彼女の異変と彼の異変
◇◇◇◇
それは奇跡にも似た時への間隙。
後に少年は振り返る。
あの時、僕がああしなかったら、少年の大切な人を救うことは出来なかったと。
八岐大蛇と八稚女の息子たち。
彼らが母と再会した日の夜、『酒処 七王子』の看板娘、珠子が倒れた所からこの最後の物語は始まる。
◇◇◇◇
「珠子!」
誰が叫んだのかはわからない。
誰かかもしれないし、全員かもしれない。
だが、全員の心は彼女を、珠子の身を案じる心で一致していた。
「どうしたんだい。いつもは元気な珠子さん、目を開けてくれよ」
「ゆすっちゃダメ! 脳に問題があるかもしれないわ! まずは医者! 人間のでも”あやかし”のでもいいから早く!」
藍蘭の上げた”脳の問題”という台詞は、いつもなら冗談じみているが、今は違う。
「おどきっ! 慈道、早くっ!」
「はい、師匠!」
どこからともなく現れたふたりの退魔僧、築善と慈道が”あやかし”の群れをかきわけ、珠子に札をペタペタと張っていく。
「あ、ありがとうございます。大分楽になりまし、たっ」
「嘘言うんじゃないよ。言葉も発せない痛みがやっと話せるようになっただけのくせに」
築善の言葉に珠子は「へへ」と力なく声を返す。
「嬢ちゃんの身に何が起きてるってんだよ!?」
「説明を! 詳しい説明を求めます!!」
「うっさいね! 気付きもしなかったやつらがギャンギャン言うんじゃないよ!」
「責めないで下さい築善さん。あたしが黙っていたのですし、気付いた方には口止めしたんですから」
そう言って珠子は橙依に視線を移す。
その顔は青い、珠子も橙依も。
「すまぬ。弟たちが取り乱した。だが、推して頼む、説明しては頂けないだろうか」
長兄である黄貴の頼みにふたりの退魔僧は顔を見合わせる。
「いいさ、もう秘密にしとくのも無理だろうからね。話は単純さね、この娘は呪に侵されている。大蛇の呪、それも八岐大蛇の呪に」
「はぁ!?」
大声を上げたのはその八岐大蛇の五男、橙依。
そして、「なるほど父上の呪か」、「親父のしでかしたことが、とんだ因果だ」、「やらかしてたもんな、あん時は」と声を上げたのは別の息子たち。
「そんなはずない! 珠子姉さんは呪にかかっていたなんて全く思ってなかった! 心の中でも! どういうこと!?」
橙依の疑問は当然。
彼の真心参拝は許可が出た対象の心を読む能力。
そして、彼は珠子から『いつでも心を読んでいい』と許可を得ている。
もし大蛇の呪に彼女が侵されていたなら、気付かないはずがない。
「どういうこと!? どうして行方不明の父さんが珠子姉さんに呪をかけてるの!?」
「これは異なる事を。八岐大蛇は平安の世で安倍晴明に討ち取られたではないか」
退魔僧、慈道の説明に橙依の頭は混乱する。
「もっと、その伝説を詳しく!」
「伝説ではありませんぞ、10世紀初頭、四半世紀に渡り平安京を影より支配した妖狐”葛の葉”と妖怪王”八岐大蛇”、その最期は”葛の葉”の不義の子”安倍晴明”を中心とした万を超す退魔僧と陰陽師と侍の軍勢によって討ち取られた。これは退魔に関わる者として歴然とした史実」
橙依は思う、『なにそれ!?』と。
「八岐大蛇の最期は周囲に呪いの瘴気をまき散らしたながら果てたと伝えられています。珠子殿の家系は貴人の代わりに盾となって厄災を受ける人形代の家系。その呪は魂に刻まれ子々孫々へと継がれた。その呪いにより珠子殿の家系は短命」
「何とか呪の発現を抑えられないかあたしたちも努力してたけど、今日までが限界だった。バカだよ、あんたは。思兼神に呪の解き方を教えてもらえば何とかなったかもしれないのに。八稚女の行方になんて褒美を使っちゃって」
「ごめんなさい、でも呪のことはわかっていても、やっぱりあたしはみなさんをハッピーエンドにしたくって……、だから……」
珠子は弱々しい声で呟き、その周囲の者の中には目に涙を浮かべる者もいるが、その中で異彩を放つ者がひとり。
「どういうこと!? 珠子姉さんは自身の呪を自覚していたってこと!? そんなはずはない、だったら僕が気付かないはずがない!」
橙依の記憶の中の珠子の心に呪いの自覚はない。
ここに来て彼は確信する、なにかが、いや、なにもかもがおかしいと。
「佐藤! 君ならわかるよね! 珠子姉さんは呪のことなんて考えたことなかったって!」
橙依が声をかけたのは友達の覚の佐藤。
覚ならば、珠子の心の声を幾度となく聞いているはず、それなら彼女の心に呪いのことが浮かんでいれば気付かないはずないと。
「違うぜ。この女は時折、自身の呪いのことを心に浮かべていた。それはお前も知っていたはず。その上で、お前はこの女の考えを尊重して心で涙していたはずだぜ」
「なにを……、言っているの?
「お前は俺の知っている橙依じゃない……、お前は誰だ!?」
親友のはずの覚から向けられる鋭い視線に橙依は思わず後ずさる。
彼の目には、いつもと同じ姿をした兄弟や友達たちが、別の生物のように見えた。
◇◇◇◇
「てめぇ! いったいどこのどいつだ!? ひょっとして珠子さんの呪が急に活性化したのもお前の仕業か!? 正体を現せ!」
「違う、違う!」
橙依はその兄、赤好に首を掴まれ、その顔を苦痛に歪める。
「『落ち着けふたりとも』」
「黄貴の兄貴……。でもよ、俺はこいつを締め上げてでも珠子さんを……」
「それは早計であろう。我は橙依が我らを謀っているとは思えぬ」
「じゃあ、覚のやつが嘘をついてるってことか!?」
「そうとも思えぬ。だから問おう。橙依正直に答えてくれ」
大蛇の長兄、黄貴は真剣な目で弟に尋ねる。
「其方はじょ、珠子を好いているか? 愛しているか?」
「もちろん! 僕は珠子姉さんのためだったら、この命だって!」
その答えと聞いた黄貴はチラリと覚を見るとふたりは満足したように頷く。
「ならばよしっ! 其方はやはり我の大切な弟! 後に詳しく話を聞かせてもらう。まずは珠子の快方のための介抱が先決! 寝所を用意せよ! 築善殿と慈道殿には引き続き呪の緩和を頼む。我はちょっと外で声を出してくる」
黄貴はそう言って競技場の端へと歩みを進める。
そして珠子を囲む輪から大きく離れた黄貴大きく息を吸い込み、地上へ向かってそれを吐き出した。
権能ある声と共に。
「『日ノ本全ての”あやかし”よ! そなたたちの愛してくれた『酒処 七王子』の珠子が呪に蝕まれ、その命を落とそうとしている! 推して頼む! 珠子を救いたいと願う我らに助力を! 集え! 『酒処 七王子』へ!』」
その声は魂を震わせ、魂へと声を届ける王権の権能のひとつ。
”王の大号令”
それを聞いた日ノ本津々浦々の”あやかし”は思い出す。
『酒処 七王子』での縁を。
あの店で見た数々の笑顔を。
そして、扉は叩かれた。
◇◇◇◇
「ボスぅー! 珠子の姉御の容態はどうだクマー!」
「遅いぞ。今、白澤が診ている所だ」
「そうでスター。しかし、”あやかし”がいっぱいでスターね」
酒呑童子の配下、大江山四天王が号令の名の下に『酒処 七王子』の扉を叩いた時、そこには大量の”あやかし”でひしめき合っていた。
宴会用の別館に急ごしらえの寝所が設けられ、そこには医学や呪いに長けた者が詰めている。
パタム
「白澤! どうだ!? 珠子の様子は」
別館へと続く扉から出てきたのは瑞獣白澤。
病魔を退けると伝えれている”あやかし”。
「ダメじゃ。大蛇の呪が全身に発現しておる。もって数日、早ければ明日の朝にも……」
「何とかならぬか!? 珠子が呪いに侵されていると最初に指摘したのはお前だろ!」
「これでもかなりもった方じゃ。最初に観た時は年が越せるとは思ってなんだ。あの退魔僧たちの腕が良かったのじゃよ」
扉の向こうで珠子を看ているふたりの退魔僧へと視線を移し、白澤は無力感の満ちた溜息を吐く。
「何か方法はないのか!?」
「あるにはあるが」
「あるのか!? ならそれを教えろ!」
「だが不可能じゃ」
「どういうことだ!?」
「あの子々孫々へと魂に刻まれる八岐大蛇の呪を解く方法はひとつ。その身体の一部を触媒にすればよい」
「なら話は単純ではないか! 母様の所に父の、八岐大蛇の抜け殻がある! それを使え!」
生まれ故郷にある八岐大蛇の方向を、西を酒呑童子は指差す。
「不可能じゃといったろ。抜け殻は所詮抜け殻、身体の一部とはとても言えぬ。首とまではいわぬが、最低限牙が欲しい。大蛇の牙は呪いを注ぎ込む部位じゃからな。それを逆に使う」
「珠子の身体を毒腺とみなし、牙を通じて外に出すということか」
「理解が早いの。その通りじゃ」
「そんなの無理やん! 義父はんは平安の世で死んだんやで!」
茨木童子の悲痛な声は正しい。
彼女の認識では八岐大蛇は平安の世で万を超す人間の犠牲と引き換えに討ち取られた。
遺骸は浄火によって清められ、全て灰と化したと伝えれている。
その灰にすら、京の都を何度も疫病に流行らせるほどの呪いが秘められていたとも。
「その通り、だから不可能なのじゃ。八岐大蛇の牙は既に失われておる」
白澤の説明に場の雰囲気は再び重くなる。
「いや、それなら何とかなるかもしれねぇ」
声の主は大蛇の四男、緑乱。
普段は飄々としている男の真剣な声に周囲の意識が集中する。
「知っているだろうが、俺っちは一度過去へ戻ったことがある。迷廊の権能でな。その権能は今は橙依に渡しちまったが、それを返してもらって、もう一度過去へ跳んで父ちゃんの牙を手に入れれば……、嬢ちゃんを救える」
緑乱はそう言うと、いつもの『どっこいしょ』という声とは違い、『やるか』という凛とした声で立ち上がる。
「というわけだ、橙依君。悪りぃが一度は譲った俺の権能を返してくれ。事が終わればもう一度返すからよ」
「……待って。僕も同じことを考えていた。でもその前に話しておくことがある。みんな聞いて」
『酒処 七王子』に数々の”あやかし”が集まる中、ずっと壁にもたれかかって思案を続けていた少年は口を開く。
「……僕の知っている珠子姉さんは呪には、少なくとも八岐大蛇の呪になんて侵されていなかった。今朝、僕が母さんの所へ行くまでは。でも、帰って来た時、姉さんの心は少し変で、そして呪が発現した。ここから考えられることはひとつ」
彼がその時、どこかの怪奇調査団と同じポーズを取ったのは不謹慎だからではない。
いつもと同じ挙動をすることで、少しでも心を平静に、現状を冷静に分析出来るようにするため。
「……みんな聞いて。僕たちの歴史は、何者かによって変えられているんだよ!」
『な、なんだってー!!』と言ってくれたのは彼の数名の親友だけであった。




