楊貴妃と薺(なずな)(その6) ※全9部
◇◇◇◇
足には地面の感覚がある。
重力も感じられる。
背中の痛みは大分引いた。
視界は真っ暗。
なのに俺自身の姿だけはハッキリと見える。
ここが本当に真っ暗闇の中なら、自分の姿が見えないはずなのによ。
間違いない、ここが迷廊の迷宮。
この俺自身の姿が見えなくなった時、それは自分で自分を見失うことを意味し、この迷宮へ融けて消える。
そうなったら終わり。
完全にバッドエンドだ。
そうなる前にみんなを探して脱出しないと。
かつて、おばさんは、緑乱の母親は八岐大蛇へ捧げられた時、自らと八岐大蛇をこの”迷廊の迷宮”に閉じ込めることで倒そうとした。
いや、封じ込めようとした。
結局は失敗したが、それが意味する所は、この迷廊の迷宮は親父クラス、つまり須佐之男と渡り合えるくらいの強さであっても脱出不可能と思えるくらい深い迷宮だということさ。
幸い、俺はおふくろとおばさんに聞いてこの迷廊の迷宮の脱出法を知っている。
そして、この闇の中でも俺には視えている。
俺の足元から伸びる色とりどりの線、絆の線が。
黄、藍、緑、橙、紫、白、黒、灰、朱、桃、鼠、茶、若葉、山吹、水色、空色、瑠璃色、浅紫……と様々。
それは紐のように曲がり、くねり、絡み合い、すれ違いながら形を変えていく。
問題はどれを優先するかだが……。
「全部は無理だろうな」
誰に聞かせるまでもなく呟いた俺の前で、水色と空色と黒色と桃色が消えていった。
マズイ、急がないと。
まずは……やはりここからだろうな。
本当なら真っ先に珠子さんの所に行きたい所が、ま、しょーがないか。
俺は動きを止めている一本の若葉色の線を辿るように進み始めた。
◇◇◇◇
しばらく歩くと、聞き覚えのある声が聞こえ、そして小さい方の緑乱が座りながら泣いているのが見えた。
「うう、ひっく、ひっく、うわーん! ままー! どこー!」
「悪いな。ママじゃなくって」
俺の顔を見た小さい緑乱の顔が明るくなる。
「にーに! うん、にーにーでもいいや」
「”でも”は余計だ、でもは。待ったか?」
「いっぱい。もう、おそいよ」
”いっぱい”か。
おそらく数十分てとこだろうな、疲れて泣き止まないくらいの。
この迷廊の迷宮では時間すら意味がない。
己の中にある体感時間が全てだ。
俺の感覚としては数分だが、こいつとしては数十分。
差はあまりないが、他のやつらと差は広がるだろう。
己の中にある体感時間を見失い始めると。
「にーにー、おせなかだいじょうぶ?」
「ああ、平気さ」
少し痛むけどな。
丈夫に産んでくれたおふくろに感謝だ。
いや、ここは蛇の高い再生力を遺伝してくれた親父に感謝かもな。
「んじゃ、一緒に行こうぜ」
「タマモママのところ? ボク、しんぱいだよ。タマモママないてないかな。さっきは、ごきげんがわるかったみたいだから」
アイツが泣くようなタマかよ。
でも、まだこいつは玉藻ママの事を心配しているのか。
「いや、珠子さんの所さ。パエリアの姉ちゃんのとこさ」
「パエリアママ!」
「そうさ、きっと旨い飯を用意していると思うぜ」
「いくー、りょくらんいくー!」
小さい緑乱はスックと立ち上がり、俺が伸ばした手を握ると、それをブンブン振る。
そういや、まだおふくろと暮らしていたころ、よくこうやって歩いていたな。
おふくろと俺と緑乱とおばさんで手をつないで一本になってさ。
そう思いながら、俺は空いている逆の方をジッっと見る。
おふくろの手の温かさを久方ぶりに感じた気がした。
◇◇◇◇
真っ白な線に沿って進んでいくと、数分も経たずにご機嫌な歌声が聞こえてくる。
あとは、腹の空く匂いも。
「あそれ、ちゃかぽこ、ちゃかぽこ、ちゃかぽこリンっ! ちゃかぽこ、ちゃかぽこ、ちゃかぽこリンっ!」
音源は逆さまになった飯盒の尻をカンカンと鳴らしている女の子。
ま、当然だが当然だよな。
迷廊の迷宮でこんなことをする女の子の心あたりはひとりさ。
「いよう、ご機嫌な珠子さん。今日のメニューはなんだい?」
「あ、赤好さん。待ってました! 今日のメニューはウィンナー汁ライスです!」
「なんだいそりゃ?」
「豚肉の代わりにウィンナーを使った豚汁をご飯にかけたぶっかけ飯です」
「いいにおい、おいしそー、りょくらんぱえる!」
飯盒の横でクツクツと音を立てる鍋を見ると、説明の通、り汁にはウィンナーが浮かんでいた。
「あら、緑乱君までご一緒だったのですね。大丈夫? 痛いとこない?」
「へーき、へーき、りょくらんつよいもん!」
「すごい! えらい!」
面倒見の良い珠子さんに撫でられて、小さい緑乱の顔がにへへと笑う。
「逢えて嬉しいぜ、めぐりあい珠子さん。どうやら、ここへは俺が一番乗りみたいだな」
他には誰もいない、やったぜ、いい感じだ。
「いえ、違いますよ。あたしは最初に橙依君たちと再会しました」
「は!? と、橙依?」
「おい、お前。今『こいつはヤバイ!』と思っただろう」
この声は覚!?
そっか、たちか、まだマシだな。
「あ、佐藤君、おかえりなさい。どうでした? 他のみなさんは見つかりました?」
「いや、散々だったぜ。ほら」
覚の隣から天邪鬼が現れ、後ろを親指でクィと指す。
「まっ先に見つけてくれるだなんて、やっぱ君は私のヒーローだわ!」
「君の清い心の絆が、私の光になった! さあ! このままカーテンコールといこうではないか!」
「くひっ、とっても不安でしたから、もうはなれませぇん」
「……ただいま、珠子姉さん」
その闇から現れたのは橙依。
女の子たちにしがみつかれてハーレム状態の橙依だ。
「おかえりなさい。みなさん」
橙依をチラリと見て、珠子さんは再び調理に戻る。
「やれやれ、騒がしいですね。ですが、無事で何よりです」クイッ
「蒼明さん!」
蒼明の野郎も来やがった。
「おい、お前、今『ここは俺がみんなを見つけ出して称賛される所なのによ』と思っただろう」
しかも覚は余計なことを言い出すし。
「ということは、赤好兄さんにはここがどこかわかっているのですね。教えて頂けませんか?」クイッ
「不思議な空間ですよね。最初は自分の身体しか見えないのに、次に背中の背嚢。しばらくすると眼前に橙依君たちが現れて、そこから見える範囲が広がっていったような感じです。この火も他の方からはどういう風に見えていたのやら」
固形燃料をひとつコロンと火にくべ、考察珠子さんは首をかしげる。
「いいぜ、もう隠すのも意味ないしな。俺は幼い時におふくろと緑乱の母親に聞いて、ここのことを知っていたのさ。ここは”迷廊の迷宮”。光すら、時すら、心すら、魂すらも迷わせてしまう迷宮さ」
「なるほど、得心しました。ここは光ではなく、”意識”で認識する空間なのですね。意識は”心”と言い換えてもいいでしょう」クイッ
「はえぇよ!」
蒼明の理解の速さに思わずツッコミが入る。
「おや? 違いましたか?」
「合ってる、その通りさ。迷いが心から生まれるように、この迷廊の迷宮では迷いがあるものは認識されない。最初に自分自身を認識するのはそういうことだ。自分自身は見失い難いからな。そして次に身につけていたものを認識するのさ」
「あれ? それだと、この炎ってあたしが心が”着火した”って認識したから生まれたものなのですか?」
「そうさ。そして火は熱と光を放つものという意識があるから、サバイバル珠子さんは調理が出来ているのさ」
「ですね。私はここに到着する直前まで、この炎を認識していませんでした。珠子さんと会話して初めて炎や鍋を認識しました。つまり、珠子さんの心に触れるまで認識するすべがなかったということでしょう。これが得心した理由です」
「ん? ど、どういうことです?」
「つまり”心が繋がる”ことで、珠子さんの”心の認識”が私も認識できるようになったということです」クイッ
「おい、てめえら、みんな心の中で『なるほど!』と思っただろう」
俺が考えていた説明よりも遥かに上手い説明を聞いて、他のやつらの納得の声が聞こえる。
くそっ、これだから1を知って10を知るヤツは。
「そういうことさ。こうやってみんなが集まって、心が繋がっていけば認識できる範囲も広がるってわけさ」
「それじゃあ、黄貴様や藍ちゃんさんたちも見つけましょう! でも、どうやったらいいのでしょうか?」
「迷いを捨てて、その相手を”心で繋がりたい”と想いながら進めばいい。逆に自分だけ助かろうと思いながら進めば、誰にも会えずじまいになっちゃうから気をつけないといけないぜ」
「なるほど、私は珠子さんとつながりたいと思っていたから、ここに来れたのですね。得心しました」
「心! 心! 大切な枕詞を抜かさないで下さい!」
くそっ、蒼明のやつまでしれっと珠子さんにアプローチしやがって。
でも、まあそういうことさ。
俺が一番に珠子さんに逢えたんじゃないことが悲しいぜ。
「左様であったか。どうやら知らぬ間に儂の心に忠義の心が芽生えていたようでございますな。殿」
「忠義の心でないなら、即刻裏切って欲しいものだ。この”獅子身中の虫”め」
「黄貴様! 鳥居様! ふたりも来てくれたのですね!」
「ああ、女中の安否を気遣いながら歩いていたら、鳥居がやってきて、そしてここに到達した」
「俺っちもいるぜ。ふいー、思ったより苦労したぜ。ここを通るのは二回目なのによ」
「緑乱さん!」
緑乱も来たか。
すると次は……。
「コタマちゃん! みんないたよ! ほら!」
「わかってるって! あら? それはなに? ソーセージの味噌汁?」
「豚汁がわりのウィンナー汁です! 紫君もコタマちゃんも一緒でよかった! ぐふふ、仲良しでいいですね」
仲良く手をつなぎならがやってきた紫君とコタマちゃんを見て、おせっかい珠子さんが『ぐふふ』と笑う。
その意味は、みんなわかっていたさ。
◇◇◇◇
ズッズズッ、ズズズッ、ハムッハムッ
紫君とコタマちゃんが合流したとこで、ちょうど出来上がったウィンナー汁ご飯をみんなで食べる。
ウィンナーの皮が破れ、そこから染み出した肉の脂が里芋や人参、コンニャクに浸みてうまい。
米との相性もバッチリさ。
「さて、あの時、周囲に居たもので残っている者は……」
「あー、地獄門のそばで戦っていたよっちゃんたちと築善たちは大丈夫だと思うぜ。そいつらは暴走した迷廊の迷宮から外れていた」
「本当か!? 緑乱!?」
「ああ、そいつらは玉藻を追い詰めた時も亡者退治の方を優先していたからな」
緑乱の言葉に黄貴の兄貴はフムフムと頷く。
「すると残りは藍蘭とアリス、酒呑童子と茨木童子、ミタマにおタマに阿環、温羅、鈴鹿御前、それに……」
「黒龍たちなら大丈夫だぜ。今頃は先に現世に戻っているはずさ」
最初に俺から伸びていた絆の線。
そのいくつかは消えた。
だけど、それはその線の先のヤツらが迷廊の迷宮に融けて消えたわけじゃない。
脱出したのさ、一足先に。
「わかるのか!? 赤好」
「ああ、わかるぜ。そして他のヤツの所へ俺なら行ける。俺の権能なら」
「覚醒していたのか!? いつの間に!?」
「少しずつさ。完全に覚醒したって自覚があったのは、ついさっきだけどな」
「それでどのような権能なのです? 禍福でしょうか?」クイッ
「違うね。俺がおふくろから継いだ権能は架橋の権能。心と心、運命と運命、時間と空間、つながれるもの全てに橋を架ける権能さ。幸、不幸が視えていたのは運命の行き先が視えていたからさ」
そう、誰かと誰かの心と心、運命と運命の橋渡しするのが俺の権能。
橋を架けるには土台や素材の調査が必要だからな、それで幸、不幸も視えていたってわけさ。
「この架橋の権能があれば他のヤツらも探し出せる。そいつと繋がりの強いヤツが心にそいつを思い浮かべれば、俺がその心を通じてそこへ繋がるルートが視えて橋が架けられるってわけさ。そうすりゃ少し歩くだけでそいつの下に辿り着ける。鈴鹿御前さんは珠子さんを通じればいいいだろうし、ミタマさんやおタマさん、それに阿環さんはコタマちゃんを通じればいい。藍蘭の兄貴と酒呑童子は俺の心からルートが視ている。兄弟だからな。アリスちゃんは藍蘭の兄貴と一緒だろうぜ。こっちさ」
俺がそう言うと、みんなはズズズッっとウィンナー汁ご飯を平らげ、珠子さんはパパパッと食器と調理道具を片付け、俺たちは出発した。
「ほら、いたろ」
少し歩くと、ふたりのキャッキャした声が聞こえてきた。
見えてきたのは、闇しかないはずの迷廊の迷宮に小高い丘。
さらにその上の小さな家。
「できたわ! このアタシの太極の権能で創ったふたりのペントハウス! ここをアタシたちのニューエデンにしましょ!」
「ええ! この絶対出られない迷廊の迷宮の中で、あたしたちは新世界のアダムとイブになるのね!」
「そうよ! |女&x5AA7;と伏犠になるの! さあ!」
「それじゃあ!」
「「子作りしましょ!」」
「そういうのは帰ってからにしてくれ」
今にもおっぱじめそうなふたりの間に俺は割って入る。
「あら赤好ちゃん、早すぎちゃったわね」
「もっとゆっくりでもよかったのに」
「よかねぇよ! 小さいやつもいるんだぞ!」
ちぇー、と俺たちの輪に入っていくふたりを見て俺たちは溜息を吐く。
さて、次は茨木さんを探すとするか。
きっと酒呑のやつも一緒だろ……。
「どうしました? 赤好さん」
「わりぃ、茨木さんと酒呑は俺だけで迎えに行くわ。ちょっと待っててくれよな」
「えっ!? いったいどういう風の……」
疑問符珠子さんの声を背に受け、俺は迷廊の迷宮の中を走り出す。
そして数分も経たずにふたりを見つけ出した。
「三の兄者ではないか。無粋だな」
「えっ!? 義兄さん!? そんな、ちょっと待ってぇな!」
みんな一緒じゃなくってよかったぜ。
こいつら、おっぱじめやがっていたからな。




