斧沼(よきぬま)の姫とエビチリ(その3) ※全5部
◇◇◇◇
俺っちの前で沼から出てきた女の子が地面に顔を伏せて泣いている。
「くすん、くすん、パクリじゃないもん」
まいったな、そんなつもりはなかったのに女の子を泣かせちまった。
それに、こっちは怒らせちまったみたいだ。
嬢ちゃんの頬がプクゥーって膨れてら。
「んもう! 緑乱おじさんってば、お約束も守れないんですから! ここはあたしに任せて下さい!」
嬢ちゃんはそう言うと、斧沼の姫ちゃんに近づいて肩を抱く。
「わかります、わかりますよ、パクリじゃないってことは。斧沼の姫様はずっと昔からここに棲んでいたんですね。江戸時代以前から」
嬢ちゃんの声に斧沼の姫ちゃんはコクコクと頷く。
「あたしは知っていますよ。イソップ物語が日本に伝わったのは1593年にイエズス会が翻訳して伝えた”伊曾保物語”が最初だって。でも、泉から女神が出て『あなたが落としたのはこの金の斧ですか?』って問うイソップ物語の”金の斧”はその”伊曾保物語”に含まれていないって」
嬢ちゃんの言葉に姫ちゃんの顔をパァァと明るくなる。
「ご存知でしたの!?」
「もちろん! 大切なお金……、いや大切な斧沼の姫様のことですもの。予習はバッチリです!」
「へぇ、そうなのか。そういや俺っちも江戸時代に伊曾保物語は読んだことはあるけど、”金の斧”は載ってなかったっけ。八百と明治の頃に読んだヤツにはあったってのによ」
俺っちが、いや俺が最初に目覚めたのは幕末、そこから八百と旅の途中で読んだ児童書。
それが俺の”金の斧”の寓話との出会い。
伊曾保物語は2周目の歴史で読んだ本だ。
「その通りっ! 日本に”金の斧”のエピソードが初めて到来するのは1875年、明治8年の『通俗伊蘇普物語』の”水星明神と樵夫の話”なのです! ちなみにこのタイトルは原書の”ヘルメスときこり”の訳ですね。ギリシャ神話のヘルメスはローマ名で水星とも呼ばれているので”水星明神”と訳したみたいです。そして明治40年の新訳伊蘇普物語の挿絵でついに泉から現れるのは女神になるんです! 橙依君曰く『……女体化は日本のお家芸』らしいですっ! 余談!」
「おお、すっごいな。さすがは嬢ちゃん。金と飯がからむと博識だぜ」
「スゴイです! 私もそこまでは知りませんでした」
すっかり立ち直った斧沼の姫ちゃんと俺っちがパチパチパチと手を叩く。
「斧沼の姫様、パクリだなんて言われても気になさらないで! たまたま、偶然、同じような話が生まれただけです! むしろ女性が出てくるという点では斧沼の姫様の方がオリジナル!」
「そ、そうですよね。うん、私の方が先! 原点の金の斧!」
金と俺っちが落とした普通の斧を手旗信号のように上下させながら斧沼の姫ちゃんが元気に立ち上がる。
「へへへ、というわけですから、正直で博識なあたしにですね……」
膝を着き、両の掌を上にして嬢ちゃんが斧沼の姫ちゃんに手を伸ばす。
「でもよ、知名度だとイソップの方がメジャーじゃないかい? 正直、俺っちも今の今まで斧沼の姫ちゃんの話は知らなかったぜ」
ピキキッ
ありゃ、また空気が凍ったような気がするぜ。
「う、うわーん! どうせ、私はマイナーもドマイナーですよー! この斧沼だって、もう水が張るのは雨が多い時だけだしー!
姫ちゃんはまた泣いた。
「だから! なんで緑乱おじさんはひと言、多いんですかー!? うぁぁぁーん! せっかくうまくいきそうだったのにぃー!」
嬢ちゃんがまた泣いた。
ごめんな、今のは反省してるよ。
◇◇◇◇
斧沼の姫ちゃんは『くすん、どうせ私なんて』なんてベソかいてる。
ちょっち悪いことしたかな。
「なあ、嬢ちゃん。ここはよ、いつもみたいに」
「ええ、わかってます。このままではあたしの目的も達成できませんから」
俺っちの意を汲んだ嬢ちゃんが斧沼の姫ちゃんへと進み、膝を付いて話かける。
「元気を出して下さい。斧沼の姫様」
「でも、でも、私はもう何度もパクリだの何だの言われ続け、今ではすっかり神力も衰えて。かつては蓮の花が咲き、豊かに水を湛えていたこの斧沼も、今では枯れ沼と水溜まりを繰り返すだけに……」
地名からすると、ここは昔はそれなりの沼だったろう、だけど今は確かに深い水溜まりだな。
「そんなに泣いてちゃ、綺麗な顔が台無しだぜ。姫ちゃんは人間に”正直であれ”と説く”あやかし”だろ」
「はい、その通りです」
「だったら、威厳のある顔か微笑みを湛えた顔じゃなきゃな」
「それはおっしゃる通りですが……」
「安心しな。この嬢ちゃんはそういうのの達人さ。きっと姫ちゃんが笑顔になるような料理を作ってくれるぜ。聞いたことないかい? 『酒処 七王子』の珠子って料理人の話を」
「ああ! 風の噂で聞いたことがあります! なんでもどんな”あやかし”の難題にも誠実に応えてくれる方だとか!」
噂の嬢ちゃんに視線を移し、姫ちゃんの顔がパァァと明るくなる。
「そうです! わたしが噂の姫子じゃなくって珠子ですっ! おっまかせ下さい! パクリという斧沼の姫様への心無き言動を跳ねのける、そんな料理をご馳走しますよ。ですから、上手くいった暁にはですね、その金の斧を、へっへっへっ」
「誠実な方なのですね、己の心に……」
「すまねぇ……」
俺っちはちょっと顔を背けた。
◇◇◇◇
「おっまったせしましたー! 食材を仕入れてきましたよー!」
「おう、早かったな。竈の準備は万端だぜ」
石を積んで作った簡易竈と指さし俺っちは言う。
「ありがとうございます! これで準備はOKですっ!」
「そのビニール袋に入っているのが、今日の食材かい?」
「はい、那珂川のテナガエビです! 道すがら売っていたのをチェックしていたのですよ。今日はこれでエビチリを作りまーす!」
水が入った透明な袋の中に、その名の通り細長い手を持つエビが何匹も泳いでいる。
「泥抜き済のものを買ったので、すぐに出来ますよ。斧沼の姫様、ちょっとだけお待ち下さいね」
「はい、楽しみに待っています」
背嚢から小型のフライパンをいくつも取り出し嬢ちゃんは調理を開始する。
「まずは、綺麗に洗って酒で締めまーす」
新しいビニール袋にテナガエビを入れ、嬢ちゃんが酒をかけると、ものの数分でテナガエビは動かなくなる。
「嬢ちゃん、何か手伝うことはあるかい?」
「それじゃ、この長い手と髭を取って下さい。あたしは背ワタを取りますから」
「頭や他の殻は取らなくていいのかい?」
「ええ、そこはとても重要な部分ですから、そのままで」
了解したとばかりに俺っちがテナガエビの長い手を髭を取っているうちに、嬢ちゃんは背中の殻に包丁を入れ、スッスッと背ワタを楊枝で取り除いていく。
簡易竈の上ではふたつのフライパンが熱を上げ、さらには揚げ鍋の中で油がジジジと音を立てている。
「嬢ちゃん、エビチリを作るだけにしては道具が多くないかい?」
「へへへ、そこはあたしにお任せ下さい。まずは背ワタを抜いたテナガエビの半分をそのまま素揚げしまーす!」
背中に切り込みが入っただけで、まだ頭も殻もそのままのテナガエビが油の中でジュワーと揚がっていく。
「もう半分は多めの油を入れたフライパンで揚げ焼きにしまーす!」
フライパンの中では軽くひたるくらいの油の中でテナガエビがその身を紅く染めていく。
このエビ特有の匂いはいけねぇや。
いやでも喉がゴクリと鳴っちまうぜ。
ゴクリ
ゴクッ
「あら、斧沼の姫様はちょっと待ちきれないようですね。少しだけつまみ食いされますか?」
「ええ、是非!」
「それじゃ、お先にどうぞ。テナガエビの素揚げです。殻ごと食べられますよ」
まだジジジと音を立てるテナガエビの素揚げが姫ちゃんの前に差し出され、彼女はそれを口にする。
バリッ
「ふほっ、ふほっ、まだ熱いです。ですが、おいしい! 殻までパリッとして食べれちゃう」
「うらやましいねぇ、嬢ちゃん、俺っちにも試食させてくれよ」
「いいですよ。はい」
テナガエビの素揚げを受け取った俺っちは、それを頭からバリッといく。
バリリッ、プリッ
おっ!? これは二段構えの食感!
殻はパリッと口の中で崩れ、そこからエビの濃厚なエキスとプリプリの身が舌を打つ。
頭は少し硬いかもと思ったが、そんなことはなく、簡単にバリバリ噛み砕けちまう。
「テナガエビの殻は薄いので、じっくり揚げなくてもパリパリに食べられるようになるんですよ。揚げ過ぎると身は縮んで硬くなっちゃいますが、テナガエビなら短時間の揚げで十分なので、身が硬くならずプリプリのままなのです」
へぇ、そういや下手な店でのエビの殻ごと揚げは、殻と身の間に隙間が空いちまくらい身が縮んじまってたな。
それに比べると、こいつは別格だ。
「さて、一方でこの揚げ焼きの方は油にエビの紅さが移ってきましたよ。この中にはエビの旨味が溶け出ているんです。エビを取り出してっと。緑乱おじさん、このエビの頭と殻を取ってくれませんか」
「いいぜ、ホイッとな」
バリッと紅く色を変えた殻を剥くと、そこからプリンッと身が現れる。
この身も旨そうだが、残った殻も旨そうだな。
「エビの殻からは旨味のエキスが摂れます。この油の半分を隣のフライパンに分けてっと、片方は生姜とネギと酒とガラスープの素で味付けして、最後に豆板醤をたっぷり! そして強火!」
フライパンが竈の一番火の強い所へ移され、そこで紅い油はさらに豆板醤で赤さを加えられてグツグツ音を立てる。
「もう一方は同じように生姜とネギと酒とガラスープで味を整えたら、溶いた卵を加えまーす。ほーら、ふわふわー!」
フライパンの中で卵が厚みのある炒り卵が出来ていく。
「これに豆板醤を少々とケチャップを加え、水溶き片栗粉でトロミを付けまーす! そしていよいよエビチリのメイン! エビを投入!」
嬢ちゃんの手には皿がふたつ。
頭と殻の付いた素揚げのエビの皿と、俺っちが頭と殻を取ったむき身のエビの皿。
「この水分が飛んで豆板醤のバリバリの香ばしい匂いが出てきた方には殻付きの方を! 豆板醤が控え目でケチャップの甘い匂いが漂い始めた方にはむき身を! ザッザッと入れてソースを絡ませて軽く味をなじまたら、完成! そしてかんせーい!」
ふたつのフライパンの中身をそれぞれ皿に盛ると、嬢ちゃんはピシッとポーズを決める。
「これが中華の原点エビチリ! ”乾焼蝦仁”! そしてこっちが日本の人気エビチリ! ”エビのチリソース煮”でーす!」
そのふたつの香りは、素揚げの時よりもずっと刺激的で魅力的だったぜ。
ゴクリ、グー
ゴクン、グゥー
俺っちと姫ちゃんの喉と腹が同時に鳴った。




