樹木子と胡椒飯(前編)
古の戦場にて、瀕死の者や死体から流れ出る怨嗟の念が込められた血を吸った古木。
それは血の味を憶え、やがて人の血を求める凶悪な”あやかし”と化した。
その名は樹木子といい、今も人の生き血を求めて彷徨っているといわれている。
◇◇◇◇
この『酒処 七王子』には裏メニューがある。
それはあたしも手出しが出来ない食材。
その食材名、いや……品名は『人全血液―LR「日赤」400ml』……つまり輸血用の血液パック、人の生き血なのです。
藍蘭さんの話では、あたしが来る前はこれが看板メニューで、これだけを目当てに通ってくる”あやかし”も多かったんですって。
「……はいこれ、今月の分」
この輸血パックを仕入れて来るのは橙依くん。
最初は『これ、大丈夫なの?』って聞いたりもしたけど、彼の答えはこう。
『……大丈夫。正規品の期限ギリギリのを対価を払って横流ししてもらっているだけだから』
うーん、かなり倫理上ギリギリですね。
まあ、この輸血パックは採血から三週間で使用期限が切れるって話だし。
使われず廃棄されるよりは、これが血を吸う”あやかし”の食事となって人間の被害がなくなるって考えれば、まあ、いっかなー。
医療廃棄物として捨てられるよりはましだと思うことにした。
これが入荷してくる月イチの夜には必ず通ってくる”あやかし”がいる。
「こんばんは、今日もいつものをお願いします」
「はい、少々お待ちください」
見た目は真面目なサラリーマン、柔和なまなざしと佇まい。
もし、ここがオフィス街であったら、彼との相席を狙うOLで店は溢れかえっているに違いありません。
「お待たせしました。本日の輸血パックです」
「ありがとう。あとはこちらで注ぎますから」
そう言って彼は慣れた手つきで輸血パックを切り、その中身をワイングラスに注ぐ。
そして、そのグラスをワインのように掌で温めながら美味しそうにゆっくり飲んでいく。
「うん、今日もいい味ですね」
彼はほふうとため息をつきながら、飲み続ける。
このお客さんの正体をあたしは未だ知らない。
まだ、太陽が出ている夕暮れ時に来た事もあるので、吸血鬼じゃない事は確かなんだけど。
「いよぅ! 樹木子じゃねぇか! 久しぶりだな!」
「緑乱様! ご無沙汰していました。半年ぶりですね」
正体は一気に解決しました。
このサラリーマン風の方は樹木子さんでした。
確か、樹木子は人を襲って生き血を吸う恐ろしい妖怪。
だけど、あまり恐そうには感じはしません。
樹木子さんのお腹がいっぱいだからかな?
「おふたりはお知り合いなんですか?」
「まあね、こいつのおかげで『酒処 七王子』の黎明期の経営が軌道にのったのさ」
「いえいえ! 退魔師に追われ、瀕死だった僕を助けてくれた御恩は忘れません!」
「礼なら橙依に言いな。あいつが『助けよう』って言わなければ、おじさんは助けなかったさ」
へぇ、そんな過去があったんだ。
「もちろん、橙依様にも感謝しています。今もちょくちょくアドバイスを頂いていますし。とにかく、お二人は僕の命の恩人なのですから!」
「よろしければ、その時のお話しを聞かせて頂けませんか」
「はい! 緑乱様の名啖呵と橙依様の慈愛の話をお教えします」
そう言って樹木子さんは、ちょっと昔の話を、日本が高度経済成長期と呼ばれていたころの話を語ったのです。
◇◇◇◇
それは、樹木子さんがまだ人を襲って血を吸っていた頃。
時代は1960年代、日本が高度経済成長期と呼ばれていた時代。
瀕死の重傷の中、彼が調伏される直前の出会い。
「……兄さん、あれ」
「ありゃあ、退魔のおねーさんだね。関わらない方がいい」
封印から解かれたばかりの橙依を連れ、緑乱は人間の退魔師とそれに調伏されかかっている”あやかし”に遭遇した。
「お願いだ! 助けてくれ! 俺はまだ死にたくない!」
助けを求めるのは古木の幹と根、その末枝は渇いて朽ち、ひび割れていた。
「……兄さん、僕、助けたい」
「こりゃまた難儀なお願いだねぇ」
緑乱は知っていた。
人間は無差別に”あやかし”を退治したりはしない。
退治されるのは人に害成す”あやかし”のみだ。
人間は”あやかし”よりずっと合理的で、退治する”あやかし”に優先順を付ける。
その一位にあるのが、人に害成す”あやかし”なのだ。
「おやぁ、あんたらそいつの味方をするのかい? だったら……容赦はしないよ」
退魔師、いや退魔僧と言った方が正しいだろう。
尼頭巾を被り、法衣と錫杖を構えた女性が鋭い目線をふたりに向ける。
「こりゃまた珍しいね。女の子とは」
「仏の前には男も女も、大人も子供もない。早々に立ち去りなさい」
彼女の言葉の裏には、たとえ少年の姿をしていても『邪魔をするなら迷わず断つ』、そんな意志が見え隠れしていた。
少年とはいわずもがな、緑乱の後ろに隠れている橙依の事だ。
「そう言われても、このまま立ち去るには目覚めが悪くってね。事情を聞かせてくれないか?」
「こいつは人を襲い、血を吸った。理は明白、理由もあり、道理も十分」
会話中も彼女の錫杖は古木の”あやかし”から狙いを外してはいない。
「おねがいだ! もう人は襲わない! だから、見逃してくれ! 頼む!」
木の洞から声を出して、古木が助けを求め続ける。
緑乱は知っている、あれが嘘だと。
あの古木の正体は樹木子、人の血を吸う”あやかし”。
人の血を覚えた”あやかし”ではなく、人の血を吸うのが生態の”あやかし”。
人の血を吸わなければ、やがて元の古木となり枯れゆくだろう。
そうなれば、彼は幽世に行くこともなく、復活はない、再び血が大地に染みる戦でもない限り。
戦争はもう見たくないねぇ。
緑乱は見て来た、戦が戦争に変わっていく時代を。
そして戦争の悲惨さも。
「……お願い。僕がなんとかするから」
彼の背後にいる少年が小声でつぶやく。
まったく、兄ってのは辛いねぇ。早く兄ちゃんたちが復活して欲しいもんだと緑乱は思う。
「お可愛いお姉さん。ものは相談なのだが、ここは俺っちに預けてくれはしないか。俺っちが責任を持って、その”あやかし”を人を襲わないようにする。だからここは見逃しちゃぁくれないか?」
「……俺っちじゃない、俺たち」
「初めてあったお前たちを信用するってのかい? それともあたしに何かメリットでもあるってのかい?」
緑乱は知っている、人間は合理的な生き物だと。
そして、この女は既に合理的な考えに至っていると。
「それじゃあ、もしこいつが再び人間を襲ったら、俺っちが責任を取ってこいつを倒した上に代わりにお姉さんに調伏されてやるってのはどうだい? こう見えても俺っちは八岐大蛇の息子でね。手柄には十分だと思うぜ」
「……兄さん、それ」
弟の声を制止するように緑乱はその頭を撫でる。
「お前が八岐大蛇の眷属という証拠は?」
「俺っちを斃せばわかるさ。俺っちの死体が巨大な蛇の化け物になったらご喝采ってとこかね」
彼は知っている、この退魔の連中は人間の平和のために活動する連中と、金と名誉のために戦う連中がいる事を。
この姉ちゃんは、平和5割、金2割、名誉1割ってことかねぇ。
残りの2割は保身と新しい可能性への探求心ってとこかな。
緑乱はそう思いながら、いざという時に備える。
いざという時とはもちろん交渉決裂どころか、交渉即発となる場合だ。
「ふむ……まあ、いいだろう。だが、次に遭う時はその命をもらうと知れ」
「できれば、姉ちゃんとの再会は、昔話を語りあう酒場でやりたいもんだが、まっ、肝に銘じておくよ」
その言葉に少し微笑みを見せながら、彼女は錫杖を降ろし街灯の無い道へ帰っていった。
「ありがとうございます! 助かりました!」
木の洞から音を響かせ、樹木子が言う。
「いや、あの姉ちゃんが俺っちと戦ったら、お前さんをとり逃がすと判断してくれたからさ」
緑乱は知っていた、人間は合理的な生き物だと。
目的は樹木子の調伏、それに邪魔な横槍が入った、それもかなり強力な。
だったら、ここは撤退して各個撃破が上策。
樹木子もあれだけ痛めつければしばらく街の平和は守られるだろう、彼女はそう判断したのだ。
「さて、お前さんもこれに懲りたら人間の血を吸うのは止めにするこった。じゃないとまた、こわーいお姉さんが来ちゃうぜ」
「で、でも俺は血を吸わないと、やがて枯れて朽ちてしまいます……」
こりゃまいったな、やっぱり血を覚えた”あやかし”ではなく、血を吸う生態の”あやかし”だったか、こりゃ難儀だ。
緑乱はそう思ったが、あとの祭りである。
「……兄さん、僕に考えがある」
今まで兄の影に隠れていた橙依が口を開き、袖を引いた。
古木と兄は顔を見合わせ、弟の導くままに進んだ先は薄暗い病院。
そして、早朝にも関わらずそれに並ぶ人々。
彼らは病院の客ではあっても患者ではない。
1960年代、それは高度経済成長期の中、戦後の混乱と社会のシステムが未整備の時代。
未だ『血液銀行』という事業が残り、売血が行われていた時代でもあったのだ。
◇◇◇◇
「へー、それでこの『酒処 七王子』の前身が創られたってわけですね」
「はい、当初は”あやかし”向けに人間から血液を買う民間血液銀行でした」
「あっという間につぶれちゃったけどね、政府の方針で」
そう言えば、売血による健康的な血液の不足や、貧困者の売血行為が問題になって、1960年代後半に売血は無くなっていったって歴史で習った覚えがあるわね。
「でも、橙依様が血液銀行を創設したおかげで、ダミー病院の設立と血液購買ルートの確立が上手くいきました」
「ルートは出来たけど、買うお金が足りなくってねぇ。俺っちもこいつも働く羽目になっちまったよ」
「へぇ、おじさんが働くなんて珍しいですね。はい、おでんをお持ちしました」
あたしは湯気を立て、出汁の香るおでんをカウンターから出す。
これは樹木子さんからの注文ではない、おじさんからのリクエストだ。
いつもはお店で飲んだくれているのに、という言葉は言わないでおこう。
「僕は今でも働いています。ほら、こんな風に」
樹木子さんの身体が震えると、その足元から根が伸びムクムクと大きくなって、人の姿を形作った。
それは、交通誘導員の姿をしていて、赤く光る棒をクルクルと振る。
「こんな風に分身を作って何個も仕事をかけもちしています。血を飲み続けたので妖力が増し、昔に比べずっと増えました」
「最初はお前さんだけだったからねぇ。俺っちも働いて助けてあげたって寸法さ」
ハフハフとおでんを口に運び、昔を懐かしむような口ぶりでおじさんが言う。
「この血もおいしいですけど、緑乱様が作ってくれた料理が忘れられません。また食べたいですね」
「おじさんって料理が出来たんですか!?」
あたしはおじさんが料理を作る所を見た事がない。
精々缶詰を開けるくらいだ。
「そんな大層なもんじゃないさ。んじゃま、ちょっくら作ってみっか」
よっこいしょと椅子から立ち上がり、おじさんは台所に入る。
そして……一分後に急須と茶碗をもって帰ってきた。
茶碗によそわれているのはただのご飯。
その上に黒い粒粒が乗っている。
「あー、これこれ、懐かしいですね」
「昔はよく食ったもんだ」
そう言っておじさんは急須から茶碗にコポコポと琥珀色の液体を注ぎ始める。
ふんわりと香る鰹出汁、それに強めの昆布と野菜の出汁。
「これは出汁……じゃなくて、おでんの汁ですか!?」
「おっ、さすがは嬢ちゃん、鼻が利くねぇ。そう、これはおでんの汁だよ。嬢ちゃんもどうだい」
最初からそのつもりだったのだろう、茶碗は3つあり、そのひとつをあたしに勧めてくる。
「僕は早速頂きます」
「あたしもいただきますね」
要するにこれは出汁茶漬け、だけど具は黒い粒粒だけ。
鯛茶漬けのようにヅケにした刺身も、三つ葉も海苔もない、シンプル過ぎる具。
ズッ
あたしがそれを口に含むと、出汁の深い味とご飯の甘味、そしてピリットしたスパイスのアクセントが舌を満たす。
「美味しい!」
あたしの歓喜の声の横で、おじさんと樹木子さんはサラサラとそれを口に入れていく。
「これって……ひょっとして胡椒飯ですか!?」
「そうさ、おじさんが昔よく食べていた胡椒飯さ。最近はご無沙汰になっちゃったけどね」
胡椒飯、それは江戸時代に数多の種類が誕生したぶっかけ飯の一種。
作り方は単純。
ご飯に胡椒をふりかけ熱々の出汁をかける、ただそれだけ。
「おじさんがこいつと出会った60年代は保温機能の付いた炊飯器なんてなくってね。冷や飯を何とかするために作ってたのさ」
「あの時の冬の冷えた身体にこれは染みわたりました。胡椒でポカポカします」
平成に生まれたあたしにとっては当たり前の炊飯器。
だけど、それは日本の戦後復興の中では”三種の神器”とも呼ばれた人気家電だった。
そして、炊飯器に保温機能が付くのは、それよりもちょっと後の話。
きっと、あの時代の労働者も温かいご飯を食べるために、工夫を凝らしていたに違いない。
いや、工夫するのが当たり前だったのかしら。
歴史の教科書には出てこない、そんな少し昔の庶民の業に思いをはせながら、あたしは最後の一滴を飲み干した。
「ごちそうさま。美味しかったです!」
あたしの声の前にちょっと照れくさそうな顔をして、緑乱おじさんも最後の一滴まで飲み干したのです。
もちろん、樹木子さんも。
カレーは飲み物! そしてお茶漬けも飲み物! そして、ぶっかけ飯も飲み物です!




