彼岸様とすかんぽ(その3) ※全4部
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夢……、夢の中にいる……。
これはきっと珠子姉さんにひどいことを言ったから。
珠子姉さんはただ純粋に僕の思い出の料理を再現しようとしてくれただけなのに、あんなことを言ってしまうなんて。
だからこんな夢を見るんだ。
僕が封印から解かれたばかりの記憶の情景。
母さんの優しい封印に落ちた轟音、そして炎。
後から得た知識によると、太平洋戦争の米国による焼夷弾。
それが僕の目覚まし時計。
状況も理解出来ず、言葉もたどたどしく、炎から逃げるように這い出た僕は半分涙目で母さんを探し彷徨った。
『ボク、どうしたと? 父ちゃんや母ちゃんは?』
『……どこ? 母さんどこ?』
『はぐれとっちゃね。ええとよ、婆が一緒に探しちゃる。実は婆も息子さ探しちょるんよ』
差し出された手を幼い僕は状況もわからず握る。
まるで、自分に差し出された手は全て優しい手であったかのようにギュッと。
『ボク、自分の名前言えるん? 婆に教えちょくれん』
『……とーい』
『ええ名や。さ、いこか。おぶさっちゃり』
僕の記憶の婆は、そう言って幼い僕に背中を向け、まだ曲がっていない腰を降ろす。
言われるがまま、幼い僕はその背中に乗った。
婆の背中は、母さんの封印と同じくらい温かかった。
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『探したぜ橙依! こんな所にいたのか。ほら、忘れたのかい? いや憶えちゃいねぇか。俺っちだよ、俺。お前さんの兄の緑乱さ』
幼い僕が婆と出逢い、ひと月が経ったころ。
ラジオを聞いて大人が泣いて、幼い僕と婆は残暑の中、母さんと婆の子を連日探し歩いていたある日、僕は緑乱兄さんに出逢った。
『なんねあんた!? いきなりウチのトーイに話しかけちょって』
『ああ、婆さんが橙依の面倒を見てくれてたのかい。いやー、助かった助かった。迷惑かけてすまねえ。これからは俺っちが面倒見るからよ。さ、いこうぜ』
緑乱兄さんが幼い僕に手を伸ばすけど、幼い僕はサッと婆の影に隠れる。
『ん? どうしたんだい?』
『……やだ、いかない』
『だそうだよ。緑乱とやら。それにあんた、本当にこの子の家族なんかい?』
婆は幼い僕を守るように間に立つ。
『いやいや、俺っちは正真正銘、こいつの兄だって。なあ、お前さんならわかるだろ。感覚でさ』
そう言って差し出された手から幼い僕は身を引く。
『わかっちょらんみたいだよ。それにね最近は人買いとかの悪い噂も多くってね。あんたもその類じゃなかと?』
『そりゃねぇぜ。いや、ありか……。よっし婆さんよ、それじゃこうしようや』
緑乱兄さんは懐から布巻き財布を取り出し、ポンと婆に渡す。
『こりゃなんかね?』
『金さ。養育費ってやつ。俺っちは橙依が無事ならそれでいいのさ。それに他の兄弟たちの無事も確かめなくっちゃなんねぇ。だからさ、その金で世話を頼むぜ。俺っちは季節が変わったら、また来るとすらぁ。んじゃ頼んだぜ』
この時の緑乱兄さんの行為は明確な育児放棄。
だけど、幼い僕はホッとしていた。
もう少しだけ……、”あやかし”の寿命からしたら僅かな年月、婆と一緒に過ごしたかったから。
その果てに待つ”死”が僕に何をもたらすかを気付かずに。
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そして夢の情景は変わり、季節は何度も廻った。
僕は普通の戦災孤児として人間の社会の中で過ごした。
それでいいと思っていた。
だけど、僕の身体が育つにつれ、婆はどんどん小さくなり、そして婆はただ優しくなるだけの日々。
『そんじゃよ、これが今回の養育費だ。受け取ってくれ』
『いつもすまないねぇ。緑乱さんや』
『すまねぇのはこっちだぜ。旅烏の俺っちじゃ橙依を育てるのは無理だからよ。こんなにうまい飯も作れねぇしな。うん、うめぇ』
そう、あの時の緑乱兄さんも食べていた。
婆の”すかんぽ”料理を。
『まだ兄弟やご両親は見つからんと?』
『ああ、まずは母ちゃんから探しているが、これが難儀でね』
『はよ見つこるとええね』
『だな。そいじゃ、俺っちはまた旅に出るとすらぁ。橙依、駅まで散歩がてらに送ってくれよ』
『……わかった』
あの時の僕と緑乱兄さんが、婆の家を出る。
この頃の僕はもう緑乱兄さんを警戒していなかったし、兄さんが母違いの兄さんだって理解していた。
そして、僕が”あやかし”であることも理解。
最初から。
だからあの時の兄さんがこう切り出したのは自然。
『送ってくれてありがとな、橙依。あと、そろそろ言うべき時だと思うから言うが、お前さん俺っちと一緒に来る気はないかい?』
『……それって、婆をひとりにするってこと?』
『そうだ。お前さんもわかっているだろ。婆さんには死相が出てる。もう長くない、寿命ってやつさ』
あの時の僕もわかっていた。
戦後の混乱期の中で死んでいく人を何度も見たから。
もう、婆は限界だって。
『……ごめん、それは出来ない』
『辛い思いをすることになるかもしれねぇぞ。親しい人間の死に目に遭うってのはよ』
『……それでも、僕は最期まで婆と一緒にいるよ』
『そっか。ならしょうがねぇな』
そう言って、あの時の緑乱兄さんは僕の両肩に手を置き、僕を直視。
『……何の真似』
『ちっとしたまじないさ。メソメソしながら泣くガキを連れていく趣味はないからよ』
『……勇気の出るおまじない?』
『んー、ちっと違うな。前に進めるようになるまじないさ。迷いながらもな』
そうか、今理解した。
この時だったんだ。
僕も知らないうちに緑乱兄さんが僕に権能を捧げたのは。
“迷廊”の権能を。
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兄さんが再び旅に出て数日。
その日はあの時の僕の予想より早く来訪。
朝、婆の”すかんぽ”料理を食べて、登校。
学校から帰ると、テーブルの上には”ぼたもち”。
あの時の、初回の僕はそれをおやつだと思って食べた。
あれ? 婆の味じゃないな? と思いながら。
『おや、橙依くん。おやつば買ってきよんしゃったのね』
『……ん? これ婆が作ったんじゃないの?』
『知らんとよ。きっと彼岸やから隣んとが持ってきてくれしゃたんじゃろ。あとでお礼ば言いな。それよりもこっちゃ来て座りぃ』
あの時の僕は婆に言われるがまま、畳間に正座。
今の僕とは大違いの行儀の良さ。
『……何?』
『今日、銀行さに行ってな、こいつば作った』
婆が差し出したのは僕名義の通帳。
金額は当時としては大金だった記憶。
『……これは?』
『婆に何かあった時、橙依が大人になるための金さね。気にせんしゃっと、出どころはおめさんの兄さやて』
『……婆に何かあるなんて嫌。だから、いらない』
『おめさが受取ろうと受け取らまいと、何かある時はある、ない時はない。そして、いずれ何かある。だから取っとき。困ったら先生に相談するっちゃよ』
何度が押し問答の末、あの時の僕はそれを受け取った。
『さて、婆はひと休みしたら、夕飯の準備さするでな。何か食べたかもんあっと』
『……いつもの”すかんぽ”』
『わかっちゃ。”すかんぽ”ね』
そして、婆は縁側で日光浴。
それがあの日の最期の会話。
やがて日が落ち、あの時の僕は婆に声をかける、『婆、風邪ひくよ』と。
だけど、今の僕は知っている。
その言葉に返事がこないことも。
『婆、ばあ、ばあっ!』
何度呼びかけても、揺さぶっても返事は来ない。
いつもの細い息吹もなく、心臓は鼓動を止め、その身体は夕暮れの温度。
そこが婆の終着点。
あの日の僕はただ泣くだけだった。
頭では救急車を呼んだり先生に連絡しなきゃと思っていたけど、僕はただただ嫌だった。
僕と婆の間に誰かが入ってきて、間を引き裂くのが。
他の死んだ人間と同じように、ただ死者として婆が扱われるのが。
そこから逃げるのも、このままでいるのも嫌だった。
でも、明日には婆の死は知れ渡る。
だから、あの日、僕は……、
”明日なんか来なければいいのに”
そう考えたんだ。
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気が付くとあの日の僕はテーブルに座っていた。
婆は僕の前でゆっくりと食事中。
あの日の僕は、婆の死は夢だと思った。
だけど、翌日、朝に”すかんぽ”を食べて、学校から帰ったら”ぼたもち”があって、婆から通帳を渡されて……。
そして夕方に婆とお別れをした時、僕が涙の中でまた”|明日なんか来なければいい《・・・・・・・・・・》”と思って、再び婆との食事に戻った時、僕は気付いた。
これが僕の”あやかし”の能力だと。
その日が、後に“あの日をもう一度”と名付けた能力が初めて発現した日。
あの日の僕は嬉しかった、これでもう婆と別れずに済むと思って。
この日々の繰り返しの中にずっと過ごせると思って。
…
……
………
あの日から、僕はあの日だけを過ごしていた。
毎日似たルーチンの繰り返し。
そんなある日、あの日の僕はちょっとだけ違うことをした。
気まぐれと気晴らしに。
『……婆、”ぼたもち”があるよ。一緒に食べよ』
『あれ? それどげんしたと?』
ここで『知らない』と言ったら婆は食べず、『隣ん家からもらった』と言えば、隣に婆がお礼を言いに行って嘘だとバレる。
何度かの日々で、あの日の僕はそれを知っていた。
だから、嘘をついた。
『……僕が作った』
『あら、橙依くんが料理するなんて珍しかね。でも、それならちゃんと食べんとね』
『……うん、一緒に食べよ』
隣ん家じゃなく、多分近所の誰かが持ってきてくれた”ぼたもち”をふたりで食べた。
『あら、これ”すかんぽ”がまざっとっしゃんね。おいしか』
『……そう』
あの日の僕は、その”ぼたもち”が最初は美味しかったという記憶しかなかった。
繰り返す日々で僕の感情は消失。
毎回のように流れていた夕方の涙も枯れていた。
『なんか、元気なかね』
『……なんでもないよ』
『なら、こっちゃ来て、頭さここに置き』
婆が示したのは畳間ではなく、縁側での婆の膝。
『……やだよ膝枕なんて子供じゃないんだから、恥ずかしい』
『婆から見れば立派な子供た。ええから、きんしゃい』
パンパンと何度も膝を叩く婆に負け、あの日の僕は婆の膝にゴロン。
『あんた、今日は朝から全然笑っとしゃらんやろ。どげんしたん?』
『……なんでもないって』
『なんでもなかじゃなか。あんた、昨日の晩から全然笑っとしゃらんやろ。何かあったと』
『……なにもなかったよ』
『じゃ、何かあるんやね。婆がもうすぐ死ぬとか』
あの時の僕の顔は驚愕のひと言。
『なんでわかるの!?』
『自分のことやけん、わかっとっしゃよ。今日はあん人とあん子がよう見えるけね。そして婆でもわかることやけん、あんたもわかっても不思議じゃなか』
『婆の息子はまだ死んだと決まったわけじゃ……』
僕と出逢ってから婆は何年も息子を探索。
でも、見つからなかった。
『あれは嘘。本当はわかっちょった。骨も届かず、一枚の通知の紙だけじゃ信じられなくて、ひょっとして帰ってきとらっしゃんかと探してたんやけど、わかっちょったのよ』
婆はそう言って、遠い空を見る。
『じゃけん、あんたを見た時は少し驚きんしゃった。いないはずの息子の幼い時にそっくりやったんけん』
『そんなに似てたの』
『似てた似てた。生まれ変わっちょったんじゃないかと思うくらい。でも、あんたの生まれた時と、あん子が亡くなった時は違う。”これは違う”と何度も自分に言い聞かせちょった。でも、今日で終わり。これであん子に逢いにいける』
膝枕から見上げた婆の顔は逆光でよくわからなかったけど、あの日の僕には笑っているように見えた。
それが少し悲しくて、あの日の僕は涙を流した。
久しぶりに。
『なんね。泣いちょるん』
『……だって、僕は嫌なんだ。婆と別れるのが』
あの日の僕は迷っていた。
このまま婆の悲願を叶えるために明日に進むか。
それとも、僕のわがままで今日を続けるか。
『一人前の男は人前で泣かんもんよ』
『僕はまだ子供って言ったのは婆』
『せやったっけ? 婆は年やから憶えちょらん。まだ子供やとしたら、明日から一人前の男になるっちゃよ』
『婆が死んでも泣けないような男が一人前なら、僕はそんな男になんてなりたくない』
『ちゃう。泣いたらいかんのは人前でや。男が泣くのはひとりの時だけ。涙すらないような薄情もんは好かん。だから、婆は優しい橙依が好きとよ』
婆の顔は今度こそ笑っていた。
『でも、僕は、僕は……』
『その顔は迷っちょる顔やね。どうしたらいいかわからん顔。何が正しいかわからん顔』
婆の言葉にあの日の僕は腕で目を隠しながら頷く。
『ええんよ。正しい道でなくても、そこに誰かが笑っているなら。それはきっとあんたを幸せに導いてくれる。笑顔の先に幸せってのは待ってるもんやけね』
『でも、僕は今日は笑えない……』
『そりゃそうさね。別れってのは悲しいもんやけね。でも、明日に進めば橙依君には新しい出逢いがある。その中で笑顔になれる道を探しんしゃい。このままだと橙依君の幸せが見えんとよ。婆は橙依に逢えたからこうやって笑える。婆は嬉しいんよ。最期に優しい子に逢えて……』
そして、あの日のあの時、僕は泣いた。
ひとりだから。
ひとりになったから。
一人前の男になったから。
迷いながらも明日へ進む姿を婆に見せたいと思って。
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緑乱兄さんが、僕の所へ来たのはあの日から三日後。
『悪かったな。橙依、婆さんの葬式に間に合わなくて』
『……大丈夫。大体ひとりで出来たから』
『その分だと大泣きしたみたいだな。まだ目に腫れが残ってるぜ』
『……大丈夫。ひとりで出来たから』
『そっか、その分じゃ迷いは晴れたようだな』
『……違う。迷いながら行くと決めただけ。笑顔で終われる未来へ』
『そっか。それもいいかもな。経験則だけどよ。そいつも結構楽しいぜ。橙依君』
『……だといいけど』
こうして、僕と緑乱兄さんは旅に出た。
これが今日の夢の終わり。
まだ、旅の終わりは見えない。
でも、少なくとも、珠子姉さんにあんな事を言ったままじゃ、幸せになれない。
だから、僕は今日は珠子姉さんに……。
『橙依君』
そう、こんな声の……。
『橙依君、橙依君』
いつも綺麗で素敵な笑顔の……。
キラキラ輝く色白の珠子姉さんの姿が夢に浮かぶ。
『少し、美化が過ぎませんか』クイッ
そんなことない、これくらい美人で……。
『もう、橙依君ってば!』




