますよ」
「あれ? 鮭って刺身はダメなんじゃないかい。寄生虫とか」
生で食べちゃいけない魚リストに鮭があったのを、俺は思い出した。
「よくご存じで。ですがアニサキスに代表される寄生虫はマイナス20℃で死滅します。これはマイナス34度以下で保存していますので大丈夫です。人類の叡智! 急速冷凍の勝利ですよ!」
彼女の言う通り、その切り身はうっすらと霜がおりていた。
彼女は鮭とイカと、あれは鯖だろうか、三種の海鮮をスッスッと切り分け、俺たちの前に並べる。
「さあ、召し上がって下さい! 鮭と烏賊と鯖のルイベです!」
彼女に促されるまま、俺とつらら女さんはルイベを口に運ぶ。
シャリッ、トロッ
俺に口に入ったそれは、薄く切られていたためだろうか、シャリッとした歯ごたえに続いて口の熱で融けた刺身の柔らかさを残して、喉に流れていく。
うまい。
「これってスゴイですね。シャリシャリしていて、冷たさが喉と胃で味わえますよ」
つらら女さんは俺より遥かに冷たいものに強い。
鮭のルイベを平らげたつらら女さんは、イカのルイベに取り掛かっていた。
イカのルイベの断面には茶色いワタが見える。
あのワタはうまい。
イカの煮物や塩辛にあえてあるだけで、深いコクと海の味が口の中に広がるのを俺は知っている。
「その烏賊は一旦内臓を抜いて、固い軟骨と嘴と墨袋を除いて、純粋なワタだけを戻してルイベにしました。烏賊の身の淡白な旨みと、ワタの濃い旨みが味わえますよ」
「へぇ、仕事熱心な珠子さんらしいね。ではひと口」
俺が少し厚めの輪切りにしてあるイカのルイベを口にすると、さっきのシャリッとしていた感触に続いて、濃厚なイカのワタの旨みが舌に広がった。
シャリッ、シャリッ、シャリッ
噛むごとに口内に広がる旨み。
舌が触れた部分から溶け出す味わい。
そして喉を流れ落ちる冷気と胃で味わえる冷たさ。
熱いお茶を飲んだ時とは逆の感触。
「こいつは旨い! こりゃ、イカを丸ごと買ったら全部このルイベにしたくなる!」
この二品はとてもうまかった。
さて、最後の鯖のルイベはっと……
「赤好さん、最後の鯖はよくお口で味わうのがおススメですよ」
そうなのか、なら彼女の言葉に従ってと……
俺は鯖のルイベを口にすると、そのシャリシャリとした食感を余すことなく、味わった。
最初は冷たさ、そして身の旨み、そして最後に口の熱で融けだした脂の旨みが広がる。
「おっ! こりゃぁいい! 融けていくたびに違う味が広がって、三段構えの旨さが味わえる!」
「あっ、いいなぁ。わたくしですと凍った味しか楽しめないのに」
つらら女さんが少しブー垂れている。
無理もない、彼女の体温ではこの融け出る旨みが味わえないのだから。
「ふっふっふっ、お困りのようですね、美しいおねえさん。こんな時にはどうすればいいか、デートに余念のない赤好さんならご存知ですよね?」
そう言って彼女がニヤリと笑う。
うん、知ってるよ。
というか、彼女ならどう言いそうなのかが手を取るようにわかる。
「決まってるじゃないか! 酒だよ!」
「さすがです! 赤好さん! こんな時は食中酒! 食中酒で魚介に合うお酒と言えば、日本酒! 本日は宮城の銘酒『伯楽星』をご用意しました。少し冷えた温度でどうぞ!」
そう言って、彼女は日本酒の瓶を取り出すと、トクトクトクとグラスに注ぎ、俺たちの前にトンと置いた。
「これは究極の食中酒とも言われている銘柄でして、料理の味を引き出すのに最適なんですよ。ささっどうぞ」
「へぇ、食中酒を役割としているなんて珍しいですね」
そう言いながら、つらら女さんが『伯楽星』を口にする。
「あっ、これって、口の中に残った旨みが融け出して、溶け出して、とろけていきます! 鮭の甘味とか、イカのワタの旨みとか、鯖の脂の味わいとか!」
俺もその言葉の誘惑に負け、酒を口にする。
少し冷えた温度だと彼女は言ったが、ルイベで冷えた口には少し温かく感じる。
そして……旨みが、リフレインした……
「これは! 日本酒の味わいの中に、さっき食べた三種のルイベの味が再現されて口の中に広るぜ! 『あの、素晴らしい味をもう一度……』、そんな恋愛の思い出がよみがえるような、そんな素晴らしさだ!」
一粒で二度おいしいキャラメルなんか目じゃない。
一杯で二度の幸せが訪れる、そんな幸腹の味だ。
「「ふぅ」」
ふたり同時に溜息が出た。
「どうでしたか? あたしのルイベ三種とお酒のお味は」
「最高でした! 冷気の補充だけでなく、味わいも!」
「ああ! これなら人間の彼氏さんも気に入ると思うぜ!」
「それは良かった。このルイベが美味しいお店をお教えしますから、デートの昼食やディナーにどうぞ」
そう言って彼女はつらら女さんに北海道料理のおいしいお店を教える。
きっと、彼女も自信が付いたに違いない。
「ありがとうございます。この『断熱構造!』 『反射装甲!』 そして『冷気貯蔵!』、教えて頂いたこの三種の秘密兵器で、必ずや真夏のデートを勝利に導いてみせます!」
まあ、つらら女さんが、ちょっと合体ロボ好き珠子さんに毒されている気がするけど……
まあ、いいんじゃないかな!
恋愛は戦という言葉もあるくらいだし。
迫りくる熱気の剣林弾雨をかいくぐり、真夏の艱難辛苦を乗り越えて、きっと君はたどり着けるさ。
愛という勝利の果実は君の手に!
あれ? 俺もちょっと毒されたかな
◇◇◇◇
こうして、意気揚々とつらら女さんは彼氏との真夏のデートに向かったわけだ。
そしてそれを尾ける一組の男女。
「えへへ、なんだかスパイ映画っぽいですね」
ハーフボイルド探偵な俺とへっぽこ探偵な珠子さんだ。
俺たちはつらら女さんのバックアップをする手はずになっている。
そしてつらら女さんの彼氏とやらがやって来る。
見た目は純朴そうな好青年。
彼は約束の時間より早く到着し、それより早く来ていたつらら女さんをいち早く見つけ、ふたりはデートに進む。
ふたりは冷房の効いた美術館を巡り、伝統ある蕎麦屋で冷やし蕎麦を一緒に食べ、クレープを食べながらショッピングモールでお買い物をしている。
ありきたりなデートコースだが、ふたりが楽しそうだから俺たちはただ眺めるだけだ。
「思ったより普通の男の人ですね。もっと絵になりそうな美男子かと思っていたのに」
サングラスを掛け、隣でドネルケバブをもぐもぐとしている珠子さんの声が聞こえる。
「そりゃスパイスの効いた珠子さんならそう思うだろうけど、あれでいいんだよ。あんな素直そうな若者がつらら女さんの好みなのさ」
昔から人間に恋する”あやかし”は多い。
だけど、その相手は音に聞こえた武人や金持ちの豪族とかじゃない。
ただ優しいだけの真面目な青年、心に浮かんだ事を素直に口にした青年、風流と慈悲に満ちた姫などだ。
清らかに澄んだ心
それが”あやかし”を惹き付けて止まない、唯一の物なのさ。
珠子さんも……清らか……というか清酒のような飲んだくれだね。
うん、一応、清らかに澄んだ何かの持ち主という事にしておこう。
あの彼氏とやらも、きっとそういった男なのだろう。
そしてデートはとんとん拍子に進み、ふたりは珠子さんが教えてくれた北海道料理の美味しい店とやらに入っていった。
「ララさんの教えてくれたこのお店、とっても美味しいですね。このルイベってのは、僕、初めて食べましたよ」
ルイベに舌鼓を打ちながら、彼氏さんがつらら女さんに語りかける。
ララさんとは、つらら女さんの人間のふりをする時の名だ。
『津々浦 ララ』それが彼女の人間の偽名。
「ええ、わたくしの知り合いの料理人に教えてもらいましたの。彼女は若いのにお店を任されているスゴイ人なんですよ」
珠子さんがアラサーな事は横に置いときながら、彼女は言う。
”あやかし”から見れば、人間なんてみんな若いからな。
「うんうん、首尾は上々みたいですね』
ジンギスカンの煙越しに珠子さんの声が聞こえる。
「ああ、万事オッケーだよ。これも三十路間近な珠子さんのおかげさ」
「その言い方は思う所がたくさんありますが、今は黙っといたげます。今は」
そう言って彼女はもぐもぐとジンギスカンを楽しむ。
くそっ、ここの払いは俺だと思って大量に注文しやがって。
「おおーと、彼氏さんがつらら女さんの手を握りしめたぞ!!」
「そんな嘘でごまかされたりしませんから!」
煙と角度から彼女からつらら女さんたちは見えずらい。
「嘘じゃないって! ほら!」
俺は体を横にずらし、彼女の視線がふたりの方向を通るようにした。
「あっ、本当です! よし、いけっ! そこだ! トドメを! させー!」
小声ながらも、腕を大きく振った珠子さんがふたりを応援する。
トドメってなんだよ……
俺はそう思ったが、今は聞き耳に集中する事にした。
「ララさん!」
「はっ、はいっ!」
野郎の瞳がまっすぐにつらら女さんを見つめ、その手が小刻みに震える。
「今度、僕と一緒に温泉旅館に行きませんか! もちろん泊りがけで!」
「はっ、はいっ! よろこんで!」
その言葉を聞いて男の顔は喜色満面の笑顔を浮かべると……
「ちがーう!!」 ドンッ!
そう叫んで頭を店の柱に打ち付けた!
当然だが、他の客と店員の視線がふたりに集中する。
なんだ!? なにをしてるんだ!?
「えっ、ちがうって……」
その素っ頓狂な言動にさしものつらら女さんも少し引く。
「いいえ、こっちの早とちりです。ここからが本題です」
「はっ、はい……」
「その旅館には露天風呂と家族風呂があるんです! 僕はあなたと露天風呂じゃなく、家族風呂に入りたい! つまり! あなたと家族になりたいって言ってるんです!!」
これはひどい!
ロマンもへったくれもないプロポーズじゃないか。
だが、それでも、これがプロポーズだという事はみんなが理解していた。
あたりは、しんと静まり返る。
これは、ドラマチックやロマンチックからほど遠い、コメディチックな男の叫び。
今風の女の子なら、袖にしてしまいそうな愛の告白。
だけど、つらら女さんには、こんなプロポーズの方が心に響いたみたいだ。
「わかりました! あなたと一緒なら、この身を懸けても、命を懸けてでも家族風呂に入りましょう!」
彼女の瞳には決意の色が宿っていた。
パチパチパチと周囲から祝福の拍手が聞こえる。
「おめでとー! 通りすがりの綺麗なひとー!」
赤の他人のふりをしながら珠子さんも祝福の声を上げる。
やれやれ、愉快な結末だけど、これで今日もハッピーエン……いや待て!
俺たち”あやかし”には運命がある。
それは『のぞいてはいけない』と言ったら必ずのぞかれてしまったり、『しっぺい太郎に知らせるな』とか言ってしまうと必ず知らされてしまったりする運命。
つらら女さんにもそれがある。
◇◇◇◇
昔々、雪のような白い肌の女が男の下を訪れ、やがてその男と結ばれた。
だが、その女はどうしても風呂に入ろうとしない。
男は体を冷やすのは健康に悪いと言って、女に風呂に入るように勧め、ついには女は風呂に入ってしまう。
一向に風呂から出てこない女を心配した男が風呂をのぞいてみると、そこに女の姿はなく、一本のつららがお湯に浮かんでいて、やがて溶けてしまった。
男は、女と出逢う以前、ある朝に太陽の光を受けて輝くつららを見て『このつららのような美しい嫁が欲しい』とつぶやいた事を思い出していた。
◇◇◇◇
これがつらら女さんを待つ運命
彼女は、文字通り命を懸けてプロポーズを受けたのだ。
俺は恨むぜ、この運命とやらを。




